山に棲まう大女(おとめ)
※ものすごく大雑把ながら作品の舞台の地図を付け加えました。
小枝を踏み折る音で目が覚めた。女性の悲鳴も聞こえた。
木剣を用いた型稽古の後、鬼桜の呼称を持つ大桜の上で一休みするつもりが、いつの間にかウトウトしてしまっていたようだ。
片山富嶽は、首を伸ばして声のした方角を凝視する。
富嶽は猛禽類並の視力を持つ。
視神経を集中させれば7キロ先まで見通すことができた。
東熊山の桜も盛りを過ぎ、葉桜を透かして、数人の若者たちが女性を押さえつけているのが見て取れた。
(霊山で無粋な真似を――)
女性的な感性に乏しいゆえか、しばしば同性から冷たいとなじられることの多い富嶽であるが、人助けをするのは好きなのだ。
山に迷い込んできた自殺志願者やホームレスなどを説得し、時には力ずくでも町の役場の福祉支援課へ連れて行き、その後の生活が成り立つようにしてやったことも一度や二度ではない。
まして現在襲われている女性は、悪夢から引き戻してくれた恩もある。
欠伸してから飛び降りると、花屑が舞い上がった。
枝が密生した木立の中へ分け入っていくのに葉擦れの音さえしない不思議な歩行術を富嶽は心得ていた。あっという間にならず者の宴の現場へ到着する。
「あーもしもし? ありがたい観音さまのお話を一講いかが?」
振り向いた男の顎を撫で上げると梢より高く飛んだ。
他の連中が悲鳴を飲み込み後ずさる。それぐらいお楽しみに水をさした野暮な女は、異様にして偉容であった。
白い着物に濃紺の袴の道着姿で、背丈は優に二メートルを超え、肩幅もがっちり広い。場所が場所だけに山の擬人化のような恰幅の良さだ。
ここまで大柄で野生の気に満ちた女には初めてお目にかかる。加えてアッパー効果は絶大で、数に頼んでも勝算なしと判断するや男たちは逃げ散った。
「霊山を侮辱した責任は取ってもらいますよ」
長躯の乙女はきわめて冷静に、農家の庭先で鶏でも追う要領で男たちを順番に捕まえ、首をひねって失神させる。
念入りに片方の足首を蔓草で縛って宙吊りにしておいてから、泣き伏す被害者に優しい声音を心がけて言葉をかけた。
「もう安心ですよ。この人たちには警察が来るまでミノムシの真似をしていてもらいましょう。お怪我はありませんかな?」
「うう……うわああっ!」
よほど怖かったのか、襲われていた女性は救世主の胸へ飛び込んでゆく。
しかし、片手で突き飛ばされた。帽子が脱げて長い髪が乱れ落ちる。
「ひ、ひどい……」
涙をぬぐいながらの抗議を富嶽は一笑に付した。
「女同士で抱き合う趣味はないもので。第一――」
自分の腹部に突き立った刃物を指さす。
「命と貞操の恩人を刺殺しようとする人とはなおさらです。ねえ、京都の道場の片岡さんでしたっけ? 奥方様の〝試し斬り〟から逃げた中にあなたもいたような?」
正体を見破られた若い女は歯ぎしりした。
まともにぶつかっては勝ち目は薄いからと後輩のゴロツキどもに小遣いを与えてまで一芝居うったのだ。着衣の下に忍ばせた短剣はよく研いであり、刺すタイミングも完璧だったはずだ。
「かなりの演技派ですが下準備が足りない。変装は帽子ひとつ、男どもの服装も登山客にしては適当過ぎます。もしかして利用されていたのは彼らか? 不慣れな女子登山家と山中ばったり出会い、ふと悪心を起こし、親切を装い道案内をしてあげるからと申し出て、藪の中へ連れ込み乱暴に及ぶが、そこを偶然目撃されるという筋書きで……」
腹の刃物を引き抜くと、マッチ棒みたいに折って捨てる。
刺さっていた箇所には衣類に血が滲んですらいない。
「私をおびき出すには成功したが肝心の場面で地金が出た。初対面の人はね、助けてくれたことを感謝する以前に、私の図体にぎょっとするもんですよ。あなたは私のような大女が山中にいると知っていたかのようだ」
解説の途中、八方に棘が生えた暗器が広い眉間に当たって跳ね返った。
「しかも武器を持ちなれている」
「あんた……化け物?」
「ここ最近、違うと言い切る自信がなくなってきました」
必中のマキビシすら通用せず逃走を決めた時、女刺客は間合いを詰められていた。
「さて、どちらの差し金かな? 察しはついていますが」
すでに二十ほどの人数が、散開しながら包囲を縮めつつあることは把握ずみだ。
「どうして、そんなに変わってしまわれたんですか初さん?」
富嶽が声をかけると全員の動きが止まった。
「……デクの棒のくせして神経冴えてんのね」
小学生と誤解されそうなほど小柄な少女が茂みから現れた。
ちょっと意地悪そうな目つきで、黒いタンクトップに、ゆったりした黒いズボン、黄色の帯を巻いて、セミロングの髪の両端に小さな三つ編みを結って耳の側に垂らしている。
彼女につづいて、黒い覆面の忍者もどきが次々姿を見せた。
もどきと呼ぶのは正しくない。富嶽が属する武芸悪遮羅流は忍法とも通じており、交流の中でもたらされた忍術は往時の冴えを失いつつも命脈を保ち続けていた。
短躯の娘はつかつかと歩み寄り、はるかに上背のある女と真っ向から睨み合う。
富嶽とは遠縁の幼馴染であり、本来なら膝を折って出迎えるべき悪遮羅流宗家の御令嬢・大里逗初である。
「狂言で不意打ちを狙うとはあなたらしくもない」
「あたしの発案じゃないわよ。片岡!」
「だって奥様が手段は選ぶなって……」
偽登山客の女は、もごもご言い訳しながら黒装束の群れにまぎれ込む。
「採用しなければいいでしょう」
「あんたが中道剣を持って山に籠ってしまうからじゃない! 何日学校休む気? 高校退学になってもいいの?」
初が三つ編みを振り乱して叫ぶと、両者の間を火花が走った。
「退学はつらいが誰が山に籠城させたんでしょうね。あなたも本家の方々も誰一人、約束を守ってくださらないんですから」
「大里逗家の体面を考えなさいよ。お母様は寝込んじゃって、お父様は看病で付きっきり! あたしが中道剣を持って帰らなきゃ、家族に会わす顔がないのよ!」
「私にだって試し斬りに耐えて皆伝した意地があります」
「こ……この大仏女が……」
ひさしぶりに向かい合うことで富嶽の大きさを再認識できた。
こんな女がいていいのか。まるで衣類に覆われた壁だ。
身長202センチ、体重130キロ、頑丈な骨格に支えられていることを伺わせる厚みのある体形。
短めの髪を真ん中分けにして、鷲に例えられる鋭い目つきと鼻筋が通った顔立ちは、女性にしては少々ハンサム過ぎて、極太のマジックで一気描きしたような印象がある。
ちんちくりんで痩せぎすの自分が文科系的に色気のないタイプなら、富嶽は体育会系の色気ないタイプといえた。それでいて胸元は豊かに盛り上がっているのが面白くない。
加えて、大里逗本家の跡継ぎたる自分を差し置いて、悪遮羅姫を襲名するなど初のプライドが許すはずもなかった。
「悪遮羅姫候補との試合に勝ち残り、中道剣の試し斬りにも耐えた。これ以上、何をやって見せれば皆さん納得していただけるんです?」
嘆息するや富嶽の背後に影が立ち――硬直した。
後ろを取ろうとした相手の喉元には剣尖。鈍重そうな見た目に似合わぬ反応と巧緻、この女が悪遮羅姫に選ばれたのも確かな実力があってこそ。
やはり悪遮羅大明神さまの御意志と受け止めざるを得ないのか……とさすがの初も気持ちが折れかけた一瞬、隙が生じた。
後ろに立った人物の黒頭巾が裂け、シャム猫みたいな青い瞳がのぞいたので、富嶽はついそっちへ気を取られてしまったのだ。
(異人さんかな?)
初は見逃さなかった。帯の下の懐剣を取り、口笛を吹く。
四方八方から凶器が飛んだ。手裏剣、苦無くない、マキビシの類が数百本。
富嶽のほぼ全身余すところなく突き立ち、ぱらぱらと落ちていった。
ことごとく先端が曲がるか潰れるかしている。投擲武器は大女の体表に刺さりはしたものの、肉に抉りこむことはできなかったのだ。
(悪遮羅身!)
初は産毛が逆立つのを覚えた。
悪遮羅身││不動明王の異名でもある悪遮羅の名を継承する者が、獲得すべき最大にして最後の課題、あらゆる攻撃を生身で受けて不動を保つ瞬間的な肉体の硬化。いわゆる金剛身のことである。
それを成し得た者がここにいる。家柄は違えど共に学び共に遊んだ幼馴染が。
「御覧じろ」
富嶽が道着の衿をはだけて右肩を露出させた。
「悪遮羅さまだ!」
「悪遮羅さまのお印が!」
黒装束たちが口々に叫ぶ。
初が引き連れてきた手勢は、いずれも大里逗家の使用人か悪遮羅流の門下生である。それなりに腕が立つ彼らを畏怖させる象徴を大女は誇示したのだ。
(カーン……?)
子供時代に風呂で見た薄く青い痣は、富嶽の成長とともに面積を広げ、今この場において明確な不動明王の種子の形をとった。
「山籠もり中、この梵字が発生しました」
「ああ……」
懐剣を取り落とし、初は膝をつく。
本邸での斬首の儀式に耐えたのは目の錯覚でなかった。
すでに証明ずみのことではあったが、心のどこかで何らかのトリックだと信じたがっていた未練を初は恥じた。
「初さん」
「ななな何よ……!」
誰もが魂を抜かれた面構えの中、初だけがまともな返事をすることで宗家の面目を保つ。
「私が晴れて悪遮羅姫を継承するための交換条件を用意してくださったのでしょう? やり遂げれば学校へも通えるようにしてくれることを。違いますか?」
「そこまでお見通しなら……後日きちんと使者を立てて知らせるわ」
「悪遮羅姫の称号をかけての取引なのですから、武芸とは無関係の力が要求される内容は反則ですよ?」
「勿論よ。後生だから不動さまの種子を引っ込めて」
「何日ぐらいでお返事がいただけますか?」
「三日はかかると思ってちょうだい」
「三日ですか……」
かなり長い。本家としては、絶対に達成不可能な難事を用意しなければならないのだから無理もないが。
「いいでしょう。すべて乗り越えてご覧にいれますよ」
「あなたの武勇で納得させてもらえればいいのよ。だから……だからもう……」
「わかりました。もう日も暮れるので、これでお帰りください」
世が世なら、姫君と臣下の関係であるお嬢様に、両手を合わせて懇願されては仕方なかった。
富嶽は着物の衿を合わせ、同時に巨影も夕闇にまぎれてゆく。
後には無言でそそり立つ大小の古木のみ。
富嶽が去っても初はしばらくは合掌したままうつむいていた。
「……五一、五一!」
「え? 僕に言ってるんですかお嬢」
ささやき声で五一と呼ばれた少年の配下が陽気に答える。
「あんたに決まってるでしょ! あいつ行った?」
「行っちゃいました。気配は微塵も感じません」
「よっしゃあ! 名演技名演技! あっはははははははは……」
汗をぬぐって初は虚勢丸わかりの高笑いをしてみせた。
「失禁してません? 代えのパンツなんか用意してませんよ」
少年は側近ポジションらしくなれなれしい口を聞く。
「しとらんわ! あの馬鹿者、三日も待つとは、まんまとこっちの思う壺にはまってくれたわ! 見てらっしゃい、最強の駒を用意してやるから!」
「それはいいんですけど、富嶽さん以上の使い手が当流に存在するのかな?」
五一が率直かつ現実的な質問を投げかけると笑いがぴたりと止まる。
「探せばいるでしょ、悪遮羅四天王とか……」
「シテンノー? もしかして僕も含まれてたりするんですか?」
初は見るべきものもない方向を見ながら歩き出した。