出会い
僕と彼女の物語
けたたましく鳴り響くサイレンを鳴らした車が何台も道路を通り過ぎていく。それを見た人たちがみんな車を追うように振り向く。
少し後ろにはすぐに人だかりができている。もしかしたら大きな事故なのかもしれない。
「事故みたいだぞ」
「あ……、女の子が……」
ざわざわとする中に、途切れ途切れ事故の情報のようなものが入ってくる。
――ああ、またか。
僕は、そう思った。事故現場に行くことなく、反対側に進もうとすると、ぼんやりと遠くを見つめる少女を見つけた。あどけない顔立ちに思わずハッとする。
「――愛実?」
いや、そんなはずはない。
あの少女は愛実よりずっと大きいし、そもそもここに彼女がいるはずがない。だって、彼女はもうずっと前に、亡くなったのだから。
ぼんやりと佇む少女は、遠くを見つめている。周りの人たちも、彼女に気を留めることなく、通り過ぎていく。
そうか、彼女は……。
落ち込みそうになる自分を励ましながら、僕は彼女に声をかけた。
「こんにちは」
「……?」
「ねえ、君はなにがあったか、覚えてる?」
こんな風に声をかけるなんて怪しい人物であることは自覚している。だけど、平々凡々な顔立ちをしている僕は悪い人には見えないだろう。そういう面で、少しだけ自信がある。
「わたし……、なにか、たいせつな、こと」
眉間に皺を寄せて考え込む彼女だけど、どうやら記憶が少し曖昧になっているらしい。
「……突然変なことを言うけど、落ち着いて聞いて」
「?」
「君はもう、この世界の人間じゃないんだ」
黙ったままの少女は僕の言った事が理解できないらしい。まあ、無理もない。分かっているけれど、このままにはしておけない。
「――君は、亡くなったんだよ」
事実を告げると、動揺したように視線を泳がせた。
「どういう……、意味?」
「そのままの意味だよ。君は、死んだ。そして僕は、死者を見ることができる」
少女はその言葉に大きく目を見開いた。
「君の力になるよ」
僕にできることはそんなにないけれど、この少女が消えるまで一緒にいてあげることくらいはできるんだ。
「……なにも、思い出せない」
「そうか、突然の事故だったみたいだから」
死者――思いの残骸、だと僕は思っている――は、自分が死んだことを理解している。
だけど、こういうケースはないわけじゃない。突然の場合は、自分が死んだことを理解しないものもいる。そもそも死者はこんな風に留まったりすることはほとんどない。
現世に留まっているのは、話も通じないような変質してしまった死者だったり、怨念へと変わった死者ばかりだ。そうなってしまっては、僕ではどうしようもない。
だから、こうして自分がなにになったか分からないような……、今回のように亡くなってすぐに見つけるなんて、あまりない。それでも、みつけたのなら、放ってはおけない。出来ることは少ないけれど、全く何もできない訳じゃない。
「行こう。僕が道を探してあげる」
だけど、彼女はその場から動かない。もしかしたら、動けないのかもしれないけど。少し様子を伺うと、またぼんやりと遠くを見つめてから僕に視線を向けた。
「あなたは……? 何者?」
「僕はただのサラリーマンだよ」
「ただの……?」
「まあ、ただ死者がみえるってだけだ。それより君はそこから動けないのかい?」
少女が少し首を傾げて、一歩足を前に出して移動する。
「よかった。動けるようなら場所を移動しよう。ここだとどうしても、ね」
ちらりと周りを見る。まだ人がそれなりに通る時間帯だ。
道路の真ん中で独り言を呟くおっさん……悲しきかな周りからはそう見える。奇異な目で見られるのはやはり慣れないし、静かな場所の方がいいだろう。彼女にとっても。
地縛霊の説得とか、ほんと、哀れな目で見られたもんな……、ふいに過去の出来事が頭を過ぎったけど、それどころではないと、頭を切り替えて、近くにある割と大きな公園を目指す。
ちらりと彼女を見ると、訳が分からないながらもついてきてくれた。訳が分からないからついてきてくれたのかもしれないけれど。
公園の中を進んで、人がいないベンチに腰を下ろして彼女を呼ぶ。
「座る?」
「あなたの言うように、わたしが死んでいるのなら、座れるの?」
歩いているうちに少し考えがまとまったのか、その瞳には光が戻ってきていた。
「座れるさ。まだ、身体が感覚を覚えているはずだから」
ふっ、と笑うと、怪訝そうな顔をしながらも、ベンチに腰を掛ける。ベンチを通り抜けることもなく、普通に座れた。
「ほら、な?」
「……というか、本当にわたしは死んでるの?」
「……うん、残念ながら」
助けられたのなら、それに越したことはないけれど。
「証拠は?」
「んー、そうだなぁ……」
鞄からなにかを出そうと思ったけど、持っていたはずの鞄がない。
あれ? なんでだ?
どこで失くしたかも分からないけど、そもそも今日は鞄を持っていたっけ……?
「どうしたの?」
僕の行動を不信そうに見つめる彼女に、慌てて地面を指差した。
「えーっと、……例えばそこの石、拾える?」
「そんなの当たり前……」
ベンチの下に落ちていた小石を拾い上げようとした彼女の指先が石をすり抜ける。
「えっ」
信じられない。というような顔をしてもう一度小石を拾い上げようとしたけれど、結果は同じだった。
「……」
「……信じた?」
「……」
彼女は黙ったまま、小石から視線を外して僕に向き直った。
「いったい、これはどういうことなの?」
気丈そうに振舞っているけれど、声が震えている。それはそうだろう。僕だってこんな現実を見せるようなことはしたくなかった。見た目はなにも変わらない。ただ、触れることや動かすことができない。記憶がないならなおさらだろう。
「さっき、事故があっただろ?」
「ええ」
「たぶん、あの被害者が、君なんだよ」
それ以外に騒ぎはなかったから、飛び降りとかそういうことではないだろう。突然の事故なら、記憶を失っても不思議じゃない。
「車に……、轢かれたの?」
「何か思い出せることはないかい?」
彼女が少し黙って、考える。
「なにか……、大切な、ことを、忘れている気がする」
「そう。その調子」
「しなくちゃ、いけないことが……」
必死でなにかを思い出そうとしている彼女を見守る。しばらく待ってみたけれど、諦めたようにため息を吐いて、首を振る。
「ダメ……、これ以上、なにも分からない」
悔しそうに顔を歪める彼女を見ながら、胸が締めつけられる感覚を味わっていた。
「名前は?」
「なまえ……」
ふ、と表情が消える。
「――なまえ……」
「そう、君の名前」
ゆっくりと唇が動く。だけど、それは声にならなかった。
「分からない」
「そうか……、無理しなくていい」
ちょっと、厄介かもしれない。そんな風に考えて、ため息を落とす。
「ねえ……なぜ、わたしに声をかけたの?」
彼女の問いに、一瞬だけ言葉に詰まる。
「ただの、自己満足だよ」
死者を救おうとか、そういうたいそうなもんじゃない。僕はただのサラリーマンだ。神様じゃない。出来ることなんてほとんどない。
「どういう意味?」
「きっと僕が放っておいても君は真実に気づくか、なにかを思い出すか……それか、未練を残して縛られるか」
「縛られる……?」
「ただ、そうなるには本当に強靭な意志がないと無理みたいだけどね。僕が出会った人たちの中には、稀にそういう人もいた。自我を持っている人なんて、ほとんどいなかったけど」
本当に、稀にこうして普通に話せる死者が存在する。今回のケースは記憶がないというのがポイントなんだろうけれど。
「わたしはどこへ行くの? 天国? 地獄?」
「それは、知らない」
「えっ?」
「言っただろ? 僕は死者と話ができるってだけのサラリーマンだ。って」
死後の世界を知っている訳じゃない。予想外の言葉だったのか、彼女がジロリと僕を睨んでくる。
「でも、あなたは言った。道を探す。と」
「ああ、それは経験則」
「……?」
「道を一緒に探してあげられるけど、一緒に行けるわけじゃない」
僕は見送って、死者は消える。上手く行った時はよかったと思えたけど、そうでない時もあった。
「そう……、なら、あなたのことを教えて」
「僕の? それよりも、なにか思い出さない?」
「話を逸らさないで」
「いや、僕のことを知ったところで何のメリットもないし、それより君を……」
「わたしが聞きたい」
じっと僕を見つめる瞳に、懐かしい気持ちが込み上げる。無意識のうちに、口からその名前が零れ落ちる。
「愛実……」
「えっ?」
「……っ、ああ、いや、今のは……、なんでもないんだ」
彼女の瞳から、視線を逸らす。死者とは言え、生前の感情がまだ残っている状態だ。それにこの子は今も何も思い出せないらしい。僕の動揺に彼女は怪訝そうな視線を投げてくる。
「……まなみ、って誰?」
「いや、ごめん」
「わたし、まなみって言う子なの?」
「違う。それはない。愛実は……、彼女は、もうこの世界にいないから」
それで理解したらしく、彼女が黙り込んだ。
失敗したな……、そう思いつつも苦笑して誤魔化すことにした。今ここで愛実はなにも関係がない。なのに彼女がピクリと身体を震わせて僕をじっと見つめてきた。
「……大事な、こと」
「えっ?」
「わたしがなにを求めていたのか、その答えをあなたが知っている気がする」
「僕? いや、まさか」
「教えて。まなみって子の事」
有無を言わせないその視線に、僕は言葉を飲みこんだ。その雰囲気に飲まれたのは、この子の力なのか。僕がただの凡人だからなのか。
「……ただの、昔話だよ」
「それでも構わない」
愛実そっくりの表情に、ドキリとする。愛実じゃないってことは痛いほど分かっているのに。その瞳に小さくため息を吐いた。
別に話しても問題はない。だって、この事は他の誰にも伝わることはないのだから。僕の話でなにかが思い出せるのなら、それに越したことはないんだ。
言い訳をするように心の中で決着をつけて、息を吸った。
「……気づいたのは、いつだったろう。この自分の力に」
最初は分からなかった。僕にだけしか見えない人がいるなんて。そもそも区別がついていなかったのだから仕方がない。
「それに気づいた時、僕は逃げたんだ」
「逃げた?」
「……そう、怖かったんだ」
異端児だったんだろう。生きている人となんら変わらない死者は、僕に話しかけてくる。僕はそれに答えていただけだ。端から見れば、誰も見えない子に話しかける僕の姿はきっと異様だったに違いない……と、今ならわかるけれど。
母親からはそんなことは止めなさいと言われ、友達からは嘘つきとからかわれた。
病院にも連れて行かれたけれど、もちろん原因なんて分かるはずもないし、精神的なものを疑われた。それが普通じゃないと分かって、母親の望む普通の子でいるように心掛けるようになった。
「だから……、僕はずっとみえないふりをしていた」
幽霊と死者は違う。死者は、ほんとに生きてる人間と変わらないし、生前の記憶もある。霊は、いろんなものから生まれる。もちろん死者が幽霊に変わることもあるだろう。
詳しくは分からない。誰も、僕の話なんて信用しないし、信じてもらえるなんて思っていない。その気持ちも分からなくもないから、僕は知らないふりをする。
「幼い頃は、誰かと話すのが怖くてね。この人は本当に生きているのか? って、疑ってしまって」
無口な少年時代を過ごした。ひとりの例外を除いて、僕はほとんど話すことはなかった。
「だけど、成長するにつれて、死者の見分けがつくようになってきた。感覚的なものだったけど、ちゃんと区別できるようになったんだ」
「だから、助けるの……? お人好しなのね」
「そうでもないかな。僕はなにも出来ないからね。それに……、ずっと逃げ続けてた。もしかしたら、その間に救える死者もいたかもしれないのに」
みえても、無視をする。消える瞬間を見たこともある。もっと、悪い瞬間も。
「それならどうしてわたしに話しかけたの?」
「……救えるなら、救いたいからさ。ただの自己満足だけど」
「なにかが、あったのね」
そう。きっと彼女が聞きたいのはこの部分だ。
「話したくないんだけど」
「ダメよ。言ったでしょ? それがわたしの記憶を掘り起こすきっかけになる」
「どうして……。君と僕は初対面だよ」
「分からないけど、分かるの」
死者の直感――か。
この世界と切り離されて、感覚が空気に溶けるように鋭くなっていく。その過程に起こる現象……らしい。もちろん僕は聞いただけで、体験したことはない。
いい方向に、動き出している。きちんと自分を受け入れることができれば完全にこの世界から切り離されるだろう。僕は大きく息を吐きだして覚悟を決める。
「分かった。それなら、話そう」
ずっとずっと、ひとりで抱え込んできた彼女――愛実。僕の幼友達の話を。