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青二才日記

作者: 椎名詩音

私には好きな人がいます。彼女に出会えたことは私の人生で並ぶことのない至上の幸福でした。私は学生であり、文学に興味がある、一文学青年です。私の心が休まるのは、こじんまりとした、それでいて洒落ている喫茶店で珈琲を飲みながら本を読むことでした。そんな私の趣味のおかげで私は彼女に出会うことが出来たのです。



「………………ふむ。まぁまぁかな」



今まで読んでいた本を閉じながら、私は冷え切った珈琲を口に運ぶ。熱いとも冷たいともいえない、この微妙な温さの温度がたまらなく私は好きだった。



今まで読んでいたのは、武者小路実篤の「友情」。古の大家に失礼極まりない話だが、私の感性としては、彼の「若き日の思い出」の方が好みだった。同じ野島でも「友情」のような終わり方は私としては好ましくない。などと、学生の分際で評価をするが、作品は読まれるためにあるのだ、誰がどう批評しようと勝手だろう。



時刻はまだ午前十時手前。正午を過ぎたらここを出ようと思っていたが、「友情」が短すぎたのか、たんに私の読書スピードが速かったのかは分からないが、九時入店から一時間も経っていなかった。ちなみに私の他には客はいない。四人掛けテーブルが五つとカウンター席があるが、私は私以外の客が席に居るのを目撃したことはなかった。カウンターの中では、何が可笑しいのか店のマスターがニコニコと微笑みながらグラスを拭いている。オールバックに撫で付けた髪型と顎鬚が渋くマッチしていた。



私は、一度決めたことは意地でも貫き通す主義なので、正午すぎに出ると決めたことは守るつもりでいた。まだ、二時間ほどあるので、鞄の中から「ヰタ・セクスアリス」を取り出した。……私はいったい、何を基準に鞄に本を詰めているのだろう、と少しだけ疑問が湧きはしたが、構わずに読むことにした。勿論、珈琲はお代わりをもらった。ニコニコとマスターは微笑みながら熱々の珈琲を持ってきてくれたが、私の好みは前述どおり、好い加減の温度なのであった。



取り出した「ヰタ・セクスアリス」を捲り、読み始める。と、同時に古風なカウベルが店内に鳴り響いた。思わず、本から目をあげて珍客(店には失礼であるが)の訪問をマジマジと眺めてしまった。



客は、黒い日傘を畳みながら傘立てに差し込んだ。成る程、初夏とはいえ、日差しは強い。日傘は私の目を奪うほど特異な存在ではなかった。むしろ、私の目を奪ったのは、陶磁器の様に白い客の腕。日傘で気づいても良さそうなものだが、私はこの時になってようやく、客が女性であることに気づいた。傘を持つ手から視線は腕へと移り、徐々に上方へと上がっていき、パチリと目が合う。時間にして僅か一秒位のものだったろうが、陳腐な言い方をすれば、時が止まったかのように私には感じられた。



ニコリ、と客の女性は目を合わせながら微笑んでくれた。私はサッと面を伏せてしまう。その間も私の胸は今までに無いくらいの鼓動を刻んでいた。



そのまま、彼女は音も無くカウンター席に座り、「ブラジル一つ」とマスターに注文をした。マスターは何も言わず、ニコニコと相変わらずの笑みで珈琲を淹れている。きっと常連なのだろう。何故だか、そう思った瞬間、私は居ても立っても居られなくなり、妙に恥ずかしさともどかしさ、そして理不尽な怒りが込み上げてきて、席を立った。今このときには決めたことを貫き通すという意地は霧のように消えて無くなってしまっていた。



本を鞄にしまうことなく、私は足早に席を立った。しかし、私は妙にプライドの高い男なのだ。私の内面を気取られるのを恐れ、外面はいつも通りのように振舞う。珈琲代を払うためにはカウンターに近づかなくてはならないが、別段何気ないような素振りでわたしはカウンターまで近づき、財布を取り出すために鞄の中を探った。と同時に鞄の中に入っていた本が一冊、床に落ちる。思うに、原因は片手を封じていたヰタ・セクスアリスだろう。やってくれる、森鴎外め。



バサッと音を立てて落ちた本を拾うために私は屈もうとしたが、それより早く、私の目には白魚のように美しい指が目に入ってきた。その白魚は私が落とした本を拾うと、



「本…………お好きなんですね」



と、落とし主の私に差し出してくれた。思わず、顔を上げてしまい、思ってもみなかった近距離で目が合ってしまう。



私は恥ずかしさで一杯になり、顔を赤らめるどころか、うっすらと涙すら浮かべ、差し出された本を受け取らずに走って店を出た。途中、呼び止められたような気もしたが、私は走った。走って家まで帰った。そして、私は自室の布団に包まり、まるで芋虫の様に自室で転がり続けた。何だと言うのだ、一体、何なのだ。あれは人間なのだろうか。陶磁器のように白い腕。白魚のように細い指。思わず近距離で見てしまった、端正な顔立ち。小さい顔の中に詰まったクリッとした大きな目。愛らしい鼻。紅を引いた唇。まるで西洋の絵画に出てきそうな人ではないか。いや、あの方の美しさは絵画に劣っていない。むしろ、実際しているという点だけでもあの方は絵画や彫刻といった類に勝っている……!



その内、私は転がることに疲れてそのまま眠ってしまった。しかし、彼女は夢の中にも登場し、私に向かってあの愛らしい微笑みを浮かべてくれるのだった。



次に起きたとき、私は彼女は夢の中の住人だったのではないか、と危惧した。つい今し方まで夢の中に彼女は愛らしい微笑みと共に私に安らぎをくれていたが、起きると同時にその姿は消え、私は自室で目を覚ましたのだ。もっともその危惧は芋虫状に包まった布団と私の蔵書(やや大げさだが)から一冊消えていた事から現実のものであると実感し、あの愛らしい微笑みを一身に受けた私は世界で一番の幸福者なのではないか、と私は自室にて小躍りすらしたのだった。



しかし、一晩が経ち冷静になってみると、私はとんでもないことをしてしまったような気がしてきた。まず、私は珈琲代を払っていない。これについては、後で払うとして何とかなるとは思うが、問題は彼女に対して少しばかり間違った対応をしてしまったのではないか、ということだった。一つ一つの行動を思い返してみると私は彼女に対して非常に申し訳無い態度を取っている気がする。会話すらしていないのだ。これには、がっくりときた。昨晩までは小躍りすらしていたのに、今ではこの世の終わりなのではないかと思えてくる。いわゆる天国から地獄へというやつだろう。私は、この世で一番不幸な男であるような気さえしてきた。



そう思うと、私は彼女がお客として来ているかもしれない喫茶店に足を運ぶことが出来ず、自室にて私が取るべきだった彼女に対しての理想的な行動について、ただひたすら考えを巡らすのであった。



とはいえ、人間とは不思議なもので、目一杯反省をすると逆に今度は彼女に会いたいという気持ちが浮かび上がってきた。不思議といえば不思議だが、今ならば先の非礼も詫びることが出来る様に思えるのだ。



翌日、私はいつもの喫茶店を尋ねた。いつものように店内はガラン、と空いていて一人の客も居ない。もしかしたら、彼女がいるかもしれないという淡い期待は淡いまま霧散していった。



マスターに先日の件を詫び、二杯分の珈琲代を払おうとすると、マスターはニコニコと笑いながら私を制した。何といなせなマスターなのだろうか。私はマスターに丁寧にお礼を言い、奥のテーブルに着くと日課の如く本を取り出した。それに合わせてマスターも熱い珈琲をいれてくれる。タイミング的にも非常に嬉しいのだが、私は好い感じの温度が好きなのだ。好意は丁重に受け取って、冷ましてから飲もう。取り出した本は、「伊豆の踊り子」。最早、濫読といった感じだが、私はスタイルを崩すつもりはない。妙に存在感のある踊り子の表紙をめくると、古臭いカウベルが店内に響いた。私は、首の筋を違えるぐらい勢い込んで入口を向くが、入って来たのは禿頭の中年男性だった。ちなみに段ボールの箱を持っているので、搬入の仕事をなさっている方なのだろう。



私は、お目当ての客でないことと、連日の寝不足とで「伊豆の踊り子」を数ページ読んだところでうとうとと船を漕いでしまった。マスターがそっと置いてくれた珈琲にも気付かず、緩やかに時は過ぎていった。初夏の刺すような陽の光も店内までは差し込まず、店内の世を離れたような雰囲気に私は新しい客の訪れを告げるカウベルの音にも気がつかなかった。



目を覚ますと、四人掛けのテーブルの向かいに彼女が座っていた。私はまたそれが現実だとは気がつかず、夢の中の出来事であろうと思い、予行練習のような気持ちで声を掛けた。



「……こんにちは」



「……こんにちは」



微笑み掛けることさえ出来たかもしれない。彼女は先日のように取り乱さない私に安心したのか、ニコリ、と笑って応対してくれた。



「貴方は、この前ご本をお落しになったのですよ」



「えぇ、私は本を落としました。もう、読んでしまった本ですが、中々気に入っていたのです」



「そうでしたか。拾った私が返すのが筋かと思いまして、私が預からせて頂いておりました。……私は貴方に一言謝らなければなりません」



「何でしょう? 貴女に謝られるようなことはないと思いますが」



「いえ、謝らなければなりません。何故かといいますと、私は貴方が落とした本を読んでしまったのです。何の気なしにパラパ眺めていたら、気づくとみんな読み終えてしまっていたのです」



「ハァ、成る程。いや、構いやしません。ところで、どうでしたか、あの作品は」



「あらすじは知っていたのですけれど、私は野島は杉子と結ばれるものだとばかり思っていましたわ」



「そうでしょう、そうでしょう」



……………………。



………………。



………。





「……ふむ、中々かな」



私は、読んでいた一冊の本をテーブルに置き、大きく伸びをした。机の奥から出てきた日記を読み返し、再び蔵書となった「友情」を読み直したが、出て来た感想は十年前と同じものだった。



「あら、何を読んでいたのですか」



ノックの後、私の書斎に身重の妻が大きなお腹を抱えて入ってきた。もう三ヶ月もすれば新しい家族が生まれてくる。



「あぁ……いや、急に読みたくなってね」



私は今まで読んでいた本を妻に手渡す。



「あら、懐かしい……やっぱり野島は杉子と結ばれるべきですわ」



「僕もその意見に賛成だね。物語のラストはやっぱりハッピーエンドの内に終わるべきだ」



ふと、あの頃通っていた珈琲店を訪ねたくなった。今度は三人で一緒に。



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