我が身愛しきを知る者は……
登場人物と地名を一部変更しました。
「諸々の禍事、罪、穢れ有らむをば、祓へ給へ、清め給へ」
祓詞を唱え、足を踏み入れた扉の向こうは、厨子の容積をはるかに超える漆黒と血紅が交雑する世界が広がっていた。
現世と冥界の境目にある異次元空間とでもいうべきか。
暗黒へ身を躍らせた富嶽は、由旬までも落ちてゆく感覚を味わった。
この闇は自分の心の写し鏡だ。底の底まで潜ろう。
無明の果てまで泳がねば忠太は救えない。
ひたすら闇の気流がやかましい。風など吹かぬはずの空間で、やり場のない悲憤が竜巻と化して踊り狂っていた。
誰かの声がする。聴覚よりも脳髄に直に訴えかけてくる。
〝せそんみょうそうぐう……がこんじゅうもんぴ……〟
(観音経――? 彼の声だ!)
虚無の暗流の中、観音の加護を謳う経文は、二人を繋ぐ確かな糸の役割を果たしてくれた。
(あそこに彼の命が!)
不思議なことに傷を負った右目のほうがよく見えた。
視力が増補されたという意味ではなく、生命を一つの熱源として探知できる力が備わったのだ。痛みもきれいに消えている。
忠太の命を表す小さな炎が揺らめく方向へ富嶽は進んだ。
闇をかき分けかき分け、ついに忠太を見つけた。
暗黒と血色に彩られた中空に浮かぶ首。手首を縛る毛髪に少年は吊り下げられ、かすかに動く唇から観音経が漏れている。
二股に分かれた舌先が、白い顎をチロチロくすぐった。
その子に触るな――かっと富嶽の血が煮えたぎる。
「我が祖先といえど人の小指に手をつけるなど以ての外!」
嫉妬上等と霊剣を振り上げ斬りかかった。
中道剣はアシャラに確実な致命打を与えられる唯一の武器だ。鬼女もこれを恐れるからこそ、所有者を狂乱へ導く呪いをかけていったに違いないのだ。
しかし、首には手足はなくとも無数の毛髪がある。
頭足類の触腕のごとく蠢き、絡みついてくるのを次々斬り払うも、手数では圧倒的に不利、とうとう全身に巻き付かれて動きを封じられてしまった。
そのまま意識が飛ぶほどの勢いで振り回される。
「くっ……泥棒猫ふぜいに!」
いつ以来だろう? ここまで膂力で圧倒されるのは?
体力で上回る相手と立ち会うのは初めてではない。
五才の頃からはるか年上の少年たちに混じって稽古するしかなかったのだ。自分以上の巨漢とも何度か 手合わせしたが、すべて完勝してきた。
それが首だけの相手に紙屑同然にいなされるとは。
数秒にも満たなかっただろうが、富嶽は夢へ落ちていった。
まどろみの狭間で鬼女の末路を見た。
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アシャラは焦った。そんな馬鹿な。
こんな辺境の惑星に自分を封印できる魔術的パワーが存在するというのか。
重砲の直撃にも耐えた。太陽より眩しい閃光を放つ爆弾にも耐えた。
不敗不沈を誇る肉体が原始人のまじないごときに。
だが、現に自分は少女の唱える呪文に自由を奪われている。
故郷の星が巨大隕石の衝突により爆散して幾星霜、散り散りになった仲間を探す旅の途中で、アシャラは彗星型の〝城〟を駆る異星人にスカウトされた。
あるレベル以上に文明の発達した惑星から惑星へとさすらい、そこの住人含めて略奪し、破壊の限りを尽くす無法者たち、宇宙海賊、宇宙野盗ともいうべき集団の客分格として迎え入れられたのだ。
つまらん連中だと思ったが、徒労に近い旅を続けるのにも飽きていたので誘いに乗ることにした。純粋に自分の強さを買ってくれたところも気に入った。
用心棒として頼られることと、いつかはあの儚くも愛らしい〝妖精〟に出会えるのではないかという淡い期待で自らを慰め、略奪と殺戮を繰り返す生活も気が付けば千年経過、野盗の長が次なる目標として目を付けたのが地球である。
アシャラはすぐに着陸せよと催促した。何となく妖精がいそうな脈を感じたのだ。いなければ存分に暴れさせてもらうだけだ。
地球に接近すると、縦に長い列島が目視できたので、そこを着陸地点にした。大きな湖に程近い山に城は着陸、圧倒的質量による衝撃で山肌を抉り陥没させた。
まずアシャラが要塞から出陣、雄叫びをあげて下山する。
湖のほとりに、お粗末な藁葺の家が集まって村落を形成している。すでに住民たちは目を覚ましており、家を踏み潰す女巨人を確認するや逃げ惑った。
騎馬武者たちが火矢を射かけてきたが、痰を吐きかけて白骨に変えてやる。
実に他愛ない。例によってこざかしい男どもが向かってくれば叩きのめして、そいつらが命がけで守ろうとした女どもを嬲り殺して楽しめば良い。美しいだけで脆弱な雌など我が種族への冒涜だ。
それぐらいにしか思わなかった星で、まさか返り討ちに会うとは。
辺鄙な村では遊び足りず、より多くの獲物を求めて都へ進撃を始めた時だ。
奇妙な呪文が聞こえ、鬼女は一歩も進めなくなった。
見えぬ鎖で縛られたかのように身動きが取れない。自らを封じた呪文を、この地の民が観音経と呼ぶものだと知るのは倒された後のことである。
全滅した騎馬武者に拝礼して現れたのは一人の娘。
若衆姿で、まだ子供と言ってもいいぐらいの年頃である。
娘は観音経を唱えながら跳躍、アシャラの顔前で抜刀して横殴りに払う。
城塞が浮上し、緊急時の次元移動で逃走するのを、血を噴きながら飛んでいくアシャラの首は見た――おのれ!
利害でのみ繋がっていた仲間である。アシャラが敗れれば見捨てるのは当然だが、こんなことなら出会った時に皆殺しにしておけばよかった。
アシャラの胴はもがき続け、首は呪いの言葉を、この地球の民には理解できるはずもないのを承知で血霧とともに吐き散らした。
〝いつの日か吾の血を継ぐ者が、この星の民に生まれ、災禍をもたらそう〟
結果的にアシャラの旅は地球で終わった。
東の果ての島国で、それまで体験したことのない信仰の奇跡よって滅びた。
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(……しかし、まだ罪を償ったとは言いかねる)
数日の悪夢に関する結論を得た。
宿命通と呼ばれる神通力の一種がある。おのれの前世を知り、さらにその前世まで知り、輪廻転生の過程を知るという。
刹那の夢の中で富嶽は宿命通の片鱗に触れたのだ。
もう疑う余地はない。夢の鬼女はアシャラであり、アシャラこそ悪遮羅大明神の正体だ。
鬼女の行為を嫌悪しながらも同情を寄せていたのは、我が身に流れる彼女の血が、心の奥底に秘められた暗い欲望を刺激したためではなかったか。
無限に近い生命、一蹴りで大地を均し、一息で湖沼を干上がらせ、一飛びで星々の間さえ行き交う力を持ちながら、血族を失った悲しみと無為の歳月の虚しさは察するに余りある。
だが、徒に生ある者を殺め過ぎた。
(私はあなたの怨念を背負って生まれてきたのか?)
鬼女の首から溢れる血流が、雨となって一柳の庄に降り注いだと伝説は、血霧を村人に浴びせることで自分の子種を人類に潜ませ、依り代となるに適した者の生誕を待ち続けるアシャラの遠大な復讐計画だったのだ。
「若先生!」
忠太の声が聞こえた。先に意識を取り戻していたらしい。
毛髪に絞めつけられながら何度も叫んでいたようだ。
「お目覚めになってください! 一柳の人々を救ってください!」
「忠太くん……私に助けを求めているのですか?」
振り回されながら富嶽は尋ねた。
「はい! 湖国の、日本の、私たちの世界を救えるのは若先生だけです!」
涙にむせびながらも少年は凛々しく返答する。
「あなたの言は百万の援軍に値します」
力が湧いてくる。通常の富嶽が十人力なら百人以上に相当する熱い力が。信頼と恋情の大炸裂が拘束を破り、大女は解き放たれた。
闇の鬼面に初めて狼狽の色が浮かぶ。
「見込み違いでしたなアシャラ。私は私怨を晴らすための傀儡にあらず。私の生を生きるためにのみ、この世に根を張った!」
鬼女の髪が数十本の束に分かれ、錐状に捩じれた先端が女剣豪を包み込む。
富嶽は覇気を放出するつもりで観音経を口にした。
「念費観音力、刀刃段々壊!」
髪の棘が折れ曲がる。人の血と混じった末裔の肉体に傷ひとつ付けることも叶わず、触れた端から粉々に割れていった。
「ようやく理解できましたよ。悪遮羅身とは何なのか」
悪遮羅身の究極の目的、すなわち鬼女の悪念に浸食されぬ克己心。刀杖を持たず鬼の力を調伏する信仰、すなわち凄絶極まりない慈愛。
「一刀両断・神逐!」
霊剣による反撃の唐竹割りが鬼女の眉間を断つ。
地獄そのものの口から吐き出されたのは絶叫ばかりではなかった。無数の純白の鳥が羽ばたきながら現れた。
(迦陵頻伽⁉)
鳥たちは皆人の顔をしていた。いくつかに見覚えがある。大桜でうたた寝をしていたときの夢でアシャラに蹂躙された星の人々の顔だ。
もう誰も泣いても怯えてもいない。幸福な純白の光に包まれている。
何かに導かれるように虚空の彼方へ消えてゆく。
涅槃へ向かう魂魄を見送り富嶽は最後の仕上げにかかった。
「逃がすまいぞ」
吐き出せるだけ吐き出した首は黒煙へと変化して闇に溶け込もうとする。
「生身が欲しければ望みどおり私の内へ入れ! ただし、あなたに破壊の愉悦を与えるためではない。あなたの力で正義を成すためだ」
これぞ人間ポンプ、絶倫なる肺活量を以て息を吸い込んだ。気体化したことが裏目に出て、アシャラは富嶽の口へ吞み込まれてゆく。
黒煙は飲み下された後も執拗に暴れつづけ、胃壁を食い破って脱出しようと試みたが、大女は少年と心を合わせ、ひたすら観音経を唱えた。
徐々に抵抗も弱まり、やがて完全に沈黙した。
「……波羅羯諦」
忠太を抱いて厨子の蓋を内側から開く。
富嶽が凱旋すると歓喜の声が出迎えてくれた。
「富嶽! お帰りなさい!」
「信じてたよ富嶽さん!」
「ちっ……」
爪を噛む米留をよそに、初と五一は大いに盛り上がる。
「悪遮羅は倒したの?」
「私の中です」
腹を指さして鬼女の魂を体内に封印したことを説明をした。
「大丈夫なの? 魔物を体の中に住まわせていることになるじゃない」
「確かに心配ですが、まことの守護神に変えてみせますよ。指鬘外道に堕ちたアヒンサでさえ改心できたのです。いわんや一度は神に祭られた者をや」
「うん! さしあたってはめでたしめでたし! 忠太も戻ってきたことだし」
五一が親友の頭を優しく叩くと、忠太は小さく詫びの言葉を口にした。
腕の中の軽い体を富嶽はしっかり抱き寄せる。我が身のように愛おしい。いっそアシャラもろとも体の中へ押し込んでしまいたい。
「今度こそ私を信じてくれますね?」
改めて問いかけられて忠太は、面を上げた。
「信解いたします……」
「まだ私が醜い大人の争いに巻き込まれるのが心配ですか?」
「いいえ……あなたこそ卑湿汚泥に生ずる蓮花です……!」
忠太がまともに話すことができたのはここまでだった。後は富嶽の胸に顔をうずめ、溜めていたものすべてを吐き出すかのように号泣した。
五一が総括的な悪態をつく。
「最初からそう言って、この人の胸に飛び込んでりゃよかったんだよーだ!」
次回がエピローグです。