僕の未来
ぼんやりと意識が浮上する。あの世界は、どこにもない。
真っ暗闇の中、ふよふよと漂う感覚に、あの天使からは逃げられたのか、とぼんやりと思った。死者の世界を見ていなかったら、冷静に自分を受け止めていられなかったら、きっと僕はこんなことは絶対にできなかっただろうと思う。
これで……、本当によかったんだろうか?
答えるものはない。どこまでも続く闇の中で、意識だけがそこにある状態で、道を見失った僕は、もしかしたら、あとはただ消えるだけなのかもしれない。
死者の世界は、難しい。
僕はそういうものだと理解が早かったから、よかったんだろう。死んでからよかったと思うのもなんだか微妙だけど。
欲を言うのなら、もう少し愛実と話をしたかった。
僕の名前を彼女が知っているはずはないんだ。だけど、彼女は僕を『そうちゃん』と呼んだ。
まなみ――。
闇が広がった場所に、ぽ、と小さな光が出現した。ぼんやりとしたそれはなんの形もしていないけれど、僕には分かった。それが、愛実だ……と。
『そうちゃん』
不思議な声。今の僕に耳があるのかは分からない。だけど、その声を感じ取ることができた。
『まなみ?』
『ううん、違うよ。まなみはもういない』
『……きみは?』
『まなみ……だったもの、かな?』
思いの欠片? 確かに、死んだのなら、もう愛実じゃないのかもしれないけれど。それでも、その思いの欠片が愛実なら――。
『……うん。それも正解かもしれない』
僕の考えてることがそのまま伝わるみたいだけれど、不思議だとは思わなかった。
『それにしても、随分、無茶をしたのね』
『無茶だったか?』
呆れたように聞こえるその声に、愛実の表情まで見えるようで、なんだか嬉しくなる。
『そうね。存在を消すなんて、普通は思いつかない』
『逃げる方法が思いつかなかったんだ』
あの天使から。僕自身を消し去れば、きっと追いかけては来られないだろうとは思ったけれど。
『……うん』
今の状態がどういう状態なのかは僕にはわからない。だけど、愛実がいる。それなら、伝えたいことがある。
『まなみ、あの時は……、ごめん』
『なにが?』
『僕が、あの時、ちゃんと愛実の気持ちを優先していれば』
そう、愛実の願いを叶えてやれていたら、愛実は死ななかったかもしれない。
『謝る必要なんてないよ。わたし――まなみはまなみが考えたことを実行しただけだから』
僕は、愛実を助けることができなかったのに、怒ったり、恨んだりしてないの?
『してないよ。ただ……申し訳なく思ってた』
意味が分からない。なにを申し訳なく思うんだろう。
『わたしのこと、心の傷になったでしょう? だから、すぐに会いに行ったの。迷わなかった』
海に行こう、と僕を誘った愛実を思い出した。最後の、ふたりきりのデート。
『その力があって、よかったと思ったよ。ひどいかもしれないけど』
僕が、ずっと嫌っていた力。でも、それがなければ、僕はまなみと海に行くことはできなかった。
『そうか、なら……、よかった』
普通がよかったと、ずっと思っていたけれど、確かに、そう考えるとこの力があったおかげで、愛実と話をすることができたんだ。
意識を愛実に向けると、穏やかな気持ちが、スーッと広がっていく。自分の存在が薄れていくのが分かる。
――君が僕の道なら、僕は安心してその道を進むよ。
『……だめなの』
どうして? 僕はもう死んだんだろう?
『あなたは、まだここに来るべきじゃない』
どういうことか分からなくて、薄れていく意識を必死に保つ。
『待って、愛実。僕は、……』
意識が薄れていく。愛実の声が急激に遠くなって、慌てて、光を探す。
『まなみ、僕は、僕はそれでいいんだ。君と、一緒なら――』
『それはできない。出来ることなら……どうか、もうわたしに捕まらないでほしい』
なにを言っている? それはいったいどういう意味なんだ?
『今なら、まなみがなにを伝えたかったのか、少しだけわかったような気がする。彼女の最後の思いを、あなたに届けられてよかった』
まなみが僕を包み込んでいるような感覚を最後に、意識が薄く広く溶けていく。きらきらとなにかが僕に降り注ぐ。
これは、きっと愛実の欠片だ。最後の最後で、切実な声が意識に刻み込まれるように響いた。
必死で手を伸ばした。だけど、それに触れるものはなにもない。
今回もまた。僕は愛実の手を握ることができなかった。
「ぅ、う……」
視界がぼやける。そのうえ、ズキリと全身に痛みが走って、眉を顰める。上手く声が出ない僕に気づいた誰かが、声をあげる。
「壮介……? おばさんっ、壮介がっ!」
聞き覚えのある声が聞こえて、何度か目を瞬く。
「せんぱ……っ、先輩……!」
「……ぅ」
名前を呼ぼうとしたけれど、口の中に繋がれた管のせいで上手く声が出ない。ぼろぼろと涙を零す後輩の本庄がみえる。ようやく、視界がハッキリしてきた。
ぎゅっと握られた手に力が籠るのが分かった。
「いいんです。話さなくて。すぐ、すぐにお医者さんが来ますから……っ」
時間が経つにつれて、曖昧になるどころか記憶がはっきりしてくる。
僕は……生きているのか。
バタバタと周りが忙しそうに動き回る中、ぼんやりと白い天井を見つめた。
彼女が道なら、僕は道を見失ってしまったということだろうか?
全部が夢だったとはとても思えない。僕は、確かに愛実に会った。あれは、夢なんかじゃない。
もう彼女はいない。それだけは実感として残っているけれど、愛実の思いは、僕の心に刻まれているから。
聞いた話によると、どうやら、僕は一週間ほど生死の境を彷徨ったらしい。
「ったく、車から女の子助けて、お前が死んだら意味ねーだろ。もっとスマートに助けろよ」
「うるさいな。咄嗟だったんだから、どうしようもないだろ」
今日も見舞いと称して、サボりに来た健太郎がりんごを食べながら文句を言う。花瓶の花は今日も綺麗に活けられている。
意識を取り戻して、二週間が経過した。なかなか重症だったようで、まだ退院許可は下りない。
「おまえ……仕事中だろ?」
「んー? まあ、大丈夫だって。俺って優秀だから」
もうなにもいうまい。と、ため息を落としてこめかみを抑えた。
「でもよ」
「ん?」
「ほんと、よかったよ。目を覚ましてくれてさ」
ふいに真剣な表情で俺を見る健太郎に驚いて目を瞬く。
「……悪かったな」
たくさん心配をかけたのだと思う。普段あまり真面目でない健太郎が顔色を変えて心配してくれたわけだからな。大学で出会ったコイツとは不思議と気が合ったんだ。
「おまえがいねーとつまんねーんだから、命は大事にしろよ」
「……ああ」
大切な人たち、か。
正直に言うと、あの時の僕には、誰のことだかさっぱり分からなかった。まなみとの意識が同調した時に感じたんだ。言葉じゃない。だけど、そう言っているんだと分かった。
『生きて――。大切な人たちのために』
愛実の笑顔が脳裏に浮かぶ。あの頃の愛実じゃない。彼女の笑顔が。
まだ僕が生かされている意味は分からない。だけど、少しだけ分かったこともある。僕は意外に、たくさんの人に愛されていたのかもしれない。
母親が、あんなに心配するとは思わなった。駆けつけてくれる友人たちがこんなにいるとは思わなかった。
僕は、いつからかひとりで生きているかのように思っていたかもしれない。だけど、そうじゃなかった。
あの頃の愛実だって、『ひとりじゃなかった』と言っていたのに、僕はすっかり忘れていたんだ。それに気づかせてくれたことに、感謝する。
真夜中の病室、話し終えたおばあさんが微笑んで消えた。
彼女の道が、きっと見つかったんだろう。こうして、誰かがきらきらと消えていく時に、ふと考える。
愛実が伝えたかったことはなんだったんだろう?
僕に生きて欲しいと望んだのはどうしてだろう?
死者が見える力……、もしかしたらと思ったけれど、消えてはいなかった。
病院にいると、死がたくさんみえる。それでも、誰もがここに留まるようなことはしない。ほんの少し話して、満足して消えてしまう人たちは、どこに向かうのだろう?
少なくとも、あの天使のお迎えじゃなければいいなと思う。
死者の言葉や現象は一度片足を突っ込んだくらいではまるで理解はできないけれど、僕は今後もこの力でたくさんの死者と向き合おうと思っている。
い
つか……、またいつか、愛実に会えるときには、胸を張って話ができるように。『ありがとう』と、伝えることができるように。
彼女の望む未来がどんなものなのか僕にはまだ分からない。だけど、僕は前を向く、もう、同じ後悔を繰り返さないために。
まだ見えない未来に向かって、精一杯僕にできることをやろうと、誓う。
だから、また、いつか。
そう呟いた声は、空気の中に溶けていった。
-完-
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