片山富嶽とは何者なのか
他愛もない。鬼女は哄笑した。
どれ程のものか探りを入れるべく、まずは一人で地上に降り立ったが、湖畔の村落には木と藁を重ねて作った貧弱な家があるばかりだ。
雄叫びをあげて、挨拶代わりに一軒踏み倒す。飛び出してきて仰天する住民たちも憐れをもよおすほど粗末な恰好で、過去に襲撃した星と比べても文明レベルは低いほうだ。
逃げ惑う村人らを蹴った土砂で生き埋めにする。子供の手を引いて逃げる夫婦に痰を吐きかけてやると、仲良く溶解して血と骨の混じる肉糊となった。
程なくして、馬に乗った武者が三十騎ばかり駆けつけ、火矢を射かけてきた。
片腹痛さに笑いがこぼれる。とても戦闘欲を満足させてはくれそうにない。
あの〝愛い者〟がいるなら話は別だが、せいぜい趣向を凝らした殺し方で楽しませてもらうとするか。
真夜中の山を横たわる巨人に例えた文豪がいる。
「いつまで寝ているつもりだ」と山へ問いかけてみて、「いつまでだろうなあ」と返事が返ってくる体験をしてみたければ、滋賀県一柳群の東熊山をお勧めする。
片山富嶽は東熊山の麓で生まれた。
体も心も並外れて大きくなったのは、第二の近江富士と称される東熊山を借景に育ったからだとも、悪遮羅大明神の生まれ変わりだからとも噂された。
悪遮羅とは、武芸悪遮羅流の守護神にして、宗家大里逗家の屋敷神でもある伝説の鬼女のことだ。
土地の寺社の古文書を紐解くと、鎌倉時代の春の晩、飛来した流星が東熊山に激突し、中から巨大な鬼女が現れ、大里逗家が守護代を務める一柳村を荒らしまわった。そして夜明け間近、救いを求める村人の祈りに応えた三貴子を祀る鎮守神と東熊山の神の絶大な霊威により滅ぼされたという。
日月星の三貴神から魔物を誅する剣を与えられた大里逗家の姫は、鬼女の首を一太刀で首をはね、胴体は東熊山がその身を投げつけて下敷きにした。
山塊に潰された後も、胴は足掻き続け、首の切断面から呪いの血霧を噴き出し、息の音が止まるまでの数日間、赤い雨が村に降り注いだと伝えられる。
大里逗家では鎮魂も兼ね、その剛強さと生命力を讃えて屋敷神に祀り、やがて不動信仰や山岳信仰とも融合し、村民からも悪遮羅大明神と呼ばれるに至った。
時期を同じくして大里逗流剣術も悪遮羅流と改称、武術にとどまらず忍術や法術の類までを吸収して数派に別れ、現代では近畿圏外にも数多の道場を持つ。
鬼女討伐に最も貢献したのが一族の姫であったため、門下生の中から心技体に傑出した女子が登場した場合、悪遮羅姫の名と天授の霊剣・中道剣を贈る慣例ができた。それは数百年の時を経ても現役の儀式として残され、悪遮羅流の人間、特に女性の門下生にとっては憧れの称号であり続けている。
つまり、生きた称号を授かることは嫉妬の対象となるには十分な理由足り得た。本家の長女なら多少の技量不足は大目に見れても、末の末家である片山の娘では、承服しかねる者が多数いたのも無理からぬ話だったのである。
しかしながら富嶽にしてみれば不当な言いがかりを受けたに等しい。実際、彼女が悪遮羅姫に選ばれたのは純粋に実力であり、天意としか言いようがなかった。
「それを米留おばさまときたら……」
富嶽は山荘の六畳間で仰向けになり、桜花の匂う陣幕の中で行われた寸劇のような大里逗家当主の醜態ぶりを思い出していた。
「あなたを斬ってよいと言うの?」
「はい! 一思いにバサッとお願いします」
初の母・大里逗米留の剣呑な問いに富嶽は元気よく答えた。
悪遮羅姫選定の儀式は、極めて特異かつ単純な実力主義である。四年ごとに、桜の季節に各地域から候補者たる女性門下生を選出、トーナメント戦を行って八名にまで絞る。
当然ながら、順当に勝ち進んだ富嶽とシード扱いの初も含まれていた。
特異とされるのがここからで、最後の試練が中道剣を用いた試し斬りである。それも候補者が何かを斬るのではなく〝斬られる〟のだ。悪遮羅姫を継ぐ女は、我が身をもって悪を遮ることを証明しなければならないというわけだ。
大里逗邸の和館の中庭に、白砂が敷かれ、八人の娘たちが斬首刑に処される罪人のごとく座すと、彼女たちの頭部へ大里逗家当主が中道剣を振るう。
回避は失格扱い。寸前で受け止めるか、ノーガードで受けきるかの二択のみ。
もちろん耐久力より胆力と反射神経を試す斬首の真似事であり、ぎりぎり寸止めにとどめるのが大前提だが、怖いものは怖い。
八名のうち半分は寸前で棄権、残る者も躊躇し、初でさえ脂汗にまみれる中、皆さんの決心がつかぬようなのでと名乗りをあげたのが富嶽であった。
「よい覚悟です」
片山の娘が殺される──内心誰もが思った。
米留夫人は表向きこそ典雅で寛大な女主人を装っているものの、富嶽を嫌悪することにかけては他の郎党らと大差ない。
とても十七の娘がいるとは思えぬほど若く瑞々しい容姿と、180センチの長身を誇る美貌の女丈夫であるが、内面の狭量さは如何ともし難く、ヒステリーを起こすと諫められるのは、入り婿ながらも温和な夫の真喜雄ぐらいなものだ。
中道剣は鬼女退治の逸話を持つだけあって、柄も含めて四尺あまりにもなる長大な直刀である。
武の才能以前に、この剣を振り上げることすら困難なのは承知の上で、愛娘の箔付けのため、悪遮羅姫継承の最大の邪魔者を〝事故〟に見せかけて排除する可能性がゼロとは言えないのだ。
そういった事情を抜きにしても、今日の奥方様は様子がおかしい。中道剣を手にしてから目が真っ赤に充血している。
しかし、富嶽は明らかに殺意を込めての一刀に耐えた。
「――あの世で後悔なさい!」
「あの世⁉」
「お母様⁉」
寸止めする気など皆無の台詞に、初と夫が縁側から身を乗り出した。
他の者は目をそらすか手で顔を覆うかして惨劇に備える。
カンッと竹で岩を打ったような音がした。
皆がおそるおそる視線を戻すと、大刀を頭上に乗せて富嶽が微笑んでいた。
ただ一筋、目と目の間に血を流して。
鉄兜を断ち割る上段を頭蓋で受けきってみせたのだ。
初と真喜雄は、ホッとしながらも肩を落とすにとどまったが、米留夫人は違った。確かな奇跡が起きても、いや奇跡が起きたからこそ大人は往生際が悪くなる。
「認めていただけましたか?」
「認めません! わたしは認めませんよおまえなど!」
「ええ? 話が違いますよ」
「お黙り! どうせ防具でも仕込んでおいたのでしょう! この卑怯者!」
「鬘じゃあるまいし、どこに防具が仕込んでおけるんですか」
「当主の言が間違っているとぬかすのですかあ!」
理屈も通じぬまでに錯乱した米留は、憤怒に燃えて再び刀を振り上げた。
「くたばりなさい化け物!」
「お母様、みっともないからやめて!」
「もうよすんだ米留!」
娘と夫の制止を無視した二度めの斬撃は白刃取りで阻止された。
「どうか冷静に。奥様は私の倍以上生きておられますが、武芸にかけてはあなたのほうがお若い」
祈りにも似た仕草で、柄が夫人の手をすり抜け、中道剣は富嶽の手元へ収まる。
「これにて免許皆伝の印とさせていただきます」
「誰かこの女を倒して! その者に中道剣と家禄を授けます!」
よたよたと縁側へ倒れかかり、女当主が弱々しく吠えた。
家宝と家禄と聞いて、欲の皮を突っ張らせた門人らがいっせいに襲いかかったが、到底富嶽の敵ではなく、中道剣の剣圧だけで振り払われてしまう。
「おのれ泥棒猫ォ!」
米留は土足で屋内へ上がり、今度は猟銃を持ち出してきた。
「殿中だよ米留!」
あわてて真喜雄が彼女の両胸を着衣の上からぎゅっと掴む。
「あなた、こんな時にどこを触っているの!」
「すべては悪遮羅さまの御心だ!」
「あなた離して! 揉まれると力が抜ける……!」
「富嶽くん、早く逃げたまえ!」
「ありがとうございます」
長躯の乙女は陣幕を破って逃げた。
亡妻の遺影を持って納経の旅に出ている父・片山斤吾は出発前にこう言った。
――悪遮羅姫は十中八九おまえに決まるはずだ。本家分家から色々な嫌がらせがあるだろう。どう対処するかはおまえに任せるが、仁慈の心だけは忘れずにな――
自分の後ろ盾がなくなることで娘に危険が及ぶのを心配するどころか、嫉妬に狂う連中の身を案じてさえいたのである。父がこう釘を刺しておかなければ、初らは山中で金剛身を誇示される以上の恐ろしい目に会っていたかもしれないのだ。
ともかく富嶽はこうした展開を想定して、風呂敷包みに荷物一式をまとめており、居候していた大里逗邸の離れから、東熊山の山荘へ籠城と相成ったわけである。
「泥棒猫か……」
奥方様は昔、富嶽の父に惚れていたという風聞は、どうやら本当らしい。
しかし、風来坊気質の斤吾が妻に選んだのは、旅先から連れ帰ってきた氏素性の知れぬ大柄な女、つまり富嶽の母であった。結果、せめて顔だけでも似ている満喜雄と結婚したという噂まで囁かれている。
「私に優しくしろったってできませんわなあ」
意中の男を寝取った女の子供に家宝の剣まで奪われた夫人の胸中を、ある程度は斟酌してやれるだけの分別は富嶽にもあった。
とはいえ、当主がああまで感情に流されては示しがつくまい。
(私も好きな人ができたら、平気で醜態を晒すんだろうか……)
すでに森には結界が張り巡らされていた。入山して最初の晩、淡く光る紐状の物体を梟がくわえて飛ぶのを富嶽の目は捉えた。
常人には不可視の糸で木々を電線のように繋いでいる。悪遮羅流でも魔術寄りの、野生の鳥獣を操る技能者の仕事だ。
もはや気取られることなく出奔するのは至難の業だ。となると、先方の条件どおりの武功をあげて、堂々と東熊山を後にするしかあるまい。
(それに、あの青い目の人にまた会えるかもしれませんしねえ)
昨夕のわずかな邂逅以来、黒頭巾の隙間から覗いた紺碧の瞳は、刹那だけに鮮烈な雷光のごとく富嶽の瞼に焼き付いたままであった。