第2話前編 サービス残業で正義の味方やってます
―今宵も赤い少女が月夜を背景に、銀の刃を巧みに繰りて、高速で華麗に舞い踊る。
現在、メタボバーコードハゲ眼鏡男の会社員、元川武46歳は、事もあろうに美少女戦士として深夜の街で活躍中である。正体は勿論家族にも会社にも秘密。
「いってらっしゃい。……ねえお父さん、最近疲れているんじゃない?残業も多いし顔色も良くないし」
お弁当を渡しつつ心配そうに尋ねるのは彼の10歳年下の妻、さつきである。デブハゲな武と比べると偶に親子と勘違いされる、気立ての良いなかなかの清楚な美人で、小学三年生の愛娘の緑も幸い母親似。私生活は意外と幸せでこれ以上を望むべくもない立場。
「何時も有難う。……え?い、いやあ、夏の疲れが今来たんじゃないかなあ。大丈夫だよ、それじゃあ行ってきます」
なお、お弁当を作ってくれる礼を言うのは毎回欠かさない。こういう細かい所の積み重ねが家族仲を良好に保つというのは、長野県で旅館経営をしている武の父と姉の教えである。
(あれから三週間。変身するのは昨日で五回目。結構疲れるものだなぁ。)
何時ものようにバスと電車で一時間掛けて通勤して、繁忙期を過ぎたばかりの今の時期は残業を平均30分程こなし、一週間に一、二度は美少女に変身して化け物退治。日常の後の非日常が"日常"に変わりつつある今日この頃。
(昨日は百華に10秒目を閉じろと言われた後、瞼越しが白く光ったと思ったら知らない場所に立っていた。それから何時も通り命令通り戦って、終わった後辺りを見回したら、駐車場に停まって居た車のナンバーが全部八戸。……あの婆さんは瞬間移動まで出来るのか)
疲労こそ溜まってはいるものの、漸く心に色々考える余裕が出来たのか、ふと電車に揺られながらぼんやりとこれまでの事を振り返ると、色々と疑問やら疑惑があらゆる所に垣間見えている事に気付かされる。
(蘇生、変身、透明化、瞬間移動……全部あり得ない奇跡そのものだ。妖怪の次は神様が現れたのだろうか。ゆびきり様を倒せというが、目的はなんだ?矢鱈と秒間隔であれこれ指示するが、あれは業と此方を急かせて考える暇を与えず、意のままに動かす為かもしれない。それにいつも敵が攻撃を仕掛けはじめても直ぐに反撃はさせない上、先制攻撃は絶対させようとはしない。怪我人が出てもあんまり気遣う様子もない。……判らないことだらけだ)
幾ら考えても答えの出ない自問自答。然し決して逆らおうなどと思わないのは、命を握られている故。愛する家族の為にここは堪えるしかないのである。
「……あれ、しまった。ない……ない!」
電車に乗った所でふと、大事な物を忘れた事に気が付いた。
百華から貰った変身グッズの赤いラインの入ったタイピンが無い。そういえば朝、ネクタイを締めた後に居間に置いておいた携帯が鳴って、其方に気を取られた後其の侭鞄を持って玄関へと向かったのだったと思いだした。落とした訳では無い事に安堵すると同時にいつも基本予告無しの百華からの呼び出しにどう対応すべきかという不安もある。もしかすればあの婆さんの事なので、瞬間移動でなんとか自宅まで取りに来させる位はしてくれそうではあるが。
(まあ、昨日ゆびきり退治したばかりなのに、まさか今日も出るなんて事は無いだろう。)
だがしかし、勿論それで話は終わらない。少し慣れて来たなという時の、ほんのちょっとの油断で痛い目を見ると言う話は、何処の世界でもあるもので。
「元川係長、お疲れ様でした」
「三崎さんもお疲れ様。他の女性社員と一緒に帰るようにするんだよ?」
「はーい。変な妖怪、夏も終わりだって言うのになかなか居なくならないですよねえ。どっか鬼●郎とか陰陽師とかが退治してくれないでしょうか。あれ、でも最近はちょっと一時期より減りましたよね」
「は、ハハハハハ……」
今日の業務を終わらせた後、はす向かいのデスクに座る年若い女性社員のそんな軽口に、勿論まさか目の前のオッサンが妖怪を退治してるんだよなどとは口が裂けても言えずに武は乾いた笑いを浮かべる。とはいえ、俺が退治してるよなどと『正直』に言っても爆笑されて終わりなのは100%確実ではあるけれども。
「それじゃあ俺も帰ろうかな」
そうして何時も通り、同じ時刻に退勤するであろう他の誰か男性社員と一緒に帰宅する前に、男子トイレで用を済ませた後、手を洗って顔を上げて鏡で己の姿を確かめると、目の前で赤茶の長い髪の少女が青い双眸で此方を見ていた。
「……え?」
如何して男子トイレにこんな若い女の子が此処に。そう口にする直前、驚愕の表情を浮かべた少女の姿を見て、漸く武の理解が追いついた。
「う……嘘……だろ?」
(これは俺だ。なんで変身してる?)