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天才薬師を蝕む毒牙

作者: 紅茶
掲載日:2026/05/17

第1話

 シャンデリアの光が乱反射する王城の大広間。

 華やかな夜会の中心で、私の婚約者である第二王子レオンは、震える声で叫んだ。


「エ、エルザ! お前との婚約は破棄する! この……っ、毒婦め!」


 彼の腕の中には、青ざめて倒れ込む聖女マリアの姿があった。彼女の唇は紫に染まり、息も絶え絶えになっている。広間は悲鳴と怒号に包まれていた。


「マリアのグラスに『睡蓮の毒』を盛ったな! お前の部屋から毒薬の瓶が見つかったんだぞ!」


 レオンが突きつけた小瓶を見て、私は血の気が引くのを感じた。

 確かにそれは、私が管理している試薬瓶だ。だが、私は前世の記憶を持つ魔法薬師。睡眠薬の調合中だったとはいえ、決して持ち出したりはしない。


「殿下、誤解です! 私は誰のグラスにも毒など……!」


「嘘をつけ! 給仕の証言もとれている! お前がマリアのグラスに何かを入れるのを見た者が何人もいるんだ!」


「そんな……! 私はずっと壁際に……」


「おまけに、この毒薬の購入記録には、お前のサインと公爵家の実印が押されている! これでもまだシラを切るつもりか!」


 レオンが叩きつけた羊皮紙を見て、私は息を呑んだ。

 間違いない。私の筆跡だ。実印の押し方すら、私の癖を完全に再現している。


(誰かが、私を陥れようとしている……っ。それも、完璧な手口で)


 言い逃れができない。アリバイも、物証も、証言も、すべてが私を「有罪」にするために異常なほどの精度で揃えられている。

 私がどれほど有能な薬師であろうと、この完璧に練り上げられた政治的包囲網を前にしては、ただの無力な令嬢に過ぎなかった。


「近衛兵! この毒婦を地下牢へ放り込め! 明朝、暗殺未遂の罪で極刑に処す!」


 レオンの冷酷な宣告に、騎士たちが槍を構えて私を取り囲む。

 死ぬ。ここで、こんな理不尽な罠に嵌められて。

 絶望で足から力が抜け、床に崩れ落ちそうになった——その時だった。


「——お待ちください、殿下」


 静かな、だがひどく通る声が広間に響いた。

 騎士たちの壁をかき分け、一人の青年が進み出る。銀糸のような髪に、知的な細い眼鏡。宰相の息子であり、私の幼馴染でもあるユリウスだった。


「ユリウス! お前、こいつを庇うつもりか!」


「滅相もありません。マリア様に毒を盛るなど、決して許されることではない」


 ユリウスの声は冷徹だった。だが、眼鏡の奥の切れ長な瞳だけが、私に向かって痛ましげに揺らいでいた。


「ですが殿下。エルザは長年、王家の専属薬師として不眠不休で働き、国庫の医療費を大幅に削減してきました。……この度の凶行も、過労による心神喪失が招いた過ちではないでしょうか。ここは極刑を免じ、爵位剥奪の上での『国外追放』とするのが、殿下の寛大さを示す最善の道かと存じます」


 ユリウスの弁舌は、滑らかで、一切の隙がなかった。

 私の罪を否定せず、あえて「過失」として認めた上で、レオンの自尊心をくすぐりながら減刑を提案する。怒り狂っていたレオンも、周囲の貴族たちの空気に押され、舌打ちをして剣を収めた。


「……チッ。ユリウスがそこまで言うなら、命だけは助けてやる。ただし、今すぐこの国から出ていけ!」


 その瞬間、私を縛り付けていた死の恐怖がスッと解けた。

 助かったのだ。


「エルザ」


 ユリウスが私の前に膝をつき、震える私の肩を優しく抱きしめた。


「ごめん。僕の力では、君の無実を証明することはできなかった……。国外追放なんて重い罰を背負わせてしまって、本当にごめん」


 彼の声は、ひどく震えていた。

 誰もが私を冷酷な目で見下ろす中、彼だけが、私を守るために王太子に意見し、命を救ってくれたのだ。


「ううん……ありがとう、ユリウス。あなたが庇ってくれなかったら、私……」


 ボロボロと涙がこぼれる。私は彼の胸に額を押し当て、子供のように泣きじゃくった。


「君の才能は、こんな国で朽ちるべきじゃない。隣国に着いたら手紙をくれ。ほとぼりが冷めたら、僕が必ず君を迎えに行くから」


「ユリウス……っ」


 私は、彼に対する深い恩義と、胸が締め付けられるような温かい感情を抱いたまま、近衛兵に連れられて夜会の広間を後にした。

 彼だけが、私の光だ。いつか必ず、彼に恩返しをしよう。そう心に誓って。




 * * *




 大広間の喧騒が遠ざかり、エルザの姿が完全に見えなくなった後。

 ユリウス・フォン・アークライトは、静かに立ち上がり、衣服のシワを払った。


「ユリウス、すまなかったな。お前の幼馴染をあのような目に遭わせてしまって」


 レオン王太子が、少し気まずそうに声をかけてくる。


「いいえ、殿下のお気になさることではありません。罪は罪です。マリア様のご無事こそが第一ですから」


 ユリウスは完璧な臣下の礼をとり、温和に微笑んだ。

 マリアの看病を手配し、騒ぎの事後処理をそつなくこなし、誰の目から見ても「完璧で誠実な宰相の息子」を演じきってから、彼は足早に自身の執務室へと向かった。

 重厚な扉を閉め、鍵を下ろした瞬間。


「……あぁ……っ、はぁっ……!」


 ユリウスは扉に背中を預けたまま、ずるりとその場に崩れ落ちた。

 完璧だった姿勢は見る影もなく崩れ、彼の口からは熱を帯びた、ひどく甘い吐息が漏れ出た。


「エルザ……愛しい、僕のエルザ……っ」


 彼は震える手で、先ほどまでエルザを抱きしめていた自身の腕を、きつく、ひきつるほどの力で抱きしめ返した。

 そして、彼女の涙を拭った右手を、自身の頬へとすり寄せる。


「あぁ……まだ、君の涙の熱が残っている。震える肩の感触も、薬草と甘い花の香りも……全部、全部ここにある……!」


 頬に押し当てた手をすうっと鼻先へ移動させ、ユリウスは深く、深く息を吸い込んだ。

 知的な眼鏡の奥の瞳は、異常なほどの熱を帯びてとろりと濁り、頬は極度の興奮で赤く染まっている。

 エルザの筆跡を完璧に真似たのも、給仕を買収して偽証させたのも、マリアのグラスに致死量に至らない『睡蓮の毒』を盛ったのも。

 すべては、ユリウス自身が仕組んだことだった。

 エルザは天才だ。彼女の生み出す新薬は素晴らしい。だが、ユリウスが愛しているのは、その「才能」だけではない。

 彼女の不屈の精神。誰にでも手を差し伸べる無防備な優しさ。深夜まで研究に没頭する横顔。その人間性のすべてを、狂おしいほどに愛していた。

 だからこそ、無能なレオン王太子などに彼女が消費されていくのが、臓腑を素手で掻き回されるほど許せなかったのだ。


「君を絶望のどん底に突き落とした時の、あの顔……たまらなかった。そして、僕だけを頼りにすがりついてきた時の、あの純粋な瞳……っ」


 ユリウスは床に転げ回り、自身の体をかき抱きながら甘く嗤った。

 彼女のすべてを自分だけのものにするためには、一度彼女を完全に壊し、社会から孤立させ、「ユリウスしかいない」と思い込ませる必要があった。

 これは、彼にして見れば紛れもない善意であった。彼女を最も安全で完璧な形で手に入れるための、純粋な「愛の証明」なのだ。

 彼にとっては。


「隣国で、君の美しい才能を存分に咲かせておいで。君の邪魔をする虫は、僕が裏からすべて潰してあげるから」


 ユリウスは床に伏せたまま、恍惚とした笑みを浮かべて天井を仰いだ。


「ああ、でも……君は優しすぎるから。きっとまた理不尽な世界に傷ついて、僕の助けを必要とする日が来る。……早く、その日が来ないかな」


 想像しただけで甘い痺れが背筋を駆け抜け、ユリウスは自らの体をさらにきつく抱きしめた。


「君のすべてを正しく愛し、守れるのは僕しかいないんだ。……だから、もし君が僕の手を離れて、間違った場所へ行こうとしたら」


 彼は虚空に向かって、ひどく優しく、慈しむように微笑んだ。


「その時は、君が二度と危険な外の世界へ出られないように……僕がずっと、一番そばで守り続けてあげるからね。愛しているよ、エルザ」


 静寂の執務室に、完璧な黒幕の、歪みきった愛の囁きだけが響いていた。











第2話


「先生! ありがとうございました……っ、あの子の熱が、嘘のように下がって!」


「よかった。でも、まだ油断は禁物ですよ。この栄養剤を三日、必ず食後に飲ませてくださいね」


 隣国オベリアの国境街。

 私が開いた小さな薬局は、今日も朝から患者の絶えない賑わいを見せていた。

 祖国を追放されてから三ヶ月。手持ちの資金は少なかったけれど、前世の知識と魔法薬学のスキルをフル稼働させ、安価で劇的に効く薬を売り出した結果、あっという間に街の人々に受け入れられたのだ。


「エルザ先生! 昨日言ってた『万能傷薬』、冒険者ギルドが金貨五十枚で樽買いしたいってさ!」


「えっ、樽で!? わ、分かりました、すぐに追加で調合します!」


 忙しく立ち回りながら、私はふと窓の外の青空を見上げた。

 ……祖国にいた頃は、こんな風に患者から直接「ありがとう」と言われることはなかった。王城の地下の薄暗い研究室で、ただ無能な王太子のために数字と薬効を追求するだけの日々だったから。


(ユリウス様……私、元気にやっていますよ)


 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 あの絶望の夜会。誰もが私を嘲笑い、極刑だと石を投げてきた中で、ただ一人、彼だけが私を守ってくれた。

 彼が国王派の貴族たちに頭を下げて回ってくれたおかげで、私は命を拾い、こうして新しい居場所を見つけることができたのだ。


「……そうだ。治安維持隊への寄付金、少し増やしておこうかな」


 ふと、昨日聞いた恐ろしい噂を思い出す。

 最近、この街で新参の商人を脅していた悪徳商会『赤蛇』の連中が、一晩で「全員」消えたというのだ。噂では、拠点に血の一滴すら残さず、神隠しのように蒸発したらしい。

 この国境の街は、なんて治安が良いのだろう。

 これなら、女性一人で店をやっていても安心だわ。

 私は彼への恩返しのために、もっともっと立派な薬師になろうと決意を新たに、乳鉢へ薬草を放り込んだ。




 * * *




 同時刻。グランツォーレ王国の王城、宰相執務室。


「……どういうことだ、ユリウス! 薬草の調達費用が、先月の三倍になっているぞ!?」


 血走った目で怒鳴り込んで来たレオン王太子に、ユリウス・フォン・アークライトは冷静に書類を差し出した。


「お言葉ですが、殿下。今までが異常だったのです。エルザがいなくなり、王立薬師団は本来の『適正価格』でしか薬を調合できなくなりました。おまけに彼女の独自製法が失われたため、治癒の効率も半分以下に落ち込んでおります」


「ば、馬鹿な! あの女はただの……っ」


「ただの毒婦、ですか? ……しかし現実として、騎士団からは『傷薬が足りない』と暴動寸前の苦情が来ております。早急に予算を回さねば、国境の防衛線が崩壊しますよ」


「くそっ……!」


 レオンは頭を抱え、フラフラと執務室を出て行った。

 扉が閉まった瞬間。

 ユリウスの口角が、三日月のように吊り上がった。


(いい気味だ。君の国は、君が追放したたった一人の少女の不在で、もう首まで泥に浸かっている)


 すべて計算通りだった。エルザという心臓を失ったこの国は、急速に死に向かっている。いずれレオンは失脚し、宰相家であるユリウスの実家が実権を握ることになるだろう。


 スッ、と。


 執務室の影から、音もなく黒装束の男が姿を現した。ユリウス直属の暗殺部隊の長だ。


「ご報告いたします。オベリアの国境街にて、エルザ様に嫌がらせを企てていた『赤蛇商会』の三十四名。……処理、完了いたしました」


「ご苦労。彼女に怪我は?」


「指一本、触れさせておりません」


「そう。……次からは、彼女の店の半径百メートル以内に害虫が近づいた時点で殺しなさい」


「ハッ」


 黒装束の男が、恭しく一通の封筒を机に置く。


「もう一つ。エルザ様から、当家宛てのお手紙です」


 その言葉を聞いた瞬間、ユリウスの完璧な冷徹さが、ピキリと崩れた。

 彼は弾かれたように立ち上がり、震える両手でその手紙をひったくった。


「下がれ」


「ハッ」


 部屋に自分一人になったことを確認すると、ユリウスは封筒の封を丁寧に、紙の繊維一本すら傷つけないように開けた。

 中から、ふわりと微かな薬草の香りが漂う。


「あぁ……っ、エルザ……僕の、エルザ……!」


 ユリウスは膝から崩れ落ち、その便箋に顔を埋めた。

 彼女の書いた文字の一つ一つに唇を寄せ、紙に染み付いた彼女の匂いを、肺の奥底まで貪るように吸い込む。


「はぁっ……っ、なんて、なんて純粋で甘い匂いなんだ……。君の指が、君の息が、この紙に触れたんだね……っ」


 便箋を自身の頬にすり寄せながら、ユリウスは熱病に浮かされたように悶えた。

 手紙には、街の人々に感謝された喜びと、ユリウスへの深い感謝、そして『いつか必ず、あなたに恩返しをします』という純粋な誓いが綴られていた。


「恩返し……あぁ、なんて愛おしい……。君は僕が君を絶望に突き落とした張本人だなんて夢にも思わず、僕のために才能を磨いてくれている……っ」


 ユリウスは床に転がり、便箋を胸にきつく抱きしめた。

 自分が手を下した「赤蛇商会」の大量殺人すら、彼女は『オベリアの治安が良いから』と無邪気に喜んでいる。その圧倒的な無知と、自分への絶対的な信頼が、ユリウスの背筋に甘い痺れを走らせた。


「もっと輝いておいで、エルザ。君に群がる汚い虫は、僕が裏から全部すり潰して、君の歩く道を無菌の絨毯にしてあげるから」


 熱を帯びた瞳が、暗い執務室の天井を見つめる。


「君がその輝きで、隣国の王族の目に留まり……政治という『本物の悪意』に巻き込まれて泣き叫ぶまで。その時、君を守れるのは僕だけだと思い知らせてあげるからね」


 美しく、完璧な黒幕は、血塗られた手を隠したまま、便箋に深い口づけを落とした。








第3話

「捕らえよ!! その魔女を今すぐ引きずり出せ!」


 オベリア王国の豪奢な王宮の一室。

 鼓膜を劈くような怒号が響き、重装甲の騎士たちが一斉に私へ槍の穂先を突きつけた。


「お待ちください! 私は何もしていません!」


「黙れ! 貴様が調合した薬を飲んで、第一王子殿下は血を吐いて倒れられたのだぞ!」


「だから、それは違います! 私が納品した風邪薬に、後から『灰呪の毒』が混入されていたんです! 殿下の血中魔力を調べさせてください、私ならまだ解毒の手立てが……っ!」


 私の必死の訴えは、冷酷な嘲笑によって掻き消された。

 私を糾弾しているのは、オベリア王国の筆頭宮廷薬師であるバルド伯爵だ。


「往生際の悪い女だ。そもそも貴様は、祖国グランツォーレでも聖女様に毒を盛って追放された『毒婦』ではないか! 我が国の王位継承権争いに乗じて、他派閥から暗殺を依頼されたのだろう!」


「違います……っ!」


「問答無用! 地下牢へ連行し、厳しい拷問をもって背後関係を吐かせろ!」


 騎士の無骨な手が私の腕を乱暴に掴み、床に引き倒した。

 冷たい大理石の感触。見下ろす貴族たちの軽蔑の目。

 フラッシュバックする。三ヶ月前、祖国で偽の証拠を突きつけられ、死の淵に立たされたあの夜の絶望が、そっくりそのままフラッシュバックしていた。


(また……? 私、またこんな理不尽に……殺されるの?)


 この三ヶ月、国境の街で必死に人々のために薬を作ってきた。少しずつ信頼を得て、王宮から指名で薬の調合を依頼された時は、あんなに嬉しかったのに。

 外の世界は、どうしてこんなにも残酷で、悪意に満ちているのだろう。

 槍の冷たい感触が首筋に触れた。

 視界が涙で滲む。恐怖で喉が引きつり、声が出ない。

 誰か。誰か、助けて。


(ユリウス、様……っ)


 遠い祖国にいる、唯一の味方の顔が脳裏に浮かんだ、その瞬間だった。


「——その薄汚い手を、彼女から離していただこうか」


 王室の重厚な扉が、両側から勢いよく開け放たれた。

 オベリアの近衛兵たちを従え、逆光を背負って現れたその姿に、私は息を呑んだ。


「な、何者だ貴様! ここをどこだと……」


「グランツォーレ王国、特命全権大使。ユリウス・フォン・アークライトです」


 銀糸の髪を揺らし、知的な眼鏡の奥の瞳を氷のように冷たく細めた青年。

 ユリウスだった。


「ユ、ユリウス様……!?」


「エルザ」


 彼は騎士たちを鋭い眼光だけで退かせると、床に倒れ込む私の元へ歩み寄り、その肩を庇うように優しく抱き起こした。

 信じられない。どうして彼がここに? 追放された罪人である私を助ければ、彼自身の立場まで危うくなるはずなのに。


「貴公がグランツォーレの特使だと!? だからなんだ! その女は我が国の王子を暗殺しようとした大罪人だぞ!」


 バルド伯爵が顔を真っ赤にして怒鳴るが、ユリウスは動じない。

 彼は懐から一枚の羊皮紙を取り出し、オベリアの国王に向かって恭しく一礼した。


「オベリア国王陛下。我が国の『元・臣民』がご迷惑をおかけしたこと、特使としてお詫び申し上げます。……しかし、真の罪人はそこにいる宮廷薬師バルドです」


「な、何を馬鹿な……!」


「これは、バルド伯爵が闇ギルドから『灰呪の毒』を購入した際の署名入り証書。そして、彼が王子暗殺の罪を、異国から来た素性の怪しい薬師——エルザに擦り付ける計画を記した密書です」


 ユリウスの言葉に、王室が騒然となる。

 提出された証拠を一読したオベリア国王の顔色が変わり、怒りに満ちた視線がバルド伯爵へと突き刺さった。


「ば、馬鹿な!? なぜその密書がお前の手に……っ! ひぃぃっ!」


「近衛! その愚か者を直ちに捕縛し、拷問にかけよ!!」


 先ほどまで私を絶望の淵に追いやっていた男が、悲鳴を上げながら騎士たちに引きずられていく。

 たった数分の出来事だった。

 絶対的な死の運命が、ユリウスの登場によって、鮮やかにひっくり返されたのだ。


「……遅くなってごめん、エルザ。怪我はないかい?」


「ユリウス様……っ、あぁ、ああぁっ……!」


 私は彼にしがみつき、声を上げて泣き崩れた。

 怖い、怖かった。外の世界の悪意は、私の薬の知識など簡単に踏み潰してしまうほど巨大で、恐ろしかった。

 でも、彼の腕の中だけは違う。ここは絶対的に安全で、温かい。


「助けに来て、くださったんですね……私のために、わざわざ……っ」


「当然だよ。君が隣国で素晴らしい薬を作っていると聞いて、特使の任務に志願したんだ。君は僕の、大切な……幼馴染だからね」


 ユリウスの大きな手が、私の震える背中を優しく、何度も撫でてくれる。

 彼に対する圧倒的な感謝と、もはや彼以外誰も信じられないという依存心が、私の心臓をきつく締め付けていた。




 * * *




 泣き疲れて気を失ったエルザを抱き上げ、ユリウスは用意された王宮の賓客室へと歩を進めていた。

 彼女の柔らかな銀髪が胸元で揺れ、薬草の混じった甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


「……はぁっ」


 ユリウスの口から、抑えきれない熱い吐息が漏れた。

 たまらない。最高だ。

 彼の腕の中で、怯えた小鳥のようにすがりつき、命のすべてを自分に委ねて眠るエルザ。その圧倒的な「支配感」と「庇護欲」が満たされる感覚に、背筋の奥がゾクゾクと甘く痺れ続けている。


(ああ、僕のエルザ。君は本当に、純粋で美しいね)


 ユリウスは歩きながら、エルザの額にそっと唇を落とした。

 オベリア王国の宮廷薬師バルドが、エルザの才能に嫉妬し、王子暗殺の濡れ衣を着せようとした事件。

 ……もちろん、そんな浅知恵をバルドに吹き込んだのは、他ならぬユリウス自身である。

 数週間前、ユリウスはオベリアの闇ギルドを通じて、密かにバルドへ『灰呪の毒』の製法と、「異国の薬師をスケープゴートにすれば完璧な暗殺ができる」というシナリオを流した。

 愚かなバルドはそれに飛びつき、見事にエルザを死の淵まで追い詰めてみせた。そして、ユリウスが事前に用意しておいた「密書という動かぬ証拠」によって、舞台から退場させられたのだ。

 すべては、この瞬間のため。

 外の世界で無邪気に才能を咲かせようとする彼女に、「政治の悪意」という圧倒的な絶望を叩き込み、二度と自分から離れられないように魂の根底から調教するため。


(わかっただろう、エルザ。君の優しさや才能を利用して、無惨に踏みにじろうとする人間は、外の世界に腐るほどいるんだ)


 ユリウスは賓客室のベッドにエルザをそっと下ろし、その頬をひどく慈しむように撫でた。


(でも、安心して。君を傷つける汚い虫は、僕が裏からすべて惨殺してあげる)


 彼女は自分がいなければ生きていけない。

 その事実を、ユリウス自身が作り出しているというのに、彼はそれを至上の愛だと信じて疑っていなかった。


「僕の愛、受け取ってくれるよね」


 眠る彼女の手を両手で包み込み、自らの頬にすり寄せる。

 狂気に濁った瞳を細めながら、完璧な黒幕は、愛しいマリオネットに向けて恍惚の笑みを浮かべていた。








第4話

 ふわりと、柔らかな日差しが頬を撫でた。

 目を覚ますと、そこは見たこともないほど豪奢で、かつ落ち着いた色合いの天蓋ベッドの中だった。


「……起きたかい、エルザ」


 傍らの椅子で本を読んでいたユリウスが、優しく微笑んで本を閉じた。

 彼が着ているのは、グランツォーレ王国の宰相執務服ではなく、ゆったりとした部屋着だ。ここは彼の私室……いや、アークライト宰相家の本邸だろうか。


「ユリウス、様……私、オベリアで倒れて……」


「そう。僕がここまで連れて帰ってきたんだ。もう三日も眠っていたんだよ」


 ユリウスはベッドの端に腰掛け、私の前髪を愛おしそうに梳いた。


「もうここは安全だ。オベリアの件は、グランツォーレ王国特使としての僕の権限で、すべて解決した。バルドは処刑され、君の潔白も証明されたよ」


「本当ですか……っ、よかった……」


 安堵で、また涙が込み上げてくる。

 だが、すぐに現実的な不安が頭をもたげた。


「でも、私……祖国を追放された身です。こんな風に、宰相家であるあなたのお屋敷に匿われていたら、ユリウス様まで罰せられてしまうのでは……?」


「心配ないよ。僕は今、王太子殿下から特権を与えられていてね」


 ユリウスは私の頬の涙を親指で拭い、そのまま私の顔を優しく包み込んだ。


「実は、殿下の側近たちが相次いで不正で捕まり、王家の実務が回らなくなっているんだ。そこで僕がすべての実務を引き受ける代わりとして、『僕の個人的な賓客(君のことだ)』の滞在を許可させた」


 彼は誇らしげに、けれどひどく甘い声で囁く。


「だからエルザ。君はもう、誰にも追放されない。僕の庇護下にある限り、王家すら君に指一本触れられない。……これからはずっと、ここで僕と一緒に暮らすんだ」


 彼の言葉は、あまりにも優しく、絶対的な安心感に満ちていた。

 もう、理不尽に陥れられることも、知らない街で怯えながら暮らすこともない。彼のそばにいれば、すべてから守ってもらえるのだ。


「ユリウス様……ありがとうございます。私、あなたに一生をかけて恩返しを……」


「恩返しなら、もうもらっているよ」


 ユリウスの顔が近づき、私の額にそっと唇が落とされる。

 微かな熱と、彼の整髪料の香り。心臓が跳ね、顔がカッと熱くなった。


「僕にとっての恩返しは、君がこの屋敷で、誰にも脅かされることなく、安心して好きな薬の研究をしてくれることだ」


 彼は立ち上がると、部屋の奥にある大きな両開きの扉を開けた。

 そこには、最新鋭の実験器具、最高級の乳鉢、そして世界中から集められたであろう希少な薬草が壁一面に並ぶ、完璧な「魔法薬学の研究所」が広がっていた。


「わあ……! これ、全部……!」


「君専用の研究室だよ。必要なものがあれば、何でも僕に言ってくれ」


「ユリウス様……!」


 私はベッドを飛び降り、夢中で器具の数々に見入った。

 薬師にとって、ここはまさに天国だ。外の世界の何倍も、何十倍も素晴らしい環境が、私のためだけに用意されている。


(ユリウス様は、本当に私のことを一番に考えてくださる……。私、彼のためだけに最高の薬を作ろう)


 胸をいっぱいに満たす感謝と歓喜。

 彼が私の背中を見つめながら、どんな「瞳」をしているのか。この時の私は、まったく気づいていなかった。




 * * *




 その日の深夜。

 ユリウスは自身の執務室で、暗殺部隊の長からの報告を受けていた。


「——以上で、レオン王太子の派閥に属していた主要な貴族四名の『横領の偽装』および『失脚工作』は完了いたしました」


「ご苦労。これで王家の実務能力は完全に麻痺した。明日からは、僕がすべてのまつりごとを握ることになる」


 ユリウスは書類にサラサラとサインをしながら、薄く笑った。

 エルザに話した「王太子からの特権」は事実だが、その原因となる「王太子派閥の崩壊」は、すべてユリウスが裏で糸を引いて起こしたものだ。

 彼女を正々堂々と自分の屋敷で飼うために、国の中枢すらも自分の盤上に作り替えたのだ。


「それと、エルザ様ですが……本日は夕食後、すぐに研究室へ向かわれ、現在も調合を続けておられます」


「そうか。無理をして倒れないよう、少し弱めの『睡眠誘発香』を空調に混ぜておきなさい。彼女は三時間後には、自分のベッドで可愛らしい寝息を立てるはずだ」


「ハッ」


 部下が退室すると、ユリウスは羽ペンを置き、引き出しから一つの小瓶を取り出した。

 それは、三ヶ月前にエルザを追放に追いやった『睡蓮の毒』。彼女の筆跡を完璧に真似た偽の購入記録も、一緒に保管してある。


「……あぁ、エルザ」


 ユリウスは小瓶を弄びながら、陶然と息を吐いた。

 彼女は今、自分の屋敷の、自分が用意した部屋で、自分のためだけに薬を作っている。

 屋敷のメイドや護衛はすべて、ユリウスに絶対の忠誠を誓う暗殺部隊の者たちで固めてある。彼女が屋敷の外に出ることはないし、外の不都合な情報が彼女の耳に入ることもない。

 ここは、僕と彼女だけの、完璧に無菌化された鳥籠。


「君は僕に感謝し、僕のために才能を咲かせる。僕だけが君の光で、僕だけが君の世界のすべてになる……」


 ユリウスは小瓶に唇を擦り寄せ、狂おしいほど甘く嗤った。


「誰も君を傷つけない。誰も君を奪えない。君はずっと、その無邪気な笑顔のまま、僕の掌の上で幸せに踊り続けていればいいんだよ」


 彼女が真実に気づくことは、永遠にない。

 もし万が一、この小瓶や偽造の証拠を見つけ、僕が黒幕だと気づき、僕の手を拒絶したとしても——その時は。


(その時はもう一度、たっぷりと時間をかけて……僕の愛の深さと、外の世界の恐ろしさを……教えてあげるからね)


 底知れぬ狂気と、一切の淀みもない純粋な愛情。

 完璧な黒幕は、愛しいマリオネットの眠る部屋へ向けて、この上なく優しい、祝福のような視線を向けた。










第5話

 深夜の宰相邸は、しんと静まり返っていた。

 私は与えられた研究室で、一人ランプの明かりを頼りに調合鍋をかき混ぜていた。ユリウス様の激務を少しでも癒すため、疲労回復と安眠に効く特製のポーションを作っていたのだ。


「……あ、しまった。『月華草』が足りないわ」


 棚を確認するが、ストックが切れている。

 この薬は鮮度が命だ。今夜中に仕上げてしまいたい。私はふと、屋敷の裏手にある広大な温室を思い出した。ユリウス様が私のために、世界中の珍しい薬草を集めてくれた場所だ。

 あそこなら、夜咲きの月華草がちょうど花を開いているはず。

 私はランプを手に取り、静かに研究室を抜け出した。

 誰もいない廊下を抜け、中庭の温室へと向かう。

 ガラス張りの温室からは、微かに月光が差し込んでいた。だが、中に入ろうとした私の足は、その場でピタリと凍りついた。

 ——濃密な、血の匂いがしたのだ。


(え……?)


 薬草の香りを完全に塗り潰すほどの、むせ返るような鉄の匂い。

 息を潜め、温室の奥を覗き込むと、そこには異様な光景が広がっていた。

 月明かりの下、漆黒の装束に身を包んだ男が膝をついている。その足元には、赤黒い染みが点々と広がっていた。

 そして、その男を見下ろすように立っているのは——ゆったりとした部屋着姿の、ユリウス様だった。


「……それで? レオン殿下の取り巻きだった、あの愚かな伯爵は?」


「ハッ。ご指示通り、処理いたしました。表向きは馬車の転落事故として処理されます」


「彼の『舌』は? かつて僕の愛しいエルザを、大衆の面前で『毒婦』と呼び、彼女の尊厳を傷つけたあの薄汚い舌は」


「はい。物理的に引き抜き、裏路地の野犬に食わせました。二度と、エルザ様を愚弄する言葉を紡ぐことはできません」


「そう。ご苦労だった。……君の傷は?」


「返り血です。対象の抵抗が思いのほか激しく……申し訳ありません」


 冷徹で、感情の抜け落ちた声。

 私の知っている、温和で優しい幼馴染の彼ではなかった。まるで冷酷な死神のように、人の命を奪った報告を淡々と受け入れている。


(嘘、でしょ……?)


 私の頭が真っ白になる。

 ユリウス様が、暗殺を? しかも、私を陥れたかつての貴族たちを……殺している?

 ガタガタと足が震え、私は無意識に後ずさった。

 その時。


 ——ガシャンッ。


 不注意で、足元にあった小さな素焼きの鉢植えを蹴り倒してしまった。

 鋭い音が、静寂の温室に響き渡る。

 黒装束の男が瞬時に殺気を放ち、私の方へ刃を向けた。


「……待て。剣を収めろ」


 ユリウス様の声が、低く響く。

 彼はゆっくりと私の方へ振り返った。月光に照らされたその端正な顔は、一瞬だけ、底知れぬ冷酷な暗殺者のそれだった。

 しかし、私の顔を認めた瞬間。彼の瞳から氷のような冷たさがスッと消え去り、代わりに、ひどく痛ましげで、悲痛な色へと染まった。


「……エルザ。どうして、こんな時間に起きているんだい」


 黒装束の男が影に溶けるように消え去り、温室には私と彼だけが残された。

 私はガタガタと震えながら、ランプを両手で強く握りしめた。


「ユ、ユリウス様……今の、は……? 人を、殺したって……」


「…………」


 彼は答えなかった。ただ、自嘲するように短く息を吐き、静かに目を伏せた。


「ごめん、エルザ。……君にだけは、僕のこんな汚い部分を見せたくなかった」


「どうして……どうしてあんな恐ろしいことを……っ。あなたは、そんな人じゃなかったはずです!」


 私の悲痛な叫びに、ユリウス様はゆっくりと歩み寄り、私の数歩手前で足を止めた。

 そして、自らの両手を、まるでひどく穢れたものを見るように見つめた。


「君は優しすぎるんだ、エルザ。だから、君を理不尽に虐げ、すべてを奪い、君を死の淵に追いやった奴らを……君はきっと、許してしまう」


 彼の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。


「でも、僕は違う。僕にはできなかった。君がどれほど傷つき、どれほど冷たい牢獄で泣いていたか……それを思うと、僕は彼らを、この手が許せなかったんだ!」


 顔を上げた彼の瞳には、狂おしいほどの怒りと、そして私への執着のような深い愛情が渦巻いていた。


「僕は、君の住む世界に、君を脅かす悪意を一つも残しておきたくない。君が安心して笑える世界を作るためなら……僕は喜んで、この手を血で染める」


 それは、あまりにも苛烈で、歪んだ愛の告白だった。

 彼が政敵を暗殺していたのは、権力のためじゃない。私を陥れた者たちへの、復讐のためだったのだ。

 私の尊厳を守るために、彼はずっと裏で、一人で手を汚してくれていた。


(ああ……なんということなの)


 恐怖は、いつの間にか消え失せていた。

 代わりに胸を満たしたのは、彼への底知れぬ申し訳なさと、狂おしいほどの愛しさだった。私のために、この優しくて完璧な人が、どれほどの重い十字架を背負ってくれていたのだろう。


「……僕の手はもう、君が思っているような綺麗な手じゃない。醜く、血塗られた人殺しの手だ」


 ユリウス様は悲しげに微笑み、私から一歩後ずさった。

 わざと、私の手が届かない場所へ。


「僕が怖いかい、エルザ。……この化け物の手を、君は振り払って、僕を軽蔑するかい?」


 彼は私を試すように、震える右手をそっと私へ差し出した。


 ——振り払えるわけがない。


 私はランプをその場に置き捨てると、駆け寄り、彼の差し出された両手を、私の両手でぎゅっと包み込んだ。


「軽蔑なんて、しません……っ!」 


「エルザ……?」


「ごめんなさい、ユリウス様。私のために、あなたを人殺しにしてしまって……っ。もう、一人で背負わないでください。私も……あなたの十字架を、一緒に背負いますから」


 私は彼の胸に飛び込み、その背中に腕を回してきつく抱きしめた。

 彼から漂う微かな血の匂いすら、私にとっては彼の深い愛情の証に思えた。


「私、どこにも行きません。ずっと、あなたのそばにいます。……だから、もう悲しい顔をしないで」


「あぁ……エルザ、僕の、エルザ……っ」


 ユリウス様の腕が、私の背中に強く回される。

 私の肩口に顔を埋めた彼の体は、小さく、微かに震えていた。




 * * *




 エルザに抱きしめられながら。

 エルザの視界に入らない肩口で。

 ユリウス・フォン・アークライトは、震える口元を手で押さえ、歓喜の絶頂に身を捩っていた。 


(ははっ……あははははっ!! ああ、なんて愛おしいんだろう! 最高だ、君は本当に最高だよ、エルザ!!)


 悲痛な声も、震える手も、すべては完璧に計算された演技だ。

 温室での密会も、わざと彼女が夜中に『月華草』を求めて来るよう、昼間のうちにストックを隠しておいたからこそ実現した舞台装置。

 自分の残虐性を「すべては君を守るための愛ゆえ」と美しくラッピングして提示すれば、極限まで自分に依存している彼女は、決して拒絶できないと確信していた。

 そして結果は、想像以上だった。

 彼女は自分から『共犯者になる』と宣言し、血塗られた彼の手を自ら引き寄せたのだ。


(これで君は、僕がどれほど残虐な行為に及んでも、それを『自分のせいだ』と解釈し、自ら進んで僕の鳥籠の鍵を内側からかける)


 もはや、彼女が真実に気づく恐れは完全に消え去った。

 たとえ彼が黒幕だと知ったとしても、今の彼女の心は「私のためにそこまで……」という狂気的な解釈回路に完全に書き換えられている。


「ありがとう、エルザ。君がいれば、僕はもう何も恐れないよ」


 ユリウスは甘く囁きながら、エルザの銀髪に深く、深く口づけを落とした。

 彼の眼鏡の奥の瞳は、これ以上ないほどの暗い恍惚にとろけきっている。

 この無菌化された鳥籠の中で、愛しい白百合は、黒幕の猛毒を極上の甘露だと信じ込み、永遠に咲き続けるのだ。







第6話

 温室での出来事から、一ヶ月が過ぎた。

 私は変わらず、ユリウス様が用意してくれた研究所で薬の調合に没頭している。

 ただ一つ変わったことと言えば、作る薬の種類だ。人々の病を癒す薬ではなく、主に「毒」や「劇薬」を作るようになった。


「……よし。これで『睡魔の吐息』は完成ね」


 試験管の中で揺れる透明な液体を光に透かし、私は小さく息をついた。

 ユリウス様は、私のためにその手を血に染め、今も表舞台で政敵たちと危険な闘いを繰り広げてくれている。私にできるのは、ただ守られるだけでなく、彼の身を守るための「武器」を作ることだけだった。


「エルザ。また徹夜したのかい?」


「あ、ユリウス様。おはようございます」


 執務服に身を包んだユリウス様が、研究室に顔を出した。

 私は駆け寄り、完成したばかりの小瓶を彼の手の中へ握らせた。


「これ、以前お渡しした麻痺薬の改良版です。気化しやすくしてあるので、もし暴漢に襲われたら、これを足元に叩きつけて逃げてください。吸い込めば数秒で意識を失います」


「……僕のために、また新しい薬を作ってくれたんだね。ありがとう、エルザ」 


 ユリウス様は小瓶を愛おしそうに撫で、私に甘い口づけを落とした。

 彼が嬉しそうに笑ってくれるだけで、徹夜の疲れなど吹き飛んでしまう。


「ユリウス様。私、あなたを守るためなら、どんな毒でも作ります。だから……どうかご無事でいてくださいね」


「ああ、もちろんだよ。君の作ってくれたこの『愛の結晶』が、僕をすべての悪意から守ってくれるから」


 私の薬が、彼の身を守る役に立つ。

 その事実だけが、人殺しの共犯者になってしまった私の、唯一の心の救いだった。




 * * *




 グランツォーレ王国、王城。

 王太子の執務室は、酷い酒と吐捨物の臭いが充満していた。


「くそっ……! なぜだ、なぜ誰も余の言うことを聞かない!!」


 かつて私を冷酷に追放した第二王子レオンは、もはや見る影もなく痩せこけ、床に転がった酒瓶を蹴り飛ばしていた。

 彼の側近たちは次々と不正で捕まり、頼みの綱であった国王すらも、連日の国政の停滞に激怒し、彼を廃嫡する寸前まで来ている。

 すべてを失いかけ、半狂乱になっている王太子の部屋へ、一人の青年が静かに入室した。


「……殿下。お加減が優れないようですね」


「ユリウスか……っ! ちょうどいい、お前からも父上に言ってくれ! 余は何も悪くない、悪いのはあの無能な側近どもで……!」


「ええ、分かっていますよ。殿下は何も悪くない」


 ユリウス・フォン・アークライトは、荒れ果てた部屋の惨状に眉一つ動かさず、温和な笑みを浮かべたままレオンへ近づいた。


「ただ、少しお疲れのようです。……最近、ひどい不眠に悩まされているのでは?」


「そうだ! 寝ても覚めても、あのエルザの恨み言が聞こえてくるような気がして……っ。あの時、殺しておけばよかったんだ!」


「それはお辛いですね。……では、よく効く『特効薬』を差し上げましょう。私の、最も信頼する専属薬師が調合したものです」


 ユリウスは懐から、今朝エルザから受け取ったばかりの小瓶を取り出した。


「これを一滴、ワインに混ぜてお飲みください。どんな不安も恐怖も消え去り、極上の安らぎが得られますよ」


「ほ、本当か……? さすがはユリウスだ、余を見捨てないのはお前だけだ……っ」


 レオンは震える手で小瓶をひったくると、自らワイングラスに数滴垂らし、一気に飲み干した。


「……あ、あぁ……」


 数秒後。レオンの目から、スッと焦点が消えた。

 グラスが床に落ちて砕け散り、彼自身も糸が切れた操り人形のように、ドサリとその場に崩れ落ちる。


「……エル、ザ……」


 意識が完全に闇に沈む直前。

 レオンの濁った視界に映ったのは、氷のように冷たく、この世のすべての悪意を煮詰めたような笑みを浮かべる、ユリウスの顔だった。


「ごきげんよう、殿下。僕の可愛いエルザを傷つけた罪……その命と正気で、たっぷりと贖っていただきますよ」


 エルザが「護身用」として渡した薬は、密閉空間で多量に摂取すれば、脳の神経細胞を破壊し、二度と目覚めることのない廃人へと変える劇薬だった。

 もちろん、薬師としての素養が十分なエルザはそれに気づいていたが、ユリウスが「そんな使い方」をするとは夢にも思っていない。

 彼女の純粋な善意と愛を、ユリウスは最も残酷な形へと変換し、最大の政敵を完全に処理したのだ。


「あぁ……君が作った薬は、本当に素晴らしいよ、エルザ」


 ユリウスは動かなくなったレオンを見下ろしながら、恍惚とした吐息を漏らす。

 これで、エルザを「毒婦」として大衆の面前で糾弾した者たちは、すべてこの世から消え去った。

 そして王太子が廃人となった今、次期王位に最も近い権力を持つのは、すべての実務を握る宰相家の嫡男——ユリウスのみである。




 * * *




 その夜。

 私がダイニングで待っていると、ユリウス様がご機嫌な足取りで帰宅した。


「ただいま、エルザ」


「お帰りなさいませ、ユリウス様。……あ、なんだか、とてもお顔の色が良いですね。何か良いことでもありましたか?」


「うん。君が今朝くれた『薬』のおかげで、随分と助けられたよ」


 ユリウス様は私を抱き寄せ、私の銀髪に深く顔を埋めた。


「本当ですか? 私の薬が、ユリウス様のお役に立ったのですね……っ」


「ああ。君の愛が、僕を……いや、この国を救ったんだよ」


 私は嬉しさで胸がいっぱいになり、彼の広い背中に腕を回した。

 私が彼を守り、彼が私を守ってくれる。

 この閉ざされた鳥籠の中の生活は、外の世界の何よりも美しく、幸福だった。


「エルザ。君を陥れた悪人は、もうどこにもいない。……だから、安心して僕のお嫁さんになってくれるね?」


「はい……喜んで、ユリウス様」




* * *



 互いに強く抱きしめ合いながら。

 エルザは彼の温もりに安堵の涙を流し、ユリウスは自らの手で完成させた「永遠の支配」に狂喜の笑みを浮かべていた。

 完璧な黒幕と、無自覚な共犯者。

 二人の歪で幸福な生活は、今後も続いてゆくのだろう。

 いずれ訪れる滅びの時まで。



長くなってしまいました。

続きは考えておりますが、評判よければユリウスの断罪まで書きたいと思います。

多分あんまり評判良くなくても書くとは思いますが。

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