空想と幻想
放課後って凄く好きだ。
学校の、授業の終わった開放感、部活動に急ぐ高揚感、帰宅を待ちきれない焦燥感。
放課後は何時も何時も、忙しなくて胸がざわつく。
私は学校指定のスクールバッグにノートとペンケースを放り込んだ。
ホームルームなんて早く終わらないかな、などとぼんやり考えていたら、何時の間にか終わっていたのだ。
「リナ、帰るの?」
「うん、図書室に行ってから帰る」
「そっか、じゃあまた明日ね」
「うん、ばいばーい」
私が手を振ると、友達数人が教室から出て行った。
皆やっと、私が前の様に接するのに慣れてくれたみたいだ。
去年は確かに、其れ処じゃなかった。
図書室の本を手に持って、廊下を歩く。
時折擦れ違う生徒が、私を見てひそひそと話しているのが視界に入る。
お兄ちゃんは、今でも有名人だね。
そんな風に考えると、ほんの少し笑顔になれた。
けれど其れも、私が卒業するまでだろう。
私が此の学校から居なくなれば、お兄ちゃんを思い出させるものは殆どなくなってしまう。
お兄ちゃんを知る人も、居なくなってしまう。
先生達は憶えていてくれるだろうけど、新しく入学した生徒に、お兄ちゃんの話をするだろうか。
図書室で返却の手続きをして、手ぶらで出ようとすると、司書の先生に珍しいね、と声をかけられた。
「方城さんが本を借りていかないなんて」
「今日は別に読む本があるから」
「そう、気を付けて帰ってね」
「はぁい」
お兄ちゃんと良く、此の図書室で待ち合わせをした。
そしてそのまま、下校時間まで本を読んでしまった事も良くあった。
お兄ちゃんは、私の行く先々に、居る。
図書室の扉をがらりと閉めると、私の頭は既に別の事を考えていた。
アルバイト先のおやつについて。
愉しみだなぁ、今日は何を作ってくれたんだろう。
少し早歩きで校門を抜け、学校と家の丁度中間地点にある、大きな屋敷の門の前に立った。
石造りの門柱の上には、グリフィンの石像が洋燈を嘴に咥えている。
がっしりとした黒い鉄製の門の向こうには、白っぽい壁に蒼い屋根が美しい、洋館が物静かに建っている。
日本ではない、何処かと謂えばイギリスなんかに建っていそうな、そんな佇まい。
いくら此の辺りが閑静な住宅街だからって、何だかかなり場違いだ。
でも、此の姿こそ、正しいのだ。
場違いでなくては、いけない。
広い敷地には沢山の木が生い茂り、洋館の後ろはさながら森の様。
此の浮世離れしている様にも見える洋館に、私は毎日通っている。
門柱に取り付けられたインターホンを鳴らせば。
『リナ』
「ヘキサー、開けてー」
『直ぐに』
ぎぃ、と重い音がして、門が開く。
門から伸びる石畳の道を軽く駆け足で進んでいくと、屋敷の玄関が開いて、ヘキサが現れた。
折り目正しい茶色いチェックのズボンに、同じく茶色いベスト姿のヘキサが、にこにこ笑って出迎えてくれるのも何時も通り。
何時も通り、なんて素敵な。
「いらっしゃい、リナ」
「鳥渡遅くなっちゃったかなぁ」
「そうでもないよ、入って」
薄暗い玄関ホール。
正面に伸びる階段は踊り場で左右に分かれている。
其処に掛けられた大きな絵は、月夜に浮かぶ湖のほとりの断崖絶壁に建つ古城。
私の好きな絵。
床に敷き詰められたふかふかの絨毯は緋色で、濃く磨き上げられた木の床に良く合っている。
「幻は?」
「お茶飲んでる」
階段を上がりながらヘキサに話し掛ける。
ヘキサの、一つに結われた明るい黄土色の髪が、ふんわりと揺れて私に振り向く。
そしてにっこりと笑う。
「リナが来ないとお菓子を食べられないから、鳥渡拗ねてるけど」
「げぇ、早く行かなきゃ」
幻が拗ねると、鳥渡面倒だ。
良い歳した大人が拗ねてるのって、鳥渡面倒臭い。
「じゃあ僕はお茶とお菓子の用意してくるから、リナは先に行ってて」
「はぁーい」
廊下の途中でヘキサと別れ、二階の長い廊下の最奥の扉を、こんこん、と控えめに叩く。
すると直ぐに扉が開かれ、私の目の前にぱぁっと白銀が広がった。
時代錯誤な黒い、丈の長いジャケットに細いズボン、ベストには銀色のチェーン。
ぴたりと首を覆うシャツに、黒いタイ。
絨毯のお陰で足音はしないけど、靴の踵同士が当たったのか、こつっ、と小気味良い音が響いた。
「遅いぞリナ! 我輩は待ち草臥れた!」
「えぇー……」
「今日は我輩の好きな洋梨のタルトだそうだ! 其れを食さずにお前を待っていたのだ、有難く思うが良い」
「待ってなくて良かったのに」
そう云うと、幻は真っ白な手袋を填めた手で自身の長い銀髪をばさりと払った。
定規を当てているかの様に真っ直ぐに切り揃えられた毛先が腰の辺りでふわりと着地した。
「お前が来るのに、一人で食す訳がなかろう」
紅茶色、と謂っても紅が濃過ぎて殆ど紅いと云っても差し支えない瞳が、優しげにゆがめられていくのを、私はほんの少し嬉しく思った。
幻は男の人なのに、凄く綺麗だ。
綺麗で偉そうで、そして少し優しい。
私の新しいお兄ちゃんみたいな、人。
幻の手がさり気無く私の背中を促す様に押した。
「座れ、リナ」
何時もの席、ふかふかのソファに腰掛けて、鞄を床に置く。
其の向かいに置かれた一人掛けのソファに幻が身を沈めたところで、ヘキサがワゴンを押して入ってきた。
「洋梨のタルトなんだって?」
「……ご主人様、リナには内緒だって、貴方が仰ったんですよ」
ヘキサが咎める様に幻を見た。
「ふふん、我輩が云う分には構わん」
何処までも尊大な其の姿に、ヘキサは特に文句も云わず、幻と私の前に紅茶のカップとタルトの乗ったお皿を置いた。
「一応お替りもありますので」
「リナは食すなよ」
「え、何で」
「其れ以上肥えても我輩は知らん」
「酷い! 肥えてない! 幻だって其れ以上甘いの食べてたら太るんだからねっ」
「我輩は平気だ」
「何でだよっ」
「お前より運動しているからな」
「きーっ! 反論出来ない!」
それでもしっかりタルトは口に運ぶ。
洋梨独特の、ねっとりした感触の中に甘酸っぱさが広がる。
贅沢に洋梨が敷き詰めたタルト生地も、ほんのり甘くて美味しい。
此処は私のアルバイト先だ。
と云っても、こんな風におやつを食べて幻と話して、大体終わってしまう。
仕事と謂うか、手伝いといえば、幻の読んだ本を片付けたり、ヘキサの仕事を手伝ったりとか。
両親は共に外国で仕事をしていて滅多に帰って来ない。
生活費はしっかり仕送りして貰ってるからお金には困らないけど、独り暮らしの私は毎日が暇なのだ。
淡々と日々をこなしていくのが辛くて。
幻の処でアルバイトさせて貰えている事が、私の唯一の刺激と云っても良かった。
「リナ、今日は何があった?」
幻は私の学校での話を聞くのが好きみたいだった。
本当は好きではないのかも知れない。
唯、私に気を使ってくれているだけなのかも。
其れでも、良かった。
私は家に帰れば独りになるのだから。
「今日はね、数学の時間にね、教室にね、ゴキブリが出た」
大騒ぎだったんだよ。
そう云って笑いながら、身振り手振りで幻に話す。
幻は大して面白くないだろう私の話をにこやかに、ほんの少しにやりと上げた唇の端で聞いてくれている。
話しながら、立ち上がった幻の後に続いて書庫に入る。
散らかった本を片付けながら、更に話を続ける。
幻は本を捲りながらも相槌を打って、時には質問を挟みながら、私の話を聞いてくれる。
「リナ」
「なにー」
背伸びして本を戻そうとしていたら、ひょい、と抱き上げられた。
「有難う」
「構わん」
幻が抱き上げてくれたお陰で、すんなりと本を仕舞えた。
床に下ろされると、丁度柱時計が七回鳴った。
「今日はもう帰るが良い」
「はーい」
「明後日は休みだったな?」
「うん、土曜日お休み」
「また空の処に行くのだろう」
「うん、そのつもり」
「朝、荷物を置きに来るが良い」
「わー、有難うっ、幻っ」
思わず抱き付くと、幻が頭を撫でてくれた。
それに、ほんの少し胸が痛んだ。
……お兄ちゃんと、違う。
解ってるんだ、それ位。
「じゃあ、帰るね」
「嗚呼、また明日」
「うんっ」
幻は私を玄関まで見送ったりしない。
代わりにヘキサが玄関に立っていた。
「送るよ」
「有難う」
街燈の照らすアスファルトの上を、ヘキサと二人で歩く。
通りに並んだ家からは橙色の灯りと、美味しそうな香りが漂ってくる。
「リナ、晩御飯食べていけば良いのに」
「うぅん、お兄ちゃんが淋しいかも知れないから」
そう笑顔で答えると、ヘキサは哀しそうな顔で笑った。
「……そう」
やがて家に着いた。
「送ってくれて有難うね、ヘキサ」
「うん。リナ、戸締りはちゃんとしてね」
「解ってるもん。気を付けて帰ってね」
「うん、お休み、リナ」
「お休みー」
私が家の中に入るまで、ヘキサは見送ってくれる。
そして、私の家に灯りがついて、やっと帰るのだ。
手を洗って嗽をして、二階の自分の部屋に向かう。
其の手前、お兄ちゃんの部屋の扉をがちゃりと開く。
どんよりと澱んだ空気、私は窓を開けた。
さぁ、と夜風が冷の中の空気を乱していく。
窓辺のお兄ちゃんの机にそっと触れる。
机の上には、微笑むお兄ちゃんの写真が置かれている。
真っ直ぐにこちらを見詰めている、お兄ちゃん。
唇をきゅう、と引き上げ、深い微笑を浮かべた表情。
瞳は大きく、然し鋭くて、私を何時も見詰めてくれた。
学ランを着たお兄ちゃんの髪は黒くて、襟足が首に纏わりつく様に絡んでいる。
此の写真は、高校の入学式の時の写真だ。
私が、撮ってあげた、最初で最期の写真。
此の顔は。
お兄ちゃんが私を見る時に何時もしていた表情。
他の人が撮った写真では殆ど笑わなかったお兄ちゃんが、此の写真では笑ってくれたから。
遺影にしたんだ。
魅力的で蠱惑的な、其の表情に、お葬式に来た人は誰もが息を呑んでいた。
皆、お兄ちゃんに魅了されていた。
私の自慢のお兄ちゃん。
方城飛鳥。
享年十八歳。
一年前に、此の部屋で殺された。
私の大切なお兄ちゃん。
「唯今、お兄ちゃん」
私の小さな呟きに、応えてくれる優しい声は、無い。
+
翌日、夜の内に準備しておいたお泊りセットをヘキサに預けて、私は学校に向かった。
学校は相変わらず余り好きじゃなくて、お兄ちゃんが居なくなってからは尚更だったけど、ちゃんと行く様にしている。
幻と約束したし、空は何も云わないけど桔梗が何故だか私の事を酷く気にかけてくれるから。
何かあっても、幻や桔梗がいるから大丈夫。
話を聞いてくれる人が居るって凄く大事なんだと、思った。
「リナー! 当たるっ」
「へ?」
途端に衝撃が走り、思わず「痛ぇっ!」と叫んだ。
今は体育で、球技大会の練習の為、ドッジボールの途中だったんだ。
思いっきり二の腕に当たった。
「ぼーっとしてるからだよ!」
「うん……」
球技大会なんて無くなってしまえば良い!
悪態を吐きながら外野に出る。
今度はぼーっとしない様にしなくちゃ。
体育の後、制服に着替えながら二の腕を見たら、青痣が出来ていた。
今が衣替えの前で良かった。
長袖の制服でなかったら、直ぐに幻や桔梗に見咎められてしまうから。
心配してくれるのは嬉しいけど、幻は特に過保護だから。
痣位じゃ死なないのに。
そう、お兄ちゃん位、されなきゃ。
ぞくりと背筋が震えた。
誤魔化す様にワンピース風のセーラー服の襟にスカーフを通す。
嫌いな体育が終われば、後は教室での授業だけ。
昼休みに友達をお弁当を食べて、ぼんやり授業を受けて、と云っても午後の授業は国語と日本史だったから私は真面目に授業を聞いた。
あっという間に放課後。
「じゃあね、リナ」
「ばいばーい」
部活に行く友達を見送って、私も幻の屋敷に真っ直ぐ向かう。
明日は土曜日、次の日は日曜日。
学校はお休み。
やったね!
びーっ、と時代錯誤な音がするインターホンを鳴らして門を潜り、ヘキサと並んで幻の部屋に行く。
「嬉しそうだね」
「そぅお?」
「空様に、逢えるから?」
珍しくヘキサがからかう様な口調で問いかける。
不意に私の心臓がどくん、と跳ねた。
「ちっ、違う! 訳じゃないけど、違う……」
顔が熱くなる。
「空様、美しいものね」
何時まででも見ていたいよね。
ヘキサは何でもない風に笑いながら、紅茶を出してくれた。
「日曜日の昼には戻るな?」
「うん、そのつもり」
何時もの様に私の向かいの一人掛けのソファに踏ん反り返った幻が紅茶の湯気の向こうで妖艶に微笑んだ。
紅く融けた瞳が揺らめいたかの様に見えた。
「空と狂に宜しく」
「そんな事云うなら幻も一緒に来れば良いのに」
「我輩は仕事の只中だ」
「嗚呼、そうだったんだ……」
怖ろしい事に、幻の仕事は探偵だ。
其の証拠に、門柱には《創間探偵事務所》と看板が掲げられていた。
事務所、って謂う佇まいから物凄くかけ離れているのに、何故事務所なんだ。
突っ込もうと思ったけど、はぐらかされそうだから止めたのは、一年も前の話だ。
此処がどんな依頼を受けているのか、どんな人が来るのか、私は良く知らない。
探偵の仕事を手伝った事はないし、依頼人の姿を見た事も無い。
だから、依頼人は私が初めてなんじゃないかとずっと思っていた。
「ちゃんとお仕事来るんだ……」
「当たり前だろう。でなければ我輩は生きていけん」
「仕事をした上で生活してるって感じ、幻からしないもの」
悠々自適、何と謂うか、遺産の利子だけで生活していそうな、そんな雰囲気だったから。
「リナ、我輩が仕事をしていなかったら、お前に賃金を払う事さえ出来んぞ」
「え、だから遺産の利子が」
幻は苦笑を漏らした。
「我輩共の親は死んでいない」
「……そうでした」
行方不明なだけだ。
ふわふわのスフレを口に運びながら、今日は幻の良く解らない話を聞き続けた。
蝶々の話だった。
やがて夜が近くなって、私は立ち上がった。
「じゃあ、行って来るね」
「送ろう」
「大丈夫だよ、迷子にはならないから」
「そうか」
幻の処まで歩いていくと、座ったままの幻が私の方に手を伸ばした。
頭を下げると、ふんわりと撫でられた。
そのまま緩く幻の首に腕を巻きつけて、「行ってきます」と呟いた。
「嗚呼、行って来い」
優しく微笑んだ幻に手を振って、スクールバッグとお泊りセットの入ったバッグを持って、私は屋敷の裏側に回った。
鬱蒼と木の茂った裏庭は既に暗い。
此処は幻の屋敷の敷地だから、危ない事は何もない。
其れに、此の裏庭は。
「……良し」
私は足を踏み出した。
適度にぼんやり、然し最低限の意識を保ちながら、私は木々の間を歩き続ける。
考える事は、空の事、だけ。
此処を歩くだけで、自然に私は空の事しか考えられなくなる。
否、気を抜けば何時だって、私は空の事を考えてしまいそうになるのだけど。
だから私は絶対に迷わない。
空の家に続く此の裏庭の森で大切なのは、行きたい場所へのイメージだ。
目の前の視界が開けてきた。
特に行く時間は伝えてなかったけど、裏庭には桔梗が居た。
「あ、リナ! 待ってたよ!」
「桔梗ー、お腹空いたー」
「着て早々いきなりかっ。待ってろよ、此の山やったら終わりだから」
薪割をしていたらしい。
ヘキサと同じ様な明るい黄土色の髪の、前髪の一筋だけに紅いメッシュを入れている。
そう長くも無い髪を無理矢理一つに束ね、前髪を髪留めで上げていて、何だかおかしかったから笑った。
「今何か笑う処あった?」
「おでこ出してるのが笑える」
「酷ぇ」
軽口を叩きながらも、桔梗の手は止まらず薪を割っている。
生成り地のツナギの様な服の上に、丈の短い紅い中華風のノースリーブを着ている。
腰には上着と同じ紅い布を巻いている。
それで動きにくくは無いのか、と聞いた事があったけど、別に、と返された。
桔梗が動く度に、紅い石の耳飾が傍に置かれたランプの光を反射して鈍く光った。
嗚呼、制服で来なきゃ良かった。
そうしたら手伝えたのに。
ぼんやりしていたら、薪割りは終わってしまったらしく、桔梗は手早く薪を庭の隅に積み始めた。
「それなら手伝える」
「ささくれに気を付けて」
散らばった薪を桔梗の傍に運んでいく。
「良し、終わった。リナ、着替えて来いよ。直ぐに用意するから」
「うん」
勝手口から上がって、何時も私が貸して貰っている部屋に荷物を置いた。
庭に下りて手水鉢で手を洗ってから、Tシャツとサブリナパンツに着替える。
七分袖でもまだ寒かったから、カーディガンも羽織った。
此処は空気が綺麗だから、気温が常に季節に洗練されている。
私はほんの少し軋む縁側の廊下を通って、灯りのついた一室の前で止まった。
障子に映った影に、心臓が煩い。
「入れ」
不意に響いた、滑らかな低音に、私の身体がびくりと跳ねた。
「し、失礼します……」
立ったまま両手で障子を開ければ、文机の前に空が座っていた。
瞬間、私から風景が消え、音が消え、目の前の空しか、存在しなくなった。
漆黒よりも尚濃い、闇から生まれた鴉の様に黒い艶やかな髪は、畳みに届くくらいまで長く伸ばされている。
ほんの少し長めの前髪から覗く、睫の長い目は伏目がちに本の文字列を追っている。
すぅ、と通った鼻筋、緩く閉ざされた唇の色素は薄かったが、陶器の様に滑らかで白い肌の中では只管強い血の色を放っていた。
長い髪に隠れて見えないけど、私は知っている。
白い首は長くしなやかで、其れがもう直ぐ私の方に捻られる事を。
だってほら。
長く骨ばった空の指が、本を閉じた。
そして、緩慢な動きで顔を上げ。
私の方を向いた。
「リナ」
此の世に、空以上に美しい人が居るとは思えない。
神々しい、何て言葉では追いつかない、空自身が神様なんじゃないかと思える位。
空は、美しい。
顔の各部の完璧な造型、完璧な配置、肌の肌理細かさ、心地良く脳を揺らす水の波紋の様な低音。
立ち上がった身体は、無駄が一切ない。
緩く纏った着物から覗く胸板は大理石の様に滑らか。
逢う度逢う度、空の美しさを目の当たりにして、私の意識は遠退く。
桔梗は毎日、こんな空を見ていて普通にしていられるなぁ、と妙な関心をしていたら、空の無表情から声が響いた。
「聞こえているか……」
「うぁっ、はいっ」
「なら入れ。夜風で冷える……」
「あ、う……」
慌てて障子を閉めると、部屋の中にうっすらと白檀の香りが漂った。
……一日離れただけで、慣れなんか吹っ飛んじゃう。
ぺたりと座ると、空は私の正面に片膝を立てて座った。
着物の裾から覗く白い足が、すんなりと私の目を釘付けにした。
「久し振りだな」
「先週は実力テストがあったから……」
「そうか」
思わず俯いてしまったけど、私は解る。
空の顔は今も無表情だって。
空の表情が変わった処を、私は見た事が無い。
其の時、廊下がきしきしと鳴って、桔梗が現れた。
「主様、食事の用意が出来ました」
「解った」
「今日は何処で食べますか」
「此処で」
「御意」
きしきしと桔梗の足音が遠ざかる。
「此処で、良いの?」
思わず訊ねると。
「今宵は月が美しい」
そう云って空は立ち上がり、障子を静かに開けた。
空の動きには音や気配が伴わない。
何時も不意打ちの様な素の動きに、私は翻弄され、そして。
「おいで」
月明かりの逆光で見えない暗く翳った其の無表情に。
「……はい」
云いなりに、なってしまう。
「お持ちしました。あ、縁側ですか」
「嗚呼」
「何かお酒でも用意しましょうか」
「……そうだな」
桔梗も私も未成年だから、お酒は飲まない。
普段空だって飲まないのに。
「偶には、な」
囁く様に呟く空を、ちらりと見上げると、空は私の方を見ていて、目が合ってしまった。
慌てて目を逸らすけど、空からは何の反応も返って来なかった。
空は全てに無関心だった。
私が幻に連れられて此の家に来た時も「嗚呼」の一言で片付けてしまったし、其れから私が此の家に通う様になって空を見ていても、其れは明白だった。
空の関心を誘う事なんて、有るのだろうか。
否、空には心が在るのだろうか。
こちらには色々な出来事があって、其れは今までの生活では絶対に巡り合えなかっただろう不思議な事ばかりで。
そんな不思議な事には、慣れてしまっているのか、とも考えたけど、そうじゃなかった。
本当に、興味が無いのだ。
無関心なのだ。
心を閉ざしている訳ではないのに、何にも心を向けない。
其れは神故の傲慢なのか。
神ではないのに。
「リナ、冷めちゃうよ」
「はっ、何時の間にかご飯が!」
「ぼーっとし過ぎだよ、お腹空いたって云うから急いだのに」
「御免、桔梗」
「鮎、か」
「はい、主様。魚屋が良いものが入ったと云っていましたので」
空の呟きに桔梗が笑顔で答える。
塩焼きにされた鮎。
「鮎なんて食べた事ないよ」
「げー、本当かよ、美味しいのに」
桔梗がご飯をよそいながら信じられない、と謂う顔をした。
「だって売ってないもん」
「リナの処って可哀相だな」
「何だよ、こっちにはチョコレートないじゃないか」
「すっごい頑張れば手に入るよっ」
「頑張らなきゃ食べられないなら、鮎だってすっごい頑張れば食べられるもんっ」
桔梗とわやわや話しながら夕食を食べる。
其の間、空は静かだ。
静かに、お酒を飲みながら膳の上の料理を突いている。
食事と謂う、本能の行動をしているのに、空は矢張り浮世離れしていた。
そんな空を横目で盗み見ながら、私は鮎を口に運んだ。
「……美味いか?」
突然、空が私を見て訊ねる。
途端に跳ね上がる心拍数。
「鮎」
「う、うんっ、美味しいっ。綺麗な味がするっ」
慌てて返事をすると。
「……そうか」
そう云って小さな盃に唇をつける空。
心臓がとくとくと甘い鼓動を奏でる。
空。
人間らしさの欠片もない、此の奇跡の造形物に私は如何しようもなく心惹かれている。
私は、空に恋をしている。