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極私的俳句論   その19  では?究極の俳句ってなんだろう?

作者: 舜風人

ここでは俳句作りのノウハウを書くつもりはないことを始めにお断りしておく。

切れ字がどうで、字余りは一回だけね、、とか

二重季語はやめようねとか、、そんな小手先のノウハウは

まあはっきり言ってどうでもいいことでしょ?


そんなことよりも、まずは俳句作りよりもその前段階の人間としての、素地?づくりですよ。


まず広汎な芸術。文学への造形を深めることが先決だ。

古今東西の文学も濫読しましょう。

歴史を学び、人巷に逍遙して人間道の諸相を端倪し

人間通になること。

そこから人間としての深く広い洞察力も生まれるだろう。


さらには自然や工芸、絵画、音楽、映画、演劇、等の芸術に触れて

あなたなりの美学を磨くことだ。

それは美意識といってもよいだろう。

自然観といってもよいだろう。

それなくして、、ただ小手先の、、こう作れば俳句はOK みたいなハウツー本読んでも

良い俳句なんて永久に作れませんよ、


さて、、以上の過程であなたが「俺は絵描きになりたい」と思ったら

そっちに進んだ方がいいです。ムリして?俳人になんかならなくて結構ですよ。

「小説家になりたい」と思ったら俳句なんか作らないで小説書いた方がいいです。


というのは、、、


俳句というのは以上のすべてに絶望したというか


以上のすべてをいったん捨て去らないといけないからなのですよ。


俳句というのは、、ある意味、


以上のすべてに失望した人しかやったらいけないと、、私は深く思うのですね。


絵がうまいなら絵描きになったほうが良いですよ、俳句なんか作るよりもね。


以上の諸芸術にすべて失望したというか


それらを越えたというか


もう、遥かな遠くの地平線しか見えなくなったというか


そういう人しか俳句はやったらいけないと思います。


昔から

俳人というのは

どこかハグレ者であり

出家者であったり

隠者であったり

遊行聖人であったり

曲者であったり

放浪者

病人

粋人

数寄者

世捨て人

道楽人

三昧の人


であったりするのが通例だったのです。


(金持ちで社長で、スポーツ万能で、、超健康で、

             俳人なんていう人はいなかったのです。)



というわけで

諸芸術・諸学問・人間界に一切絶望した果ての、、、俳句道です。


みずからをデクノボーと観じ、


諸世界を、、遊行の境と歎じること


その遊行の過程でのほんの余事としての呟きが?俳句なのです。


俳句それだけが目標ではないです。


俳句はあくまでも遊行の余事です。


本来の目標はあくまでも三昧であり


遊行です、


その余事が俳句だったというだけです。



ところで、そうした遊行も

三昧も


初めから無知無学の田夫には


悟れないわけですから


あくまでも最初に述べたように


基礎的な知識芸術学問は必須です。


それを深く研究して後にワケあって


あっさりと?捨てある、


というか学の限界を悟って決別する、


学問・芸術のかなたの世界へ遊行する


諸国放浪の遊行に三昧する、、


そのつれづれに生まれた物が


俳句、、だった、、というのが


俳句の正道なのです。


これ以外は

「俳句もどき」であり


「邪道俳句」なのです。


まあそういう意味では


現代の俳句なんてほとんどすべてが


「俳句もどき」であり


「邪道俳句」ですね。


だから良い俳句なんて皆無です。


後世まで残る俳句なんて現代俳句にはもうないでしょうよ。


今あるのは


「カルチャークラブ俳句」であり


「公民館俳句」であり


『俳句雑誌俳句」でしかないからです。


まあ、ありていにわせてもらえば


こんなもの俳句でなんかないですよ。


こんなところから100年後に残る俳句がうまれるはずがないです。


俳句同人雑誌にしたって


その主催者の「食うため俳句」でしかないしね。


長く同人で会費払い続ければ、


いずれ巻頭俳句の選者になって


というだけのものですからね。



そんな俳句が良い俳句であるはずがないですよ。

俳句同人雑誌は俳人の喰うための生業ですから。


まあいずれにしても


大凡庸に帰るというか


凡愚を守るというか


デクノボーに帰還するというか



そういう浄化作用を経ない限り、


良い俳句なんて永久に作れないでしょうね。


そういうこの私もいまだ俗悪な浮世に浮き沈みするばかりで


一向に悟りきれていませんから


良い俳句が作れないんですよ。


無心


無作為


無為自然


言葉はあくまで自然で


嫌味なく流れて


その語る文章は謎に満ちている、、。


でも


その根底に流れるは


大和心の歌心であり


大和歌の神への讃歌であり


そういう意味であくまでも


純日本的である。


(メリケン俳句ではいけませんよね。)



その俳句は言葉としてはわかるのですが


意味が謎で分からない。



分からないというと全然意味不明かというとそうじゃない。


魂ではわかるのである。


どうわかったの?と問われても

説明できない、


テレパシーで分かるようなものなんです。


そういう俳句が本当の俳句です。


これ以外は


『俳句もどき』でしかないのです。


















































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