中編
後半、直接的ではありませんが下品と思われる描写があります。
今現在、元川 武は会社内三階男子トイレで本人の意思に関係なく何故か美少女戦士に変身中である。
(どうしてこうなった。どうして……。まさかあの婆さんが何かしたのか?)
トイレの個室内に引きこもりながら、延々そんなことがリフレインする脳内。答えの出ない自問自答。しかしこうしていても如何にもならない。今こんな妙な格好の姿を誰かに見られたら不審者扱いで連行されるのは明白であった。
(兎に角こうしていてもしょうがない。タイムカードは打った事だし、鞄も持って来ている。此処を出て何処か誰にも見られない場所に行かないと)
目立つので、材質不明の赤いベストとロンググローブは外して鞄の中に押し込み、厚手の白いホルターネックワンピースだけの姿になっておく。ブーツも今の時期は毎日鞄に入れているタオルで巻いて、更には偶に会社帰りに妻に買い物を頼まれた時用に持っているエコバッグに詰め、トイレのスリッパはそのまま履いて拝借させて頂く事にする。左右に結った髪飾りも下ろして後ろに一つ束ねに。本社であるこの棟ではかなりラフな格好だが、隣接の工場の方の新人外国人労働者が迷子になって此処に来た、と主張すれば行けるかもしれないと、武は気を取り直し、己を奮い立たせた。
(備品倉庫…は駄目だ。扉前に監視カメラが在る。玄関も守衛が居る。ここから角を曲がった先の非常口から屋上に行けば、今の身体なら外に出られるかもしれない。早足は駄目だ。逆に目立つ)
脳内シュミレートしながら逃走経路を割り出してみると、人目に付かない事は構造上ほぼ不可能。今の時間は未だ人が多いので、案外堂々とした方が良いと結論付けた。
同じ三階にある事務所窓口には壁が無く、廊下が丸見えであると言う点が一番のネックだった。そこには本社勤務者のタイムカード置き場が在り、自然と他部署の面々も集う事となる。非常口はそこを通りぬけて行くしか道が無いのだ。
「うわー、工場の新人?凄い綺麗……」
「バイトの子かな?こっちに近付いてくるよ?」
少女の鋭敏な聴覚は、しっかり直属の部下である斎藤と山道がタイムカード置き場前で囁き合う内容を聞きとった。
(大丈夫、想定内、想定内)
しかしただ通り過ぎるだけの心算だった少女、もとい武の思惑とは別方向に話は動きだす。
「如何なさいましたか?事務所の方に御用でしたら、生憎と本日はもう皆退勤しておりますので、代わりにお伺い致しますよ?」
「え?あ、そ、その……」
工場の方から何か所用が在って来たのだろう。そう解釈してにこやかに対応するのは、女性社員の山道の方である。勿論そんな用件なんて無いので、武は脳内で必死で嘘の言い訳を巡らせる。
(そうだ、工場と間違えて来て迷ったと伝えれば……って、あああ!こんな服装の、それも目立つ外見の女の子なんか入口の守衛に呼びとめられるし、其処で工場は隣ですよと指摘されるハズじゃないか!なんで気付かなかった俺!)
さっき考えた嘘が一瞬で没である事に、こんな土壇場で気が付いた武は狼狽しつつも何とか口を開いた。
「そ、ソレならば後日改めましてお伺い致します……お、気遣い有難うゴザイました……」
なんとなく外国人っぽい訛りを交えて返答すると言う小細工も忘れない。
(な、なんとか無難な切り返しが出来たかな?……って、こうなると正門入り口側の方へ戻らなくてはいけないなくなるな)
曲がり角へ戻って元居た男子トイレを通過し、仕方無く監視カメラが内部に設置してあるエレベーター横の階段をとぼとぼと降りてゆく。因みに上の階は資料倉庫で、階段を上って直ぐに監視カメラがある上に普段は鍵が掛かっているので、端から諦めている。長年勤続してきた会社の内部。諦めずにもう一度脱出経路を脳裏に巡らせる。
(どの窓も頭が半分も入らないくらいしか開かない突出し窓だから、却下。第一外から見られたら何と思われるのか。二階は普段仕事している開発や営業、会議の為の諸々のルームがある。まだ残業している人はそれなりに居るだろうが、事務室前よりは呼びとめられる可能性は低いかもしれない)
二階へと降り立つと意を決し、おそるおそる一歩踏み出すと同時、直ぐ横にあるエレベータが開いた。そして中にいた青年が早足気味に普段武の職場である開発二課の部屋の方へと向かい、其の侭扉を開けて未だ居残って居る社員へとこう尋ねるのだった。
「そういえば元川係長ってどこ?靴あるんだけど」
(あれは……相川君!まずい、今日一緒に帰るって昼休みに約束したんだった)
部下の一人である相川の登場に、再び武の血の気が引いた。勿論忘れていた訳ではないが、居ないなら居ないで他の誰かを捕まえて一緒に帰るだろうと思ってそこまで深く気には止めて居なかったのだ。しかし靴がある事に気付かれたのは、なんとかこの場を切り抜け脱出したとしても後で色々とおかしな痕跡を残したままにしてしまっているという事もばれる可能性があると言う事である。相川は未だ若いが開発二課でも良く気の利く優秀で有能な男だった。
「そっか、判らないのか。じゃあお疲れ様。……ん?」
相川が首を傾げつつ踵を返そうとすると、少女が戸惑い気味に立ちつくして居るのに気が付いた。本社に外国人の、それもまだ未成年と思われる少女が来ているのは大変珍しい。気になった点は己に不都合が生じない限り調べてみようと言う性質のこの男は、迷わず歩み寄ってみた。
「如何したの? …ねえ、それ重くない?凄い大荷物だね」
特に他意は無かった。ただ、気になったから、そう尋ねただけである。然し一方の少女、もとい中の人たる武は顔面蒼白であった。こんな不自然にめいっぱい膨らんだビジネス仕様の四角い鞄とエコバッグ。見る人が見ればこれは『元川武の持ち物』であると気付いてしまうかもしれないという点に、今更ながら気付かされたのだ。
(まずい、ばれたらまずい。靴もだけど……あああっ、パニックになって忘れていた!上履きもトイレのロッカーに置いたままだ。それに女の子のバイトがこんな鞄持っているなんて変に決まって居る……!)
既婚且つ元の姿の外見が外見である所為か、なるべく見苦しくなければ良く、ブランドなどに拘る性質でも無い武である。無難な色とデザインの鞄はありがちなそれではあるけれども、女性向けかと言えば答えは否、寄りである。
(うまくこの局面を切り抜けられるかは、五分五分と言った所か……)
そんなピンチをあざ笑うかのように、タイミング悪くその鞄の中から、携帯のバイブ音が鳴り響いた。
「……!!!」
「あれ、電話?僕は良いから出ても大丈夫だよ。」
もし携帯電話を取り出す際に、鞄の中にある元川武の私物を思われる物を検められたら。しかし折角会話を中断して通話をしても良いと許可を貰った形なのに、ここで敢えて断ったら益々何故?と色々返答できない問いかけをされる可能性も浮上する。
逡巡の末、出した答えは。
「……あ、あの、此れ、携帯、チガウの。うっかりスイッチ入ったダケ。だから、大ジョブ。上の階の事務所の人に用、あったの。でももう帰っちゃったから、私も帰るノヨ」
少女は上目遣いで意味ありげに笑って見せつつ、強引に鞄に最低限のファスナーを開け、手探りで携帯電話の電源を切った。
(どんな想像をされるのかなんて考えたく無い。というか考えるな俺……)
相川は一瞬目を瞠ったが、直ぐににこやかに少女へと更に歩みよる。
「ああ、もし駅まで行くんだったら、一緒に帰らない?最近色々危ないからさ。荷物も持つよ?」
「ダイジョブデス。ダーリン、外デマッテマスカラ」
咄嗟に益々酷くぎこちない外国人風日本語っぽい発音で、激しい大嘘をついた。
「……そっか。じゃあね」
途端に相川の声色の中に落胆の色が透けて見えるのに武は、おや、と気が付いた。
(何がダーリンだ俺!……というか、あわよくばナンパする気だったんだな、相川君……)
オッサンとしてはただただ悲しいばかりだった。イケメン部下が社内で未成年少女をナンパ。その事に付いて良識が如何のととやかく言う心算は無い。然しそれより己のこれまでの言動に、何か己の中の大事なものを失った気分でいっぱいだった。
(別に上品な人種を気取ってこれまで生きて来た訳じゃないけどなあ……)
果たして一体相川はこのパンパンに膨れた鞄の中に何が入って居ると想像したのやら。など、下種過ぎて笑えない。というかそういう方向に話を持っていった己に自己嫌悪の嵐であった。つくづく人外婆がこの外見にしたことを武は改めて怨むばかり。
(どうにかして元に戻れないものだろうか。変身用のタイピンは家に忘れて来たし。………あれ?)
一番最初に試すべき事を、すっかり忘れていたと武は気が付いた。