その三:ムギャ。
「ねえサエ、何か悩んでるなら、私にちゃんと相談して? これでもあたし、サエの友達だよ」
心底心配そうに言うキョーコ。
「そうです、友人は大切にしたほうが良い。辛いことがあれば、誰かに話すだけで心が軽くなるものですよ」
真面目な表情で諭すイズルゥ。
うん、どうなってんのこれ。
これだけだと、ぶっちゃけわけ分からないと思う。かくいう私でさえもう良く分からん。さて、では今がどういう状況か、現実逃避もかねて順に説明しようと思う。
事の始まりは三時間ほど前。いつも私が利用する駅前。察しの良い人は、ここである程度予想が付いてしまうかもしれない。
日中。人ごみ。その真ん中に立つ私。この時の私はもう、色々な意味で腹を括るというか、自分を捨てていたので、細部の記憶は曖昧だ。
歩き出す私。指定の場所に立つ私。時計を確認する私。
聞こえるはずが無いのに、腕時計の針がコチコチと動く幻聴に戸惑う私。
訝しげな表情で過ぎ行く街人の視線を必死に受け流す私。
迫り来るその時に背筋に冷たいものが走るのを忘れようとする私。
無情に、その時が来た。
私は口を開く。胸を膨らませ、息を吸う。意を決し、私は前を見据えた。
「ら゛ーら゛ーあ゛ー」
周囲の時間が凍った。引き攣った表情を顔に貼り付けたままで。お陰で、私の歌はよく周囲に響くの何の。あまりに突飛な出来事が起きると、人々はどうすればいいのか分からなくなるらしい。
だがこういう時人間がとる行動はやはりそう多くはなく、やがて人々は私に残念な生き物を見る目をよこしながら、そして半径二メートルほどスペースを空けながら、何も見ざる聞かざるを通すことに決めたようだった。
私はと言うと、まだ最後まで唄い終わっていないので、涙目になって美声(笑)を響かせている。
ちなみに、この歌を歌うのはもう四度目。それまでは、人気の無い場所や時間(朝の海辺とか)だったのが、ついにというべきかなんというべきか、よりにもよってこんな場所での苦行になってしまったのである。
それもこれも、『この歌を、指定の場所で、指定の時刻に歌うことによって、起動シークェンスのキィとなる』とか言って、こんな日中のこんな場所をイズルゥが指定したせいだ。氏ね。
当然私は猛抗議した。しかし、『絶対必要だ』と言い切られてしまっては、私の両肩に世界の命運が掛かってしまっている状態で、断れるわけもない。おや、以外に私って真面目だったんだなあ。
そんなことを思いながら最後のフレーズを歌っていると、何と、背後から肩を叩かれた。猛者もいたもんだ、と思いつつ、丁度歌が終わったところで振り向くと、そこで、
「ちょっと一緒に来てもらえますか」
困ったような笑顔で、イズルゥが言った。
…ここで冷静に受け答えした私を誰か褒めて欲しい。本来の私なら、奇声を振りまいて殴りかかってもおかしくは無い。いやおかしいか。
無論、寸でのところで取り乱さなかったのは、イズルゥが一般的なお巡りさんの制服を身に纏っていたからな訳ですが。ビバ、権力!
つまり、今目の前に居るイズルゥは、イズルゥではなく本来の人格なのだ。殴りかかるなどしたら、ばっちり手が後ろに回っちゃうYO!
どうにかその程度の冷静さは持ち合わせていた私。しかし、とりあえずの付き添いとして呼び寄せたキョーコと共に、延々と説教をくれちゃったりしているのだ。
「そもそもどうしてあんなことを? サエったら、いつから歌手志望なんて無謀と言うか人類への害悪的な夢を持ったの?」
害悪ですか。そうですか。キョーコってば、時々言葉遣いが容赦ないよ!
「確かに、アレは…。いや、私なんかがとやかく言うことでは無いかもしれませんが、何事も段階を踏んだほうがいいものですよ。まずは家で練習してからの方が…」
お前にだけは言われたくねえから! そもそもお前の歌声だってどっこいどっこいだから! 『アレは…』じゃねえから! お前の席ねえから!
ハッ、危ない、またキャラ崩壊するところだった。
「まったく、誰にそそのかされたのか…」
ため息をつくキョーコ。そそのかしたのはアンタの隣で素知らぬ顔している男だよ。
まあ厳密には違うけど、何か割り切れないものがある。
しかし大人な私はそんな気持ちはおくびも…いや、概ね…いや、そこそこ出さず、平謝りに謝り倒して帰還することに成功したのだった。
「これからはこんなことは無いようにしてくださいね」
帰宅する私の背に笑顔で言い放ったイズルゥの顔に、ついに殺意すら覚えたけどね!
だから、
「どうした…ムギャ」
夜、待ち合わせ場所に現れたイズルゥに、即座に頭突きをかました私は悪くないはずである。