その一:お、おはよう、ございます…。
警察に言えばいいじゃない? と思う人も多いだろう。うん、そうだよね。こういうときこそ警察にたよるべきだよね。でもね、そうできない事情があるんです。
大学に通う私は、いつも電車通学しているわけだけど、最寄の駅の向かいには交番がある。ラッシュの時間帯、人ごみを抜けるのに忙しい私は特に気にしてなかった。だが、昨日、たまたま、交番の前を通りかかったとき、制服姿で通行人や子供たちに挨拶をしているお巡りさんと目が合った。
うん、彼でした。
いつもの切羽詰った色んな意味で痛々しい様子とは違い、普通に街の優しいお巡りさんと言う雰囲気で立つ姿に、一瞬人違いかと思ったけれど、あれだけ印象的な人間を見間違えることは、残念なことに出来なかった。
うわあ…と何ともいえない表情になった私。しかし当のお巡りさんはと言うと、別にどうってことのない感じで「おはようございます」と普通に声をかけてきた。いつもの危うい雰囲気とは遠く離れた柔和な声で。
「お、おはよう、ございます…」
わたしもどうにか返事をするが、お巡りさんはそれを見て満足したのか、すぐに私から視線を移し、別の通行人に挨拶していた。
ん? なんだか、随分と様子が違う。いかにも、あなたのことは知りません今まで関わったことはありませんという態度だ。やっぱり私の勘違いだったのだろうか…と一人首を捻っていたが、その夜コンビニに再び彼が現れて、やはり同じ顔だと不本意ながら確認してしまった。
とまあ、こんなわけで、私は警察に助けを求めていいものかどうか、非常に困惑しているのだ。
お巡りさんが、機を見計らっては私の前で宇宙人の侵略を声高に叫んでいます!
我ながら説得力のかけらもない訴えだ。いやあ、少数ながら目撃証言もありますし、監視カメラもばっちり作動しているから、その気になれば証明できるんだけれども、オーナーやお店に面倒はかけたくないし、実害は無いし、あしらうのが面倒くさいってなぐらいのものなので、なかなか踏ん切りがつかない。権力って怖いしね!
…そんなことを思っていた時代もありました。
「冴、どうしたの?」
「うん、最近バイトで疲れてね…」
週末、バイトが休みだった私は、友人の杏子と二人で夕食を食べに出かけている。大学近くのフランス料理店で、しがない学生の私たちには少々敷居が高いが、時々奮発してこうして食べに来る。おいしいからね。
「疲れて? 何かあったの?」
「うーん」
キョーコの質問に、私は正直に答えるか悩む。しかし別に隠すことでも無いかと思い、とりあえず、変な客が変なことを言ってくる、とだけ教えた。
「警察にでも相談すれば?」
無理っす。と正直に言えず、とりあえずあいまいな返事でお茶を濁した。えー、なにそれー、とキョーコはふざけた様子で返してくるが、聞いてくれるな、というこちらの言外の意図を感じ取って、すぐさま別の話題に切り替えてくれたのは、付き合いの長い彼女ならではの気の遣い方だ。
そうして、あの教授とあの生徒は絶対愛し合ってるだの、いや、彼が好きなのは絶対お前だの、じゃああんたは誰か好きな人いるのかだの、無責任かつ実の無い話を積み重ねると、あっというまにとっぷり日も沈みあたりは真っ暗になった。
空は暗くても、キョーコと二人愚痴を零しあえば、いささか沈みがちだった気分も明るくなってくる。そうして、その後も少々歓談して、軽くウィンドウショッピングなんかしちゃったりして、電車に乗り、駅で別れた。
言ってみれば、油断だろう。久々に楽しい時間を過ごして、浮かれていたことは否定できない。
自宅のアパートに近い道。人通りは見当たらない。時間はもうすぐ二十一時にさしかかろうという頃合。背後の闇から伸びた手に腕を掴まれた。
「え?」
とっさに振り払おうにも、万力のようにその手は私を離さない。恐怖を堪えて振り返ると、そこでは、毎度私に寝言を吐き出す例の男が、ぎらついた目で私を見ていた。
「…来てくれ」
顔つきほどは声音は厳しくなかったが、この状況でそんなことは全く些細としか言いようが無い。
私は男を睨みつける。男は、店や交番で見たときよりも、警察官らしく、大きくて、威圧感があるように思えた。ただ、これが知らない誰かなら、それで私は萎縮して、逆らうことすら難しかったかもしれない。
でも、そうはならない。私にだって意地があったりするのだ。その意地さえなければ、もっと器用に生きられるのだろうが。
「嫌です」
言うと、意外なことに男はいきり立ったり、手を上げたりすることもなく、厳しい表情はそのままに、ごく冷静な声音で、
「乱暴はしないと約束する。拉致もしない。だから、少しでいい、話だけでも聞いてくれないか」
「話って…例の宇宙人なんたらって奴ですか」
「ああ。頼む、話を聞いてくれ。この通りだ」
頭を下げた。それでも私は、はいそうですかと付いて行くほど子供でもなかった。
「…そもそもお巡りさんが、こんな時間にいたいけな女子大生と何やらかそうってんですか」
「オマワリサン…?」
男が首をかしげた。まるで知らないとでも言うように。でも私は記憶力には自信が…あるわけでは無いが、一応朝見たばかりの人間の顔くらいは覚えているのだ。
しかし、男の口から出てきた言葉は、少々不可思議なものだった。
「ああ、確か巡査の階級に属する警察官の親しみを込めた呼び方…だったか?」
「え?」
まるで、“お巡りさん”が何なのか知らなかったような言葉に、私は困惑する。
「それに、“いたいけ”とは…確か、幼くて可愛らしい様子を表す単語だったはずだが…」
そこは突っ込まないでください。何というか、呆れるでもなく、純粋に疑問に思ってる感じの訝しげな表情が実に癪に障る。
「とにかく、私には関わらないでください。何だか知りませんけど、どなたか別のそういうお話が好きな人たちにお願いしてみてはいかがですか?」
では、とさっさと帰ろうとするが、手を離してくれない。だが男は、低く「分かった」と言った。
あれ、案外物分りが良い? と一瞬思った私はバカである。少なくとも物分りが良いならば、暗い夜道で寝言をほざくためにわざわざ待ち伏せたりするわけないっての。
気付いたときには遅く、男は、どういうわけか私を振り向かせて、顔を近づけてきた。
「仕方ないな、少々手荒に行かせて貰う」
「え?」
え? え?
意味が分からず問い返す私を意に留めた様子もなく、どんどん顔は近付く。このままだと…って、えええええ!?
あまりにも唐突な展開に、私は目を見開いたまま何も出来ない。実は、私はまだ恋人いない暦=年齢なのだ。だから、ちょっと、いきなりこんなのって、まさか、ちょ、ま、これ、え。
男は混乱して最早逃げることすらままならずあたふたする私を無視し、ぐいぐい顔を近付けてくる。そして、混乱から抜ける前に、いとも簡単に、私たちは触れ合ってしまった。
おでこが。
「っておでこかいっ!」
思わず叫んだ私に、
「おとなしくしていろ」
男が言っ――
光。流転。水。闇。流転。光。熱。無。
情報。人。流転。世界。流転。海。星。人々。
イメージ。光。紫。流転。月。闇。月。流転。船。宙。
暴力的と言っても過言ではないほどの量の情報が、頭に叩き込まれる。異なる星。異なる世界。紫の空に輝く太陽と、往来する二つの月。星海を渡る数多の船。地球人に良く似た、しかし、時には地球には無い要素を持つ人々。
よろけた私を男の力強い腕が抱きとめ、危うくへたり込まずに済んだ。しかし私はもうそんなことを気にとめてはいられない。
今のは、今のはなんだろう。夢、と断ずるには、あまりにも現実味のある情報。知らないはずの世界を、はっきりと目の前に見せられたかのようなイメージの奔流。
顔を上げると、男が私を覗き込んでいた。その顔は心配そうな表情だったが、私が大丈夫そうなのを見て取ると、ようやく低い声で、言った。
「話…聞いてくれるな」
ニヤリ、と音がしそうな人の悪そうな笑みを浮かべた男に、私は言葉を返すことが出来なかった。