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離縁された侯爵夫人、使用人が全員ついてきた結果、元夫の屋敷が崩壊しました。

作者: 夏灯みかん
掲載日:2026/03/27

 夫に呼び出された侯爵邸の応接間は、昼だというのにひどく冷えていた。

 暖炉には火が入っている。だが、そのぬくもりはどこか遠く、部屋の隅まで届いてはいない。


 キャサリンは立ったままドレスをきゅっと握った。

 ――王宮にいた頃は、こういう空気の違いにも敏感だった。

 誰がどこに立ち、どのように言葉を交わすか。

 それだけで、その場の力関係はすべて見えてくる。

 そして今、この部屋にあるのは。夫婦の“対話”ではなく、夫からの一方的な“通達”だ。


「キャサリン。君との婚姻を解消する」


 正面に座る夫――エドワード侯爵は、書類に目を落としたまま言った。


 あまりにあっさりとした声音だった。

 まるで、王宮で日々交わされる決裁の一つのように。

 キャサリンは一瞬だけ瞬きをし、それからゆっくりと背筋を正す。


「……理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」


「分かっているだろう」


 顔も上げないまま、答えが返る。


「跡取りだ。この家には、子が必要だ」


 淡々とした言葉。


 二十歳で嫁いで来て十年。その歳月が、その一言で切り捨てられる。

 胸の奥が、わずかに軋む。

 けれどキャサリンは、それを表には出さない。


「医師の見立てでは、まだ可能性は――」


「もういい」


 ぴしゃりと遮られる。

 そこでようやく、エドワードは顔を上げた。

 その瞳に宿るのは、苛立ちでも怒りでもない。

 ただ、“面倒だ”という色だった。


「そういう話は聞き飽きた。結果が出ていない以上、意味はないだろう。子どもが生めない妻は離縁してよいと、教会も認めている」


 キャサリンは一瞬、言葉を失う。

 だが、すぐにうなずいた。


「……そうですね」


 否定はしない。

 それが、これまで彼女が選び続けてきたやり方だった。

 この家を守るために。

 夫の機嫌を損ねないために。

 ――何も言わないことを、選んできた。


「時間を無駄にするつもりはない」


 エドワードは椅子に深く腰掛け、続ける。


「すでに話は進んでいる」


「……話、とは?」


「後妻だ」


 その一言で、すべてが繋がる。

 キャサリンは、静かに視線を伏せた。


「――お相手は」


「マリアンだ」


 さらりと言った。まるで、特別でも何でもないことのように。

 キャサリンの脳裏に、ひとりの女性の姿が浮かぶ。

 王宮で何度か見かけたことのある若い宮仕えのメイド。

 明るく、よく笑い、周囲の空気を軽くする――そういう、場に“楽しさ”をもたらす存在。


 ――そして。


 自分とは、まるで違う種類の女性。


「王宮で、懇意にしている」


 エドワードは、特に隠す様子もなく続けた。


「気が合ってな。話していると楽なんだ」


 軽い口調だった。そこに後ろめたさはない。

 むしろ、正当化すら感じられる。


「――彼女は、すでに身ごもっている」


 静かに告げられる。

 それは、すべての決定事項を裏付ける“結果”だった。

 キャサリンは、ゆっくりと息を吐く。


 そういうことだったのか、と。


 ここ最近の違和感が、すべて一本に繋がる。


 王宮から戻る時間が遅くなったこと。

 言葉を交わすことが減ったこと。

 視線を合わせなくなったこと。


 ――すべて。


「……承知いたしました」


 自分でも驚くほど、声は穏やかだった。

 エドワードの眉が、わずかに動く。


「お前は本当に、聞き分けがよくて助かる」


 そう言って、ようやくこちらを見る。


「お前のそのきちんと“わきまえている”ところは、好ましく思っていたよ」


 一瞬、言葉の意味が分からなかった。


 けれど。


 すぐに理解する。


 それは、褒め言葉ではない。

 妻としてではなく。ただの“都合のいい存在”として好ましく思っていたということだ。

 キャサリンは、わずかに目を伏せる。


 胸の奥で、何かが静かに軋む。

 けれど、それもすぐに収まった。


 怒りではない。悲しみでもない。


 ただ――少しだけ、悔しかった。

 こんな扱いを受けるために、十年を過ごしてきたのではなかった。


(私のやり方は……間違っていたのかしら)


 問いは、声にはならない。


「荷物はまとめておけ。近日中に出ていってもらう」


「はい」


 それ以上、言葉はなかった。言うべきことも、もう残っていない。

 キャサリンは立ち上がり、深く一礼した。


「これまで、お世話になりました」


 形式通りの別れの言葉。少しだけ、声が震えた。

 エドワードはそれに応じることもなく、再び書類へと視線を落とす。

 ――すでに関心を失ったように。


 キャサリンは踵を返して、応接室を出た。

 扉に手をかけると、ほんの一瞬だけ、指先に力が入った。


 ――かつて、離縁の宣告を受けたこの部屋で、エドワードとお茶を飲み、微笑みあった日々もあった。

 それは、ほんの短い間だったけれど。


 ――夫が自分の前で笑わなくなったのは、いつからだったろうか。

 夫の仕事に意見をしたのがいけなかったのだろうか。

 ……子どもがいれば、違ったのだろうか。


 いくつもの考えが頭に浮かび、瞳が潤んだ。

 キャサリンは目元をぬぐうと、何も言わず、ただ静かに歩き出した。

 その背を、いくつもの視線が追っていた。

 廊下には使用人が集まっていた。


 呼び止める声は、控えめでありながら、確かな意志を含んでいた。

 キャサリンは足を止め、振り返る。


 そこには、執事のアルフレッドを先頭に、料理人のグレッグ、庭師のハロルド、メイド長、そして幾人もの使用人たちが並んでいた。


 皆、普段と同じように整った姿勢で立っている。


 だが、その表情はどこか固い。


「……何かしら」


 キャサリンは静かに問いかける。

 執事のアルフレッドが一歩前に出た。


「……先ほどの、旦那様からの、お話は――」


 言い淀む。


 だが、それ以上言葉を重ねる必要はなかった。


 キャサリンは、ゆっくりとうなずく。


「聞いていたのね。……すでに決まったことです」


 穏やかな声だった。


「私は出て行くけれど……皆さんは、変わらず、お勤めして……」


「それは、できません」


 遮ったのは、料理人のグレッグだった。


 低く、しかしはっきりとした声。


 キャサリンはわずかに目を見開く。


「奥様がいない厨房など、回りません」


 それは感情的な言葉ではなかった。――ただの事実だった。


「食材の発注も、保存の管理も、献立の調整も……すべて奥様のご判断でした」


 続けて、庭師のハロルドが口を開く。


「庭も同じです。季節ごとの手入れも、配置も、水の量も――すべて奥様が決めておられた」


 メイド長が、静かに言葉を継ぐ。


「帳簿の整理、使用人の配置、来客の対応……この屋敷を動かしていたのは、奥様です」


 一つひとつ、積み重なる言葉。


 それは称賛ではない。事実だった。


 使用人たちは声を重ねた。


「「「私たちも――奥様と一緒に連れて行ってください!」」」


 キャサリンは、しばし言葉を失う。


 だが。


 ゆっくりと首を横に振った。


「……お気持ちは嬉しいですが――私は出て行かなければ」


 顔を上げ、はっきりと告げる。


「私は実家に戻るつもりです」


 静かに続ける。


「――皆さん全員を連れて、実家へ戻ることはできないわ」


 その言葉に、わずかな動揺が走る。

 キャサリンはそれを見逃さなかった。相手の気持ちが落ち着くように、柔らかく言葉を重ねる。


「ですが」


 その一言で、全員の視線が集まる。


「皆様が、この屋敷を離れたいと……そう考えているのなら」


 ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。


「新しい働き口を用意できないか、宮廷に相談してみます」


 一瞬、誰も反応できなかった。


 予想していなかった言葉だった。


「わたくしは、かつて王妃陛下にお仕えしていましたから」


 キャサリンは淡々と続ける。


「はっきりと、お約束はできないわ。けれど――」


 ほんのわずかに、間を置く。


「皆様が安心して働ける場所を探すことくらいは、きっと、できるはず」


 そして。


 少しだけ困ったように、微笑んだ。


「最後に、それくらいのことは、しますわ」


 沈黙が落ちる。その沈黙は、先ほどまでとは違うものだった。

 迷いではなく――理解の時間だった。

 執事のアルフレッドが、ゆっくりと頭を下げる。


「……そのようなことまで、お考えになっておられたのですか」


 抑えた声。

 だが、その奥にある感嘆の感情は隠しきれていない。


「当然です」


 キャサリンは穏やかに答える。


「皆様には、長く支えていただいたのだから」


 それは、飾らない言葉だった。

 見返りを求めるでもなく、ただ当たり前のこととして。

 だからこそ――重かった。


 料理人のグレッグが、顔を上げる。

 迷いは、もう消えていた。


「……やはり、奥様のもとを離れることはできません」


 庭師も、メイドも、静かにうなずく。


「働き口など、どこでもよろしいのです」


「我々は――」


 言葉を揃えるように。


「奥様にお仕えしたいのです」


 キャサリンは、言葉を失う。


 それは予想外の答えだった。

 自分のためではなく、彼らのために提示した道だったはずなのに。


 それでも、彼らは、選んだ。

 “仕える場所”ではなく、“誰に仕えるか”を。

 執事のアルフレッドが一歩前に出る。

 背筋を伸ばし、静かに告げる。


「使用人一同、旦那様のもとを辞し、奥様に同行いたします」


 意思のこもった、はっきりとした宣言だった。

 その瞬間――この屋敷の“何か”が、完全に決まった。

 その夜――キャサリンは机に向かっていた。


 灯りの下、真新しい便箋の上に、整った文字が並んでいく。


 ――王妃陛下への書簡。


 内容は簡潔だった。


 自身の離縁の報告と、そして。


 屋敷を離れる使用人たちの処遇についての相談。


(……皆様の居場所を、きちんと整えなければ)


 筆を止め、キャサリンはわずかに目を伏せる。


 “ついていく”と言った彼らの言葉は、本心だった。


 だが、それに甘えるわけにはいかない。


 自分が正しいと思う形で、終わらせなければならない。


 それが――


 この家で過ごした十年の、最後の責任だった。


 再び筆を走らせる。


 余計な言葉は書かない。


 事実と、願いだけを、簡潔に。


 やがて、書き終える。


 封をし、静かに息を吐いた。


「……これで、よろしいでしょうか」


 誰に問うでもなく、小さく呟く。


 その声には、迷いはなかった。


 返答は、早かった。


 翌日の昼には、王宮からの使者が到着する。


「王妃陛下より、面会の許しが出ております」


 短い言葉。


 だが、その意味は重い。


 キャサリンは、静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 王宮の一室――王妃の自室。かつて、エドワードと結婚する前、十五歳から二十歳までの間、キャサリンはここで王妃の侍女を務めていた。


 だが今は、少しだけ遠く感じる。

 重厚な扉の前で、キャサリンは足を止めた。

 ほんのわずかに、呼吸を整える。


 ――ここでは、取り繕う必要はない。


 そう、分かっている。


「キャサリンにございます」


 扉越しに告げる。間を置かず、返答があった。


「お入りなさい」


 その声音は、昔と変わらない。


 柔らかく、しかし揺るがない。


 扉を開ける。


 室内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。


 整えられた静けさ。


 人を落ち着かせる、しかし決して緩まない空間。


 王妃は窓辺に立ち、こちらを振り返った。


「お久しぶりです、キャサリン」


「ご無沙汰しております、王妃陛下」


 キャサリンは優雅に一礼する。その所作は、かつてと寸分違わない。

 王妃はそれを見て、わずかに微笑んだ。


「変わりませんね」


「……そうであれば、幸いです」


 静かに応じる。


 王妃は一歩近づき、じっとキャサリンを見た。


「――随分と、痩せましたね」


 不意の言葉。


 キャサリンは一瞬だけ目を伏せる。


「至らぬ点が多かったのでしょう」


「いいえ」


 即座に否定される。


 やわらかく、しかし断定的に。


「あなたは昔から、よくやっていましたよ」


 その一言に、胸の奥が揺れる。


 キャサリンは顔を上げる。


 王妃の瞳は、まっすぐに彼女を見ていた。


「あなたの書簡、読みました」


 王妃は穏やかに言う。


「まずは――」


 わずかに間を置く。


「あなたが、最後まで“正しくあろう”としていることを、誇りに思います」


 キャサリンは言葉を失う。


 評価されたのは、有能さではない。


 姿勢だった。


「使用人たちのことを、案じているのですね」


「はい」


 キャサリンは迷わず頷く。


「彼らは、長くこの家を支えてきた者たちです」


 静かに言葉を紡ぐ。


「私の都合で、行き場を失わせることはしたくありません」


 それは綺麗事ではない。


 ただの、彼女の信念だった。


 王妃はしばし、何も言わずに彼女を見る。


 そして。


「……あなたらしい」


 小さく、しかし確かな声音で言った。


「あなたがあの家を支えていたことは、ずっと知っています」


 静かな断定。


 揺らぎはない。


 キャサリンの視界が、わずかに揺れる。


 ――知って、いた。


 その事実が、ゆっくりと胸に落ちていく。


「それでも、何も申しませんでした」


 王妃は続ける。


「あなたならば、自らの役目を果たすと信じていましたから」


 わずかに微笑む。


「そして実際、その通りになりましたね」


 キャサリンは、息を整える。


 胸の奥で、何かがほどけていく。


「……過分なお言葉にございます」


「いいえ」


 王妃は首を横に振る。


「正当な評価です」


 そして、ゆっくりと歩み寄る。


「だからこそ」


 その一言に、空気が引き締まる。


「あなたに、お願いしたいことがあります」


「今は使っていない南の離宮を、新たに整えることになりました」


 王妃は淡々と告げる。


「わたくしも、いずれそちらへ移る予定です」


 王妃は言葉を強めた。


「その離宮の使用人の管理を、あなたに任せたいのです」


 キャサリンは息を呑む。


 一瞬、言葉が出なかった。


「……私に……ですか」


「ええ」


 迷いのない肯定。


「あなた以上に適した人材を、わたくしは知りません。人手がいります。あなたの使用人の方々も一緒に、力を貸してください」


 それは、飾りのない言葉だった。


 ただ、事実として告げられている。


 だからこそ――重たかった。


 キャサリンは、ゆっくりと頭を下げる。


 だが、その前に。


 一瞬だけ、言葉がこぼれた。


「……私は、間違っていなかったのでしょうか」


 それは問いだった。


 小さく、しかし確かな。


 王妃は、迷いなく答える。


「ええ」


 ただ一言。


「あなたは、常に正しかった」


 その言葉で、すべてが満たされた。


 キャサリンは、深く一礼する。


「――謹んで、お受けいたします」


 顔を上げたとき。


 キャサリンの瞳には、わずかな光が宿っていた。


 それは、救われた者のものではない。


 ――認められた者のものだった。


 


  キャサリンが屋敷を去った、その日の夕刻。


 侯爵邸の厨房は、火が落とされていた。


 ――火を入れる者が、いなかった。


「――まだか」


 苛立った声が響く。


 エドワードは食堂の椅子に腰掛け、空の皿を前に指を鳴らした。


 いつもなら、何も言わずとも料理は並ぶ。

 それが“当然”だった。だが――今は違う。


「料理はどうした」


 声を投げる。


 しばらくして、見慣れない若い使用人が顔を出した。


「は、はい……その……準備に、少々お時間を……」


「昼から何をしていた」


「で、ですが……食材の場所が分からず……帳簿も見当たらなくて……」


 エドワードの眉が歪む。


「そんなもの、適当にやればいいだろう」


「で、ですが……前任の方が……」


 言葉が途切れる。


 ――当然だった。


 前任の者は――誰一人として、残っていない。


「……使えん」


 吐き捨てる。


 だが、その言葉に意味はない。


 代わりはいないのだから。


「もう、そんなに怒らなくてもいいじゃない」


 軽い声が、背後から割り込んだ。


 振り返ると、マリアンがいた。


 柔らかな色のドレスをまとい、笑みを浮かべている。


 場の空気を軽くするような、明るい笑顔。


 ――それは、王宮で見ていたときと変わらない。


「ねえ、今日は外で食べない? 気分転換になるわ」


 楽しげに言う。


 だが――エドワードは顔をしかめた。


「そんな暇があるか」


「えー」とマリアンは頬を膨らませた。


「でもお腹すくでしょ?」


 少女のようなそんな仕草を宮廷では可愛らしいと思っていたが、今はそれはエドワードを苛つかせた。


「――屋敷のことが回っていないのだぞ」


 短く言い捨てる。


 マリアンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから肩をすくめた。


「そういうのは、下の人たちに任せればいいじゃない」


 その言葉に、エドワードはわずかに黙る。


 ――かつては、それで回っていた。


 いや。


 回っている“ように見えていた”。


 食卓に並んだのは、焦げた肉と、塩の利きすぎたスープだった。


 マリアンは一口食べて、顔をしかめる。


「なにこれ、しょっぱい」


 遠慮のない言葉で、皿を押しやる。


「こんなの食べられないわ」


 エドワードもフォークを置いた。――だが、文句を言う相手がいない。


「ねえ」


 マリアンが身を乗り出す。


「料理人、ちゃんとした人に替えた方がいいんじゃない?」


「替えている」


 短く返す。


「だが、どいつも使えん」


「ふうん……」


 興味なさそうに相槌を打つ。そして、ふと笑った。


「前の奥様、こういうの、得意だったの?」


 エドワードは、答えなかった。


 その夜――執務室の机の上には、未処理の書類が山積みになっていた。


 封も切られていない書簡。計算の合わない帳簿。途中で止まった発注記録。


「……何だこれは」


 紙をめくる。数字が合わない。何が足りないのかも分からない。


「ねえ、それ、面倒なら明日にしたら?」


 背後から、軽い声。マリアンがソファに寝転がりながら言う。


「今やらなくてもいいでしょ?」


 エドワードは、何も言わない。ただ、書類を見下ろす。


 いつもは――すでに整理されていた。

 優先順位がつけられ。

 必要な部分だけが目に入るようになっていた。

 ――誰が、やっていた。

 その問いに、ようやく答えが浮かぶ。


「……あいつが」


 ぽつりと呟く。


「ん?」


 マリアンが首をかしげる。


「……キャサリンが、やっていたのか」


 どうして気づかなかった。

 いや――気づこうとしなかったのか。

 つぶやいた言葉は、あまりにも遅かった。

 

 翌朝――厨房では煙が立ち込めていた。

 新人の料理人が鍋を焦がしたのだ。

 庭は荒れ始め、帳簿は乱れ、屋敷全体が崩れていく。

 新しく雇った使用人は三日と持たない。

 一人は無断で姿を消し、もう一人は銀器を持ち出して逃げた。


「ちょっと、何これ」


 マリアンが眉をひそめる。


「庭、ひどいじゃない。前はもっと綺麗だったのに」


 エドワードは答えない。


「ねえ、どうするの?」


「……何をだ」


「だから、こういうの」


 曖昧に手を振る。


「ちゃんとした人を雇うとか、指示するとか」


 エドワードは、言葉に詰まる。


 ――どうするか。


 それを、考えたことがなかった。


 いつも――“整っていた”から。


「……お前は、できないのか」


 思わず口にする。


「え?」


 マリアンはきょとんとする。


「私? 無理よ」


 あっさりと答えた。


「そんなの、やったことないもの」


 当然のように。悪びれもなく、言葉を続けるマリアンをエドワードは唖然と見つめる。


「楽しいことなら考えられるけど」


 くすっと笑う。


「こういう面倒なのは、向いてないわ」


 その言葉で――すべてが、はっきりした。


 広い応接間に、エドワードは一人、立ち尽くした。


 静まり返った空間。あまりにも広く、空っぽだった。


 思い出すのは――整えられた書類。何も言わずとも回っていた日々。


『お前のそのきちんと“わきまえている”ところは、好ましく思っていたよ』


 自分の言葉が、蘇る。

 いつも、当たり前のように、そこにいた彼女。

 初めて、その名を口にした。


「……キャサリン」


 だが――答える者はいない。


 隣では、マリアンが退屈そうに窓の外を眺めている。


 その光景が、エドワードに残されたすべてだった。


 離宮は、静かな場所だった。


 王都から南へ少し離れた、丘の上に建てられたその館は、かつて来賓を迎えるために造られた大きな建物である。

 各国の使節や貴族を滞在させるため、数多くの客室が用意されていた。


 その数――八十八室。


 だが長く使われていなかったため、今は人の気配が薄れている。


 閉ざされた窓。

 手入れの止まった庭。

 音を失った空間。


 だが。


「……窓はすべて開けてください。風を通しましょう」


 キャサリンの一声で、空気が動き始める。


「庭の手入れは奥から順に。日当たりの良い場所から整えれば、見た目も早く変わります」


「承知いたしました、キャサリン様」


 迷いのない指示。


 それを受けて、使用人たちが自然に動き出す。


 誰かが迷えば、別の誰かが補う。

 流れができている。


 ――人が、機能している。


 数日もすれば、離宮の空気は見違えるほど変わった。


 廊下は磨かれ、庭には色が戻り、食堂には温かな香りが漂う。


 それは、かつて侯爵邸で当たり前のようにあった光景。


 だが、決定的に違う点があった。


 ――ここでは、それが“当然”ではない。


 正しく評価されている。


 キャサリンは、その様子を少し離れた場所から見つめていた。


 指示は出すが、支配はしない。

 動かすのではなく、整える。


 それが、彼女のやり方だった。


「見事ですね」


 不意に、声がかかる。


 振り向くと、一人の男性が立っていた。

 端正な顔立ちに、無駄のない所作。静かな威圧感をまとっている。


「初めて拝見いたします。セシルと申します」


 軽く頭を下げる。


「陛下の側近を務めております。――離宮の整備を任されました」


 キャサリンも一礼する。


「キャサリンにございます。王妃陛下より、離宮の使用人の管理を承りました」


 セシルは、離宮の様子に視線を巡らせる。


 整えられた空間。 統制された動き。

 そのすべてが、一人の判断で組み上げられていることを理解している目だった。


「なるほど……聞いていた以上だ」


 淡々とした声。


 だが、その評価は揺るがない。


「過分なお言葉です」


 キャサリンは静かに返す。


 だが、セシルは首を横に振る。


「いいえ。正当な評価です」


 その言葉に、キャサリンはわずかに目を伏せる。


 同じ言葉を、最近どこかで聞いた気がした。


 だが今度は――その意味を、受け取ることができる。


「あなたのような方が、正当に扱われなかった理由が分かりません」


 続く言葉は、感情を含まない。


 ただの事実認識だった。


 キャサリンは小さく息を吐く。


「……そうかもしれませんね」


 もう否定する必要はなかった。


「父上」


 不意に、小さな声が割り込む。


 振り向くと、ひとりの少年が立っていた。


 マリウス――セシルの一人息子だった。年の頃は七、八つくらいだろうか。


 腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せている。


「探検に行ってもいい? つまらないよ」


「遊び場じゃないんだぞ。ここは」


 セシルは短く返す。


「お前がついてきたいと言ったのだろう」


「だって、あの家庭教師、嫌いなんだ。ちょっと席を立つだけで、怒鳴るんだよ」


 むくれたように言う。


「勉強なんて、何の役に立つの!」


 キャサリンは、そのやり取りを静かに見ていた。


 怒るでも、諭すでもない。


 ただ、一歩近づく。


「それでは、一つだけお尋ねしてもよろしいかしら」


 やわらかな声。


 マリウスが顔を上げる。


「……なに」


「この離宮には、部屋が八十八ありますわ」


 静かに言葉を置く。


「来賓用に造られた館ですから、客室が多いのです」


 マリウスは少しだけ興味を示す。


「窓には、それぞれ二つのカーテンが必要です」


「ふうん」


「ただし」


 少しだけ間を置く。


「そのうち四つの部屋は角部屋で、窓が二面あります」


 マリウスの眉が動く。


「さて、カーテンはいくつ必要でしょう?」


「……え」


 戸惑いながらも考える。


「……百七十六?」


 キャサリンは、静かに首を振る。


「百八十四です」


「違うよ! だって、八十八部屋あって、カーテンが二つずつでしょ!」


 すぐに反発する。けれど、部屋の数をしっかり覚えている。


(賢い子なのね)


 キャサリンは微笑んだ。


「では、順番に考えてみましょう」


「窓が一面の部屋は、いくつでしたか?」


「……八十四」


「そうです。その部屋にはカーテンが二つずつ」


「じゃあ……百六十八……」


 小さく呟く。


「では、残りの四つの部屋は?」


「窓が二つだから……四つ?」


「ええ」


「……十六」


 マリウスは、そこで息を止める。


「……百六十八と、十六を……足して、えっと、百八十四?」


 ぽつりと呟く。


「……あ」


 小さな声。


 そして。


「違ってた……」


 だが、その表情は――納得していた。


「同じに見えても、違うところがありますでしょう?」


 キャサリンが静かに言う。


 マリウスは、ゆっくり頷いた。


「……うん」


「では」


 キャサリンは身をかがめる。


「実際に数えてみます? 屋敷をぐるりと一緒に回ってみるのはどうかしら」


「――探検!」


 瞳を輝かせた息子を見て、セシルは困惑したようにキャサリンに聞いた。


「いいのですか?」


「ええ。ちょうど、全体の見回りをしようと思っていたところですから」


 キャサリンは微笑むと、マリウスの手をとった。二人は離宮を歩き始める。

 セシルはその様子を姿が見えなくなるまで見つめていた。


 ――部屋を開け、窓を数え、確かめる。


 マリウスも、次第に夢中になっていく。


「ここは二つだ!」


「こっちは……四つある!」


「さっきと違う!」


 気づく。

 考える。

 理解する。


 数時間後。


 戻ってきたマリウスは、顔を輝かせていた。


「父上! 楽しかった! ここ、とっても広いね」


 セシルは、わずかに目を見開く。


「計算、ちゃんとやる!」


 キャサリンは、その様子を静かに見ていた。


 セシルが、低く言う。


「……あなたは」


 わずかに間を置く。


「人を活かす方だ」


 キャサリンは微笑んだ。


「そうであれば、嬉しいです」


 離宮には、風が通っていた。


 整えられた空間。

 動き出した人々。


 そして。


 誰かの力が、正しく使われる場所。


 キャサリンは、静かに目を閉じる。


 ここでは、誰もが、役に立っている。


 それが、こんなにも穏やかなことだとは。

 もう、エドワードと暮らした屋敷がある王都を、振り返る必要はなかった。




離宮に、穏やかな午後の光が差し込んでいた。


 帳簿を閉じ、キャサリンは静かに息を吐く。


 今日の仕事は、すべて整っている。

 誰に急かされることもなく、誰かに責められることもない。

 ただ、自分の判断で物事が進み、必要な場所に必要な手が届いていく。


 それが、こんなにも穏やかなものだとは――

 以前の彼女は、知らなかった。


 窓の外では、整えられた庭に風が渡っている。

 あの荒れた離宮が、今ではすっかり人の住む場所になっていた。


「キャサリン様」


 呼ばれて顔を上げると、セシルの息子のマリウスが立っていた。


 離宮の本格的な整備のため、セシルとマリウスは現在離宮の部屋に暮らしている。

 最初は遠巻きにこちらを見ているだけだったマリウスは、今ではこうして、用があれば真っ先にキャサリンのところへ来るようになっていた。


「どうしましたか」


 自然に膝を折り、目線を合わせる。


 マリウスは少しだけためらい、それから抱えていた本とノートを差し出した。


「……ここ、わからない」


 以前なら「勉強なんて何の役に立つの」と口を尖らせていた子どもが、今はこうして自分から本を持ってくる。


 その変化が、キャサリンには少しだけ嬉しかった。


「ええ、見せてくださいな」


 マリウスの隣に腰を下ろし、本を開く。


 数字が並んでいる。

 先日、離宮の部屋数とカーテンの数を数えながら覚えた計算の応用だった。


「ここまでは合っていますわ。では、この続きを一緒に考えてみましょう」


 キャサリンは、答えをすぐに教えない。

 考え方の道筋を、ひとつひとつ丁寧に手渡す。


「同じように見えても、条件が違うところがありましたでしょう?」


「……あ」


 マリウスが小さく目を見開く。


「そう。では、そこを分けて考えると?」


「……こっちは、先に足す」


「ええ」


 短いやり取りを重ねるうちに、マリウスの額から険しさが消えていく。


 分からないことを責められない。

 間違えても笑われない。


 だからこそ、彼は少しずつ、素直に考えられるようになっていた。


 やがて、ノートの上に答えが出る。


「できた……!」


 ぱっと顔を上げるマリウスに、キャサリンは微笑んだ。


「ええ、できましたね」


「前より、計算……きらいじゃないかも」


 小さな声で言う。


 その言葉に、キャサリンは目を細めた。


「それはよかったです」


「……キャサリン様とやると、分かる」


 そう言って、安心したように彼はキャサリンの隣へ寄ってくる。


 しばらくして、本を抱えたまま、こくりと頭が揺れた。


 まぶたが重くなってきたのだろう。


「眠いのですか」


「……ちょっとだけ」


 そう言った次の瞬間には、もう半分目が閉じていた。


 キャサリンは苦笑し、そっと肩を貸す。


 マリウスは自然に身を預け、そのまま眠ってしまった。


 しばらくして。


 部屋の外から、控えめな足音が近づいてきた。


 扉が少しだけ開き、セシルが中をのぞく。


 仕事を終えて様子を見に来たのだろう。


 だがその足は、すぐに止まった。


 眠っている息子と、その隣で静かに本を支えているキャサリン。


 午後の光の中で、その光景はひどく穏やかだった。


「……眠ってしまいました」


 キャサリンが小さな声で言うと、セシルは忍び足でゆっくりと中へ入ってきた。

 そして、少し離れた場所に立ったまま、眠るマリウスを見つめる。


「教科書を持ったまま寝ている――」


 静かだが、驚いた様子の声だった。


「以前は、書物を見るだけで不機嫌になっていたのに」


 キャサリンは、眠る少年の髪を乱さぬよう気をつけながら、そっと微笑んだ。


「今日もお勉強を頑張っていらっしゃいました」


「そうですか」


 セシルも、わずかに目元を和らげた。


 彼はキャサリンの向かいに静かに腰を下ろした。


 しばらく言葉はない。


 ただ、寝息だけが小さく部屋を満たしている。


 その静けさは、不思議と気まずくはなかった。


 むしろ、長く失われていたものがようやく戻ってきたような――そんな静けさだった。


 やがて、セシルがぽつりと口を開く。


「妻は……マリウスを産むと同時に、亡くなりました」


 キャサリンは顔を上げる。


 セシルの横顔は変わらず静かだったが、その声には、長く押し込めていた重みがあった。


「そうでしたか……」


 それ以上の言葉は、軽くなる気がして言えなかった。


 セシルは視線を眠る息子へ向けたまま続ける。


「それからは、何もかも手探りでした」


 短く息を吐く。


「仕事をし、子を育て、日々を回すことで精一杯だった」


 その言葉は淡々としている。

 だが、そこに込められた年月の重さは、キャサリンにも分かった。


「……妻がいなくなってから」


 セシルは、ほんのわずかに声を和らげる。


「こんな穏やかな時間は、初めてです」


 キャサリンの胸の奥で、何かが静かに震えた。

 それは、恋の高鳴りのような華やかなものではない。

 もっと静かで、もっと深いものだった。


 セシルはキャサリンを見つめた。


「あなたが、いるからですね……」


 何と返していいのかわからず、キャサリンは自分を見つめる青い瞳を、見つめ返した。

 沈黙の中――ふと、眠ったマリウスの手がずり落ちそうになり、キャサリンは支えようと手を伸ばした。


 同時に、セシルも同じように手を伸ばす。


 指先が、触れそうになる。ほんの、紙一枚ほどの距離。


 一瞬、空気が止まった。


 セシルがはっとしたように手を引く。


 その頬に、薄く赤みが差した。


 普段の彼からは想像もつかないほど、不器用な反応だった。


 キャサリンは目を瞬かせ、それから少しだけ困ったように笑う。


 笑ってしまいそうになるのを、声には出さずに堪えた。


 そのとき。


「……ん」


 マリウスが小さく身じろぎし、目を開けた。


 眠たげな顔で、左右を見る。


 そして、父とキャサリンを交互に見てから、不思議そうに首をかしげた。


「父上、顔が赤いよ……お熱があるんじゃ」


 沈黙。


 次の瞬間、キャサリンは思わず唇を噛んだ。

 笑ってはいけないと思うほど、笑いがこみ上げてくる。

 セシルは咳払いをひとつした。


「……気のせいだ」


「そう?」


 マリウスは納得していない顔だったが、やがてまたキャサリンの腕に寄りかかる。


 その仕草があまりにも自然で、キャサリンの胸の内に、じんわりとあたたかいものが広がった。


「キャサリン様」


 眠気の残る声で、マリウスが言う。


「明日も、つづきやる?」


「ええ、もちろん」


 キャサリンは優しく答える。


 マリウスは満足そうに頷くと、再び目を閉じた。


 セシルが、今度はまっすぐにキャサリンを見る。


 その眼差しには、理解と敬意、そして以前よりも少しだけはっきりした感情が宿っていた。


「あなたは」


 低く、しかし確かな声で言う。


「与えることを、惜しまない方だ」


 キャサリンは一瞬だけ言葉に詰まる。


 それから、ほんの少しだけ困ったように笑った。


「……そうでなければ、ここに来ることもなかったかもしれません」


 それは、誰に向けた言葉でもない。

 けれど確かに――彼女自身の、答えだった。


 かつて。


 彼女は、与えたものが報われない場所にいた。

 尽くしても、当然のように扱われる場所に。


 だが今は違う。


 ここでは。

 差し出したものが、きちんと受け取られる。

 そして、返ってくる。


 それは、特別なことではない。

 本来、そうあるべき形だった。


 午後の光は、少しずつ傾き始めていた。


 眠るマリウス。

 その隣に座るキャサリン。

 少し離れた場所で、その二人を見つめるセシル。


 誰かに与えたやさしさが、別のかたちで静かに戻ってくる。

 ――そんな時間が、ここにはあった。


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