第1話 はじまりが唐突なのはお約束
事の始まりは、世間の注目を集める動画が、ネットに出回る約一ヶ月半前に遡る。
(―…全く、いっくら撒いてもしつこいったらありゃしない。このままじゃあコトが大きくなる一方だよ。あいつら、自分達のやらかした事の意味をまったく理解して居やしないんだ。……そうだ、良い事を思いついた。条件を厳しく絞る必要性はあるが、この世界の人間の数を考えたら無理って事は無いだろう。さぁて、早速占ってみるか。)
人の目に付かない様な場所でひとり思案するのは―
それはお盆過ぎたある日頃の事。文房具メーカーに努める会社員、元川 武は職業柄時期柄、目前に迫った学生達の新学期に備えての繁忙期。本日分の諸々の残業を漸く終わらせ、帰路につこうとしていた。
「……ふう、外はまだ暑いねえ。斎藤君、お疲れ様、明日は新商品が工場から届くから宜しく頼むよ」
「係長もお疲れ様です。…あー、これは今日も熱帯夜っすねえ」
夜中十時を回った所ではあるが、空調の利いた社内と比べれば外との気温差は歴然としており、じんわりと汗でシャツが滲む熱帯夜。肥満気味の武はタオルハンカチ片手ににこやかに気さくな部下に挨拶を交わすと、共にあまり人通りの無い駅までの道を歩いてゆく。
彼等はそれなりに世間に名の知れた企業に勤めてはいるが、所属している開発部のある本社は工場の敷地内にあるこじんまりとした築十三年目の三階建て。工場というものは、六本木やら銀座やらの、如何にもな大都会よりも、土地代がそれほど高くも無く、かといって其処まで田舎でもなく交通の便も悪くないような…という都市からやや外れた場所に立っているものの方が多かったりする。武達の会社も、政令指定都市のある駅から五駅離れた、駅から徒歩十五分程度といった場所。
つまり此処最近世間を賑わせている怪奇現象が、如何にも起こりそうな条件下に置かれている。故に、被害を抑えるために会社から出来るだけ一人歩きを避けよとの通達があり、二人連れでの帰路と云う訳なのだった。
…が、しかし。
「……あれ、やっべ。係長すんません。俺、会社に携帯忘れちゃったみたいです。あとちょっとで駅ですけど、大丈夫ですか?」
「んー……まあ、此処まで来れば今日に限って何かあるなんて無さそうだしねえ。気を付けて戻るんだよ?斎藤君こそ帰る時は誰かに付いて行ってもらいなさい」
「はい、お疲れ様でした!……それじゃあ!」
あと五分も歩けば駅につく所であったが、ごくありがちな、ハプニングと呼ぶにも些細な事で会社へと踵を返す斎藤と別れて一人となった武は、少し早歩きで明りの大分消えた七階建てマンションの前を通り過ぎようとしていた。
その瞬間。ほんの一瞬の事。
突如武の脳天に、凄まじい衝撃が走った。
(なんだ?あれ、身体が重い。それに真っ暗だ。…何時の間に眠って居たんだ?)
唐突に途切れた意識が、朧気ながらも覚醒する。然しどれ程の間、どんな理由で倒れていたのだろうかと記憶を辿っても、一向に答えは出なかった。
『―……目ぇ醒ましな。全く、ついていないねぇ、あんた』
老婆の様なしわ枯れた声が、何処からか響いていた。しかし返事をしようとしても、上手く声を吐き出せない。おまけにどんなに立ちあがろうとしても力が出ず、もがくことすら叶わなかった。男の心に、じわじわと不安が浸食してゆく。
(誰だ?何処にいるんだ?)
『この侭じゃ死ぬよ。……あんたさえ良ければ何とかしてやるけどね』
声の主は意外な事に仰向けに倒れて居る武の直ぐ傍らに居て、彼の顔を覗きこむように立っていた。なんとか首を動かしてその姿を視界に捉えるや否や、若し可能であったならば飛び上るほどの衝撃を受けることとなる。
(え?人間じゃ、無い!?でも、なんの生き物なんだ?)
それは仔猫ほどの大きさの、淡い黄緑色に光る動物だった。凹凸の少ないのっぺりした顔に切れ長の赤い瞳、兎のように大きな耳。狐の様な尾が幾つも生えており、何処か神々しささえ纏っていたが、それと同時に不気味でもあった。
(訳が判らない。なんでこんな事になったんだ。)
『あんたはね、飛び降り自殺中の爺さんの足が頭にぶつかって今にも死にそうなんだよ。でも不幸中の幸いだねぇ。このあたし、百華様と契約すれば何とかしてやるんだから。完全に死ぬまで後二十秒。……直ぐに答えな。』
先程からまるで武の心の中を読んだかのように、不思議な獣…百華は現状を説明をするが、何だそれは、ともう一度問いたくなるような酷い内容である。因みにその爺さんは気絶中で足を骨折したが、命に別条は無いらしいとも付け加えられた。お互いに運が良いんだか悪いんだかは判らないが、それより与えられた時間は考える暇など無いも同然。何とか武は顎を縦に動かし、返答を諾とする。すると百華は赤い瞳を細め、何処か満足げに笑っているかのような顔をして見せた。
(ああ、なんだか嫌な予感がする)
『厭だねぇ。そんなに心配する事はないさ。唯、時々あたしの手伝いをして貰いたいだけさ。―ちょっと待ってな。五秒程で元に戻す』
瞬間。武の視界は白一色に染まった。
「―…うぅ…眩し――」
眩いばかりの光に覆われ、気がつけば宣言通り、本当に五秒後に元居た場所で地面の上にうつ伏せになっていた。身体の感覚も元通りで、痛みも無い。むくりと上体を起こすと、傍らには百華の言った通りに気絶している爺さんが倒れているのに気が付いた。己の頭に何処にも傷などない事を手で触って確認しながら、先ず立ちあがろうかとしたその時、上の方から幾つもの視線を感じた。
「ちょっと何か今凄い音しなかった?」
「なんかオッサン二人が倒れてるんだけど」
「今、上から人が落ちてきたの見ちゃった。……ねえ、あれじゃない?」
目の前のマンションの住人が異変に気がついて、窓を開けてベランダから身を乗り出していたのだ。
(この侭じゃまた厄介な事に巻き込まれる。)
そう確信した武は、住人達に向けて大きく手を振ってみせた。
「こ、此処のマンションからこの人が落ちてきましたー!済みませんがどなたか救急車と警察への連絡をお願い致します!」
先手必勝といわんばかり、先にこう宣言をしておくことで、たとえばオッサン二人の無理心中だの、爺さんを突き落とそうとして一緒に落ちただのといった不名誉極まりないあらぬ憶測を立てられる事を防いだのだ。すると二階の住民である武と同世代ほどのふくよかな女性が何か思い出したようで、隣の部屋のベランダに寄ると、隣室住人と大袈裟気味な身振り手振り交えて話し始める。
「ねえ、あれ401号室の大河原さんよ?ほら、こないだ奥さんが死んだ上に失業したって聞いたけど……」
(それは気の毒な。……と言って良いんだろうか。とりあえずそれなら俺は巻き込まれずに済みそうだけど)
そんな具合でマンション住民がベランダ越しに交わす会話内容という思わぬ助け舟もあった上に、程なくして部屋から出てきて辺りを取り囲むマンション住民や近所の野次馬が色々手配してくれたようで、サイレンの音が近付いてきた。やって来た警察の事情聴取でも、武が倒れていた事に関しては直ぐ目の前で爺さんが落ちてきたので驚いて転んだのだと弁明すれば、納得してくれた様で妙な邪推もされず、続く救急車にも怪我はないと告げると(実際本当に無傷)、自宅と勤務先等の主な連絡先を伝えるだけの簡単な物で済み、無事爺さんは病院へと搬送されて行った様だ。しかしそんなこんなで気がつけば十一時前。思わぬ足止めに、思わず長溜息が零れた。
「はぁぁ……大変な目に遭った。……そういえば斎藤君はこの道を通らなかったのか」
忘れ物を取りに会社に戻った部下の姿は辺りには見えない。恐らく疾うに別の道を通って駅に向かったのだろう。でなければ野次馬に混じっていただろうし、騒動に巻き込まれた武にあれこれ尋ねて居ただろうから。とはいえ。
(どこからどう説明すればいいんだ、先程のアレは。)
不思議な生き物に死にそうな所を蘇らせて貰ったが、その代わりに妙な契約をしたのを思い出す。
(若しかしてあの爺さんにぶつかったショックで気絶した際に見た、真夏の夜の悪夢か何かか。)
しかし今現在、バーコード状に禿げあがった武の頭頂部には痛みも傷も出血も、ほんの少しのコブすら無い。若し何かあったとすれば今頃は爺さんともども救急車で搬送されていただろうし、警察からもっと色んな質問をされて居たりした筈だ。男の脳裏に次々湧きあがる疑問と去来する不安を煽るかのように、ざわりと彼の足元を、獣の尾の先で撫でる様な奇妙な感覚が襲った。
「ひっ……!?」
びくりと肩を震わせ、ずれた眼鏡を直しつつ武は恐る恐る足許へと視線を落とした。
『こっちに、おいで。判ってるんだろうねぇ。あんた』
脳に直接響く様な、奇妙な感覚と老婆と思しき声の主は、矢張り先程のあの生き物だった。アスファルトの上に淡く光る、ともすれば風にたなびく草に見えなくもない細い毛の束が、淡い光を湛えながら揺らめいていた。
「確か……百華か?」
周囲に気付かれない様な程小声で問えば、光の尾は先程よりやや大きく揺らめいて見せる。
『そう。早速だけど、やって欲しい事がある。……契約だろう?折角運良く命が助かって良かったよねえ。』
「けい……やく」
(なんだこれは。……なんて不気味な感覚なんだ。)
外気は熱気を帯びている筈なのに、武の全身は酷く震えた。嫌味な程含みを持たせた物言いと共に心臓を鷲掴みにして針でつつきまわした様なひどく厭な感覚。それはつまり逆らう事は即ち……と確信させるのに十分で。おいで、と誘われる侭、地面を照らす僅かな光を纏った毛の束の後を見失わない様に男は早足で必死で付いてゆく。やがてやって来たのは、駅にほど近いが人気の全く無い、潰れた店の並ぶ一角。そこで百華は動きを止め、地面の下から幾つもの尾を揺らめかせながら漸く先程と同じ姿を現すと、振り向いて赤い瞳で武を見た。
「此処なら大丈夫そうだね」
相変わらずののっぺりとした顔に浮かぶのは、にたりと笑って居る様な、チェシャ猫めいた笑みの形の目許。それと、脳に直接念を伝えるでなく普通に喋る時に動く口の形はどこか、妙に人間めいていた。
「百華、俺は……何を如何すればいいんだ?」
「今は時間が無い、此処から先はまず姿を消してから付いて来て貰うよ。あと64秒間は絶対ばれないのを確認済みだから安心していい。」
「……は?」
なんだそれは。そう問う間もなく一瞬の内に武の姿は透明になる。
「な、何をしたんだ!俺が消えたぞ?」
「いいかい?よぉくお聞き。あんた、今世間で噂のゆびきり様って呼ばれている化け物を知って居るだろう?あんたにゃそいつらを倒して貰いたいんだ。勿論丸腰だなんて言わないし、相応の武器を使って貰う。此れから先、そいつらに目を付けられて狙われる危険が伴う大変な仕事だからね、姿も誤魔化す事にする。」
「そんな無茶な!あれは自衛隊にも警察にも如何にも出来ないって話じゃないか。こんなオッサンに、なんでそんな」
「強いて言うなら、あんたに希望を見出したって所かね」
(嘘だ。絶対に)
透明な姿だが思わず首と手を横に振って即座否定した。武は自他ともに認めるごく普通の中年男であり、そんな事に己が相応しい人間だなんて微塵も思ってなどいないのだ。
(しかし拒否権も無いし、命も握られている。しかし死にそうな所を蘇らせたり一瞬で姿を消す事が出来たりする以上、きっと何か凄い事が他にもできるのは確かだろう。あれ?でもこんな奇跡みたいな事が色々出来るのに、なんで百華は自分でゆびきりを倒さないんだ?……いや、きっとそれが出来ない事情が在るんだろう。うん。)
そんな武の心情など全く微塵も気にするそぶりも無く、百華は何処から取り出したのか、赤いラインの入った銀色のネクタイピンを武へと放り投げた。
「コレ付けて。荷物も透明になった侭にしておくから、その辺の判り易い場所に置いときな。……!この気配は」
ぴくり、と不意に黄緑色の長い耳と尾をぴんと立て、上空を見上げた。
「やっぱりね……!此処から100メートル先、駅の西口前の雑居ビル屋上……来る!今からこう唱えるんだ、『希望の星よ、今此処に』そしたらすぐ行くよ!」
「なんだこれ、タイピンか?…って、ま、待ってくれ……!『希望の星よ、今此処に』」
再びほそい毛の束の姿になって、大急ぎでついてこい、と地面を滑る様にして駅側へと向かってゆくその後ろ姿を(とはいっても今の百華は前も後も良く判らない姿だが)武は言われるが侭にタイピンを身につけを唱えながら慌てて付いていった。
(いつもよりも身体が軽い。走っても全然苦しくないなんて。……変身ヒーローみたいにでも変身したのか?)
更に付け加えるならば、二人は普通の人間ではあり得ない程の高速で疾走していた。切符売り場の前に立つ通行人の肩に少しぶつかったかと思えばするりと幽霊の如く通過して、瞬く間に屋外に階段のあるビルの屋上へと柵を乗り越えながら昇ってゆく。
「ゆびきりは何処だ?百華。……あれ?」
しかし其処には企業宣伝の看板が在るだけで、目当ての黒い妖怪の姿など居なかった。
(声がおかしい。かなり高い?)
声の出かたに違和感があった。それに視点もいつもよりも少し低い。姿が見えないので武には今、いったい自分がどんな状態なのか確かめる術がなく、戸惑いながら喉元を抑える。全速力で走ったのに碌に息苦しくないのも奇妙だった。
「看板の後ろに隠れてそっとあそこを見な、ほら」
「……あ!あれか!?」
細い毛が指し示す二棟離れたビルの屋上。小型の真っ黒な獣が、若い男に今まさに襲いかからんとしていたのが見て取れた。
「……な、何だよこれ……!誰か、誰かた、たすけ、助けてくれ、いま、俺動けねーんだ!!……うわああああああああぁぁぁあああ!」
青年の絶叫が、丁度やって来た電車のブレーキ音に入り混ざって辺りへと響き渡る。
(ギプスか……。確かにあの身体じゃ逃げられない。でも、こんなにくっきりはっきり見えるなんて)
たとえ眼鏡を掛けて居てもどれ程街灯が明るくても、酷い近眼の武の目にはそれ相応の限度が在る筈なのに、少し盗み見ただけでそれなりに距離の離れた位置にいる青年が今現在足を怪我して居て松葉杖で在ることや、屋上には煙草を吸いにやって来た事、漆黒の妖怪・ゆびきり様は両腕が鎌状になった所謂妖怪カマイタチのような形であるといった視覚情報を鮮明に理解する事が出来た。恐慌状態となった青年が、持っていた煙草の箱やライターを投げつけ松葉杖を振るうものの、妖怪はそんな物に全くひるまず、松葉杖をまるで葱でも刻んで居るのかの如く容易く刻み、いよいよ追い詰めていく。
「まずい、あれじゃ指どころかもっと大怪我するかもしれないじゃないか」
最悪パニックを起こして屋上から落ちてしまうか鎌で首でも斬られたら、これまでの噂どころでは無い。どっと背中から汗が噴き出た。
「さて、今度はあたしが姿を消す代わりに、あんたの姿が見える事になる。……大丈夫、ちゃんとナビゲートするから言う通りに戦うんだよ。」
「ああ、頼む。こうしちゃ居られない」
目の前の被害者の思わぬ窮状に、己の著しい身体変化に困惑している場合ではなく、とにかく今はやれることをやるしかないと腹を括った武の肩に、栗鼠のように透明状態となった百華が乗りかかると、脳に響く声で叫んだ。
『―さあ、そのままあそこまで駆け抜けて、跳べ!』
言われるが侭、ビルの合間を跳躍する。
驚くほど軽やかに、早く。
瞬く間にゆびきり様の元に辿り着くと、被害者の青年は抵抗むなしく武達のすぐ目の前で片耳の上半分を切り取られ、血だらけになりながらどさりと倒れた。びくりと二、三度痙攣し、やがて動かなくなる背中。暖かい風に運ばれる血の匂い。微かに聞える呻き声。所詮小市民の元川武。先程の勢いは何処へやら。さっと全身から血の気が引いてゆく。
「だ、だ、大丈夫か君……っ!?」
恐る恐る膝を折って近寄ろうとしたその瞬間。
「……ひっ……!!」
鎌のような形の漆黒の刃が武の直ぐ横を掠めた。幸い当たりはしなかったが、振り向けばほんの数メートル先の上空を飛び、今度は新たにやって来た獲物と狙いを定めているのが見て取れる。
『大丈夫、あの男は転んで頭を打って気絶しただけ。ほら、右!……次屈みな!敵から目ぇ逸らすんじゃないよ!』
「うわあっっ……は、はい!……くっ、早い……!」
見た目こそカマイタチだが、空をムササビの様に真っ直ぐ一直線に飛んでは鎌を振り下ろす妖怪の猛攻を、百華の指示通りになんどか幾度も回避してゆく。今の武は動体視力も反射神経もすこぶる優秀で、その反応速度は若しこの場に観客が居るのならば、目で追う事もままならないと評する程だった。しかしただかわす以外の指示を百華はして来ず、ゆびきり様の方も如何言う訳だか、今宵の己の餌を既に喰らい済みの筈なのに、一向にこの場から退く気配もない。
(喰い足りないのか?俺を餌食にしないと気が済まないとでも……?確かTVでの報道では生き物の肉を一度食いちぎれば一瞬で去るんじゃ無かったか?)
世間の噂とは違い執拗に突撃してくる事に様々な疑念が過らせつつ、高速で鎌の攻撃をかわす。ゆびきり様が円柱状の煙草の吸殻入れに激突するように上手く誘導すると、激しい破壊音とともにそのまま倒れ込む。その隙に肩の上で透明となった百華を横目で盗み見て。
「百華、このままじゃ埒が明かない。如何すればいい?」
『そうだねぇ、もうそろそろ良い頃合いだ。勿論今から反撃を始めて貰うよ。どういう攻撃方法にするかあんたが念じながら、それに相応しい呪文を唱えるんだ。あんたの強い意志が敵を倒す力になる。ほら、来るよ!足許気を付けな!』
敵は痛みや驚き、疲れを感じることの無い身体なのか、もう方向転換を始めて先程と変わらぬ速度で低空飛行を始めていた。
「……くっ!―…そ、そんな事、言われても!?」
先程まで言われるが侭に動いていればよかったし、そう説明された筈だったのに、いきなり『好きな呪文を唱えて好きに戦え』とはあまりにも投げやりな解答である。譬えるならば夏休みの自由研究が何をやっても良いと云う訳でもないのと同じで、この状況に相応しい事をよく考えた上でしなくてはならないのだ。思考を巡らせる。
(どうすればいい?ビーム光線……は、駄目だ。かわされたりでもしたら後ろの建物が犠牲になるじゃないか。下手すれば人を巻き込みかねない。武器を持って戦うのもこの状況じゃ駄目だ。直ぐ傍で人が倒れている。巻き添えにしかねない)
「多少下手こいても大丈夫さ。あたしがフォローするし、次の攻撃で何とかすりゃいい。」
「それなら……ダンシング・テープ!」
少し考えた末、繰り出したのはガムテープにそっくりな長い巻き取り式のテープだった。
(本当にイメージした通りの物が出た。これで上手くやれるか……いや、出来ると信じないといけないんだった)
ただ、ガムテープと違う所といえば、テープは長さがほんの五メートルほどで粘着性の強いガムの様な性質で且つ、輪っか型の芯にきっちり固定されており、武の意のままに生き物の如くようになっている。右手でしっかりと芯を握りしめ、自在にシュルリとテープを操り、空中で体制を整え直した妖怪を迎え撃つ。
「……さあ、来い!」
百華の言う言葉は正しく真であった。敵を倒さんと研ぎ澄まされ高揚した意志によって繰り出されたそれは、まだ日本中の誰にも一瞬たりとも捕える事の出来なかった未知の化け物の身体を、ほんの一瞬ではあるが掠めることができたのだ。武を切り裂かんと迫ったゆびきり様の身体は空中でよろめき、然しそれでも尚動きを止めない。
「……よし、行ける!」
伸ばしたテープはその侭ゆびきり様の傍を通過し、そして。
「3、2、1……今だ!」
漆黒の鎌が当たる直前に左へと横跳びし、攻撃をかわす。するとつまり右手に持っていたテープもそれに倣って動き、ゆびきり様の進行方向には横方向に伸びたテープが待ちかまえているという事になる。
勢いの侭に粘り強くテープはトリモチの如くゆびきり様へと絡んでゆく。
『へぇ。考えたねぇ、あんた。』
感心したように脳裏で呟く百華の言葉を聞き流しながらそのままぐるぐると伸縮自在のゴム質のテープをこれでもかと妖怪の身体に巻きつけると、しっかりと抱き抱える。勿論恐ろしいまでに必死で抵抗されるが、如何やらとんでもなく怪力も手に入れた上に、絶対に逃がしてなるものかと気を張る武に勝てる程の物では無いらしく、主導権が何れにあるのかは明白だった。
「こ、これでこの後如何すればいいんだ?」
『止めを刺すんだね。串刺しにでもすれば一発さ、遠慮せずにやっちまいな。この侭じゃ他の人間じゃどうしようも出来ないからね。』
「……え?それは……その」
至近距離で見ても真っ黒一色で口も目も無い、生き物と言って良いのかも微妙な化物ではある。だがしかし流石に殺すというのは気が引けるのか、武はひくりと頬を引き攣らせた。幾ら田舎育ちでも現代の日本人で且つ兎やら鶏やらも捌いた事が無いので無理もない話ではある。が、かといってこの侭生け捕りにしたまま研究してくれそうな機関か何かに引き渡せるほど悠長に構えて等居られない。
繭状のゆびきり様が、テープの中で激しく仰け反った。するとめりめりと伸びてゆくテープの隙間から、黒い身体が少しずつはみ出て来る。
「うわあぁ!……暴れるな!」
慌てて地面におしつけ両手両足で抑えてしっかりと固定する。それでもまだまだ抵抗が激しく、収まる気配も無さそうだった。武の煮え切らない態度に百華が透明な身体の侭、せっつくように前足でぺしぺしと頭を軽く叩いた。
『はやくしな。あんたの今の身体でもしんどいだろ?』
「……。すまなかったな。……スローナイフ!」
(うう、なんで謝って居るんだ俺。何だこの罪悪感は。)
繰り出した空中を浮かぶナイフで、上から勢いよくテープで雁字搦めとなったゆびきり様を串刺しにする。
すると黒い身体は途端にピクリとも動かなくなり、微かにエタノールの様な匂いのする煙を出しながら、やがて消えた。
『戦闘開始から六分か。上々だね。さあ、後が面倒だ、また透明にしてやるから逃げるよ!』
「しかし怪我人が」
『問題無い。ほれ、あの兄ちゃん、そろそろ起きてきそうだよ』
「……う、う、う……ん」
軽度の脳震盪から意識を取り戻しつつある青年に大丈夫かと尋ねようかとする武を、百華はよせ、と引き止める。
(良いのだろうか。……いや、よく考えたらこれで良かったのかもしれない。本日二度目の警察と救急への通報だなんて不審そのものだ)
放っておいても死ぬ可能性の低い見知らぬ相手の介抱と、己の社会的立場と秤にかけて、後ろ髪引かれつつも後者を選ぶ事とした。別に咎められる様な事等何一つとしてして居ないとは言えるが、その内容はあまりに非現実的過ぎて人に知られると後先面倒なのは想像に難くない。保身を選ぶ罪悪感を抱きつつ、また再び元来た道を、透明な姿となって全速力で戻る事にした。
先程の潰れた店の並ぶ一角。例によって『あと91秒間此処は誰にも見咎められない筈』などと百華が告げた後、二人は再び姿を現した。
「……はぁ、つ、疲れた……。ヒヤヒヤしたよ。また髪が抜ける……。ん、髪……?」
哀愁漂う響きと共に、膝を折って路上でへたり込むと同時、武の視界の先にあり得ない物が映り込むのに気が付いた。
赤茶色の、背中に届くほどの長い髪。それが己の顔に掛かっているのである。一房とって軽く引っ張れば、確かにそれは武自身の頭皮に痛みを感じるのだった。
「……ハハハ、そっか、そういや今どんな姿なんだろうなあ、俺。かなり長い髪に変身したものだけど。」
そういえば……と武は、百華がゆびきり様と戦う時はばれない様に姿を変えると告げたのを思い出す。それは此処数年前から減り始めた薄い髪を気にして居る所為か、変身する時に己の願望でも出たのだろうか?程度の認識で。先程鞄を置いておいた、潰れた理髪店の店先に小さな鏡が張り付いていたよなと呟きつつ、立ちあがって鏡の前まで歩いてゆき、鞄を回収しつつ己の姿を見た。
そこに映って居たのは―
「な、な、な、な、な、なん……!」
「静かにしな。誰か来ちまうだろうが、このすっとこどっこい」
「すっとこどっこいはお前の方だ!なんなんだこれは!」
わなわなと肩を震わせ、鏡と黄緑色の獣を交互に指さすのは、赤色のベストにロンググローブを嵌め、白い膝上プリーツスカートを身に纏った、しなやかな体躯を持つ歳の頃なら十七、八歳程の美少女だった。
「……どういう事だ。」
武が子供のころに夢中になった怪獣や怪人と戦う変身ヒーローのような風貌ではないというのは何となく本人も気付いては居たが、まさかの美少女戦士である。
「言っただろ、姿を誤魔化すって」
「……あの、俺は妻と娘のいるオッサンなんですが。」
駆け抜ける時、視界の端に映り込んだので赤色のロンググローブと服を身に付けて居る、と云う事だけは気が付いたが、こんな事になって居たとは当然露ほどにも思って居なかったのだ。絶望のあまり男はその場で頭を抱えた。
尚、武の真の姿はといえば、身長174センチに対してウエスト88センチのメタボ体型、頭髪はバーコード状の簾ハゲ、性格は若干気弱気味の温厚メガネ。本当に何処にでもいそうな小市民46歳である。
そんな男にこの姿はあんまりにもあんまりに過ぎる。一言で言うならキッツイ。原形などというものは一欠けらも存在しない。だれか変身前と後でDNA鑑定でもして頂きたいレベル。
そんな哀れな美少女、もといオッサンを、薄情な人外ババア……もとい黄緑色の獣は傍らで見上げ、にたりと笑って見せて小首を傾げてみせるのだった。
「折角綺麗にしてやったのに随分不満げだねぇ」
「……おまえ、絶対面白がってるだろ」
(なんでバイクや光線の似合うアレとかソレじゃないんだ……!)
こうして、正体絶対秘密の正義のヒロインがこの夜、人知れずひっそりと誕生したのであった―