離縁された侯爵夫人、使用人が全員ついてきた結果、元夫の屋敷が崩壊しました。
夫に呼び出された侯爵邸の応接間は、昼だというのにひどく冷えていた。
暖炉には火が入っている。だが、そのぬくもりはどこか遠く、部屋の隅まで届いてはいない。
キャサリンは立ったままドレスをきゅっと握った。
――王宮にいた頃は、こういう空気の違いにも敏感だった。
誰がどこに立ち、どのように言葉を交わすか。
それだけで、その場の力関係はすべて見えてくる。
そして今、この部屋にあるのは。夫婦の“対話”ではなく、夫からの一方的な“通達”だ。
「キャサリン。君との婚姻を解消する」
正面に座る夫――エドワード侯爵は、書類に目を落としたまま言った。
あまりにあっさりとした声音だった。
まるで、王宮で日々交わされる決裁の一つのように。
キャサリンは一瞬だけ瞬きをし、それからゆっくりと背筋を正す。
「……理由を、お聞かせいただいてもよろしいでしょうか」
「分かっているだろう」
顔も上げないまま、答えが返る。
「跡取りだ。この家には、子が必要だ」
淡々とした言葉。
二十歳で嫁いで来て十年。その歳月が、その一言で切り捨てられる。
胸の奥が、わずかに軋む。
けれどキャサリンは、それを表には出さない。
「医師の見立てでは、まだ可能性は――」
「もういい」
ぴしゃりと遮られる。
そこでようやく、エドワードは顔を上げた。
その瞳に宿るのは、苛立ちでも怒りでもない。
ただ、“面倒だ”という色だった。
「そういう話は聞き飽きた。結果が出ていない以上、意味はないだろう。子どもが生めない妻は離縁してよいと、教会も認めている」
キャサリンは一瞬、言葉を失う。
だが、すぐにうなずいた。
「……そうですね」
否定はしない。
それが、これまで彼女が選び続けてきたやり方だった。
この家を守るために。
夫の機嫌を損ねないために。
――何も言わないことを、選んできた。
「時間を無駄にするつもりはない」
エドワードは椅子に深く腰掛け、続ける。
「すでに話は進んでいる」
「……話、とは?」
「後妻だ」
その一言で、すべてが繋がる。
キャサリンは、静かに視線を伏せた。
「――お相手は」
「マリアンだ」
さらりと言った。まるで、特別でも何でもないことのように。
キャサリンの脳裏に、ひとりの女性の姿が浮かぶ。
王宮で何度か見かけたことのある若い宮仕えのメイド。
明るく、よく笑い、周囲の空気を軽くする――そういう、場に“楽しさ”をもたらす存在。
――そして。
自分とは、まるで違う種類の女性。
「王宮で、懇意にしている」
エドワードは、特に隠す様子もなく続けた。
「気が合ってな。話していると楽なんだ」
軽い口調だった。そこに後ろめたさはない。
むしろ、正当化すら感じられる。
「――彼女は、すでに身ごもっている」
静かに告げられる。
それは、すべての決定事項を裏付ける“結果”だった。
キャサリンは、ゆっくりと息を吐く。
そういうことだったのか、と。
ここ最近の違和感が、すべて一本に繋がる。
王宮から戻る時間が遅くなったこと。
言葉を交わすことが減ったこと。
視線を合わせなくなったこと。
――すべて。
「……承知いたしました」
自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
エドワードの眉が、わずかに動く。
「お前は本当に、聞き分けがよくて助かる」
そう言って、ようやくこちらを見る。
「お前のそのきちんと“わきまえている”ところは、好ましく思っていたよ」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
けれど。
すぐに理解する。
それは、褒め言葉ではない。
妻としてではなく。ただの“都合のいい存在”として好ましく思っていたということだ。
キャサリンは、わずかに目を伏せる。
胸の奥で、何かが静かに軋む。
けれど、それもすぐに収まった。
怒りではない。悲しみでもない。
ただ――少しだけ、悔しかった。
こんな扱いを受けるために、十年を過ごしてきたのではなかった。
(私のやり方は……間違っていたのかしら)
問いは、声にはならない。
「荷物はまとめておけ。近日中に出ていってもらう」
「はい」
それ以上、言葉はなかった。言うべきことも、もう残っていない。
キャサリンは立ち上がり、深く一礼した。
「これまで、お世話になりました」
形式通りの別れの言葉。少しだけ、声が震えた。
エドワードはそれに応じることもなく、再び書類へと視線を落とす。
――すでに関心を失ったように。
キャサリンは踵を返して、応接室を出た。
扉に手をかけると、ほんの一瞬だけ、指先に力が入った。
――かつて、離縁の宣告を受けたこの部屋で、エドワードとお茶を飲み、微笑みあった日々もあった。
それは、ほんの短い間だったけれど。
――夫が自分の前で笑わなくなったのは、いつからだったろうか。
夫の仕事に意見をしたのがいけなかったのだろうか。
……子どもがいれば、違ったのだろうか。
いくつもの考えが頭に浮かび、瞳が潤んだ。
キャサリンは目元をぬぐうと、何も言わず、ただ静かに歩き出した。
その背を、いくつもの視線が追っていた。
廊下には使用人が集まっていた。
◇
呼び止める声は、控えめでありながら、確かな意志を含んでいた。
キャサリンは足を止め、振り返る。
そこには、執事のアルフレッドを先頭に、料理人のグレッグ、庭師のハロルド、メイド長、そして幾人もの使用人たちが並んでいた。
皆、普段と同じように整った姿勢で立っている。
だが、その表情はどこか固い。
「……何かしら」
キャサリンは静かに問いかける。
執事のアルフレッドが一歩前に出た。
「……先ほどの、旦那様からの、お話は――」
言い淀む。
だが、それ以上言葉を重ねる必要はなかった。
キャサリンは、ゆっくりとうなずく。
「聞いていたのね。……すでに決まったことです」
穏やかな声だった。
「私は出て行くけれど……皆さんは、変わらず、お勤めして……」
「それは、できません」
遮ったのは、料理人のグレッグだった。
低く、しかしはっきりとした声。
キャサリンはわずかに目を見開く。
「奥様がいない厨房など、回りません」
それは感情的な言葉ではなかった。――ただの事実だった。
「食材の発注も、保存の管理も、献立の調整も……すべて奥様のご判断でした」
続けて、庭師のハロルドが口を開く。
「庭も同じです。季節ごとの手入れも、配置も、水の量も――すべて奥様が決めておられた」
メイド長が、静かに言葉を継ぐ。
「帳簿の整理、使用人の配置、来客の対応……この屋敷を動かしていたのは、奥様です」
一つひとつ、積み重なる言葉。
それは称賛ではない。事実だった。
使用人たちは声を重ねた。
「「「私たちも――奥様と一緒に連れて行ってください!」」」
キャサリンは、しばし言葉を失う。
だが。
ゆっくりと首を横に振った。
「……お気持ちは嬉しいですが――私は出て行かなければ」
顔を上げ、はっきりと告げる。
「私は実家に戻るつもりです」
静かに続ける。
「――皆さん全員を連れて、実家へ戻ることはできないわ」
その言葉に、わずかな動揺が走る。
キャサリンはそれを見逃さなかった。相手の気持ちが落ち着くように、柔らかく言葉を重ねる。
「ですが」
その一言で、全員の視線が集まる。
「皆様が、この屋敷を離れたいと……そう考えているのなら」
ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。
「新しい働き口を用意できないか、宮廷に相談してみます」
一瞬、誰も反応できなかった。
予想していなかった言葉だった。
「わたくしは、かつて王妃陛下にお仕えしていましたから」
キャサリンは淡々と続ける。
「はっきりと、お約束はできないわ。けれど――」
ほんのわずかに、間を置く。
「皆様が安心して働ける場所を探すことくらいは、きっと、できるはず」
そして。
少しだけ困ったように、微笑んだ。
「最後に、それくらいのことは、しますわ」
沈黙が落ちる。その沈黙は、先ほどまでとは違うものだった。
迷いではなく――理解の時間だった。
執事のアルフレッドが、ゆっくりと頭を下げる。
「……そのようなことまで、お考えになっておられたのですか」
抑えた声。
だが、その奥にある感嘆の感情は隠しきれていない。
「当然です」
キャサリンは穏やかに答える。
「皆様には、長く支えていただいたのだから」
それは、飾らない言葉だった。
見返りを求めるでもなく、ただ当たり前のこととして。
だからこそ――重かった。
料理人のグレッグが、顔を上げる。
迷いは、もう消えていた。
「……やはり、奥様のもとを離れることはできません」
庭師も、メイドも、静かにうなずく。
「働き口など、どこでもよろしいのです」
「我々は――」
言葉を揃えるように。
「奥様にお仕えしたいのです」
キャサリンは、言葉を失う。
それは予想外の答えだった。
自分のためではなく、彼らのために提示した道だったはずなのに。
それでも、彼らは、選んだ。
“仕える場所”ではなく、“誰に仕えるか”を。
執事のアルフレッドが一歩前に出る。
背筋を伸ばし、静かに告げる。
「使用人一同、旦那様のもとを辞し、奥様に同行いたします」
意思のこもった、はっきりとした宣言だった。
その瞬間――この屋敷の“何か”が、完全に決まった。
◇
その夜――キャサリンは机に向かっていた。
灯りの下、真新しい便箋の上に、整った文字が並んでいく。
――王妃陛下への書簡。
内容は簡潔だった。
自身の離縁の報告と、そして。
屋敷を離れる使用人たちの処遇についての相談。
(……皆様の居場所を、きちんと整えなければ)
筆を止め、キャサリンはわずかに目を伏せる。
“ついていく”と言った彼らの言葉は、本心だった。
だが、それに甘えるわけにはいかない。
自分が正しいと思う形で、終わらせなければならない。
それが――
この家で過ごした十年の、最後の責任だった。
再び筆を走らせる。
余計な言葉は書かない。
事実と、願いだけを、簡潔に。
やがて、書き終える。
封をし、静かに息を吐いた。
「……これで、よろしいでしょうか」
誰に問うでもなく、小さく呟く。
その声には、迷いはなかった。
返答は、早かった。
翌日の昼には、王宮からの使者が到着する。
「王妃陛下より、面会の許しが出ております」
短い言葉。
だが、その意味は重い。
キャサリンは、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
王宮の一室――王妃の自室。かつて、エドワードと結婚する前、十五歳から二十歳までの間、キャサリンはここで王妃の侍女を務めていた。
だが今は、少しだけ遠く感じる。
重厚な扉の前で、キャサリンは足を止めた。
ほんのわずかに、呼吸を整える。
――ここでは、取り繕う必要はない。
そう、分かっている。
「キャサリンにございます」
扉越しに告げる。間を置かず、返答があった。
「お入りなさい」
その声音は、昔と変わらない。
柔らかく、しかし揺るがない。
扉を開ける。
室内に足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
整えられた静けさ。
人を落ち着かせる、しかし決して緩まない空間。
王妃は窓辺に立ち、こちらを振り返った。
「お久しぶりです、キャサリン」
「ご無沙汰しております、王妃陛下」
キャサリンは優雅に一礼する。その所作は、かつてと寸分違わない。
王妃はそれを見て、わずかに微笑んだ。
「変わりませんね」
「……そうであれば、幸いです」
静かに応じる。
王妃は一歩近づき、じっとキャサリンを見た。
「――随分と、痩せましたね」
不意の言葉。
キャサリンは一瞬だけ目を伏せる。
「至らぬ点が多かったのでしょう」
「いいえ」
即座に否定される。
やわらかく、しかし断定的に。
「あなたは昔から、よくやっていましたよ」
その一言に、胸の奥が揺れる。
キャサリンは顔を上げる。
王妃の瞳は、まっすぐに彼女を見ていた。
「あなたの書簡、読みました」
王妃は穏やかに言う。
「まずは――」
わずかに間を置く。
「あなたが、最後まで“正しくあろう”としていることを、誇りに思います」
キャサリンは言葉を失う。
評価されたのは、有能さではない。
姿勢だった。
「使用人たちのことを、案じているのですね」
「はい」
キャサリンは迷わず頷く。
「彼らは、長くこの家を支えてきた者たちです」
静かに言葉を紡ぐ。
「私の都合で、行き場を失わせることはしたくありません」
それは綺麗事ではない。
ただの、彼女の信念だった。
王妃はしばし、何も言わずに彼女を見る。
そして。
「……あなたらしい」
小さく、しかし確かな声音で言った。
「あなたがあの家を支えていたことは、ずっと知っています」
静かな断定。
揺らぎはない。
キャサリンの視界が、わずかに揺れる。
――知って、いた。
その事実が、ゆっくりと胸に落ちていく。
「それでも、何も申しませんでした」
王妃は続ける。
「あなたならば、自らの役目を果たすと信じていましたから」
わずかに微笑む。
「そして実際、その通りになりましたね」
キャサリンは、息を整える。
胸の奥で、何かがほどけていく。
「……過分なお言葉にございます」
「いいえ」
王妃は首を横に振る。
「正当な評価です」
そして、ゆっくりと歩み寄る。
「だからこそ」
その一言に、空気が引き締まる。
「あなたに、お願いしたいことがあります」
「今は使っていない南の離宮を、新たに整えることになりました」
王妃は淡々と告げる。
「わたくしも、いずれそちらへ移る予定です」
王妃は言葉を強めた。
「その離宮の使用人の管理を、あなたに任せたいのです」
キャサリンは息を呑む。
一瞬、言葉が出なかった。
「……私に……ですか」
「ええ」
迷いのない肯定。
「あなた以上に適した人材を、わたくしは知りません。人手がいります。あなたの使用人の方々も一緒に、力を貸してください」
それは、飾りのない言葉だった。
ただ、事実として告げられている。
だからこそ――重たかった。
キャサリンは、ゆっくりと頭を下げる。
だが、その前に。
一瞬だけ、言葉がこぼれた。
「……私は、間違っていなかったのでしょうか」
それは問いだった。
小さく、しかし確かな。
王妃は、迷いなく答える。
「ええ」
ただ一言。
「あなたは、常に正しかった」
その言葉で、すべてが満たされた。
キャサリンは、深く一礼する。
「――謹んで、お受けいたします」
顔を上げたとき。
キャサリンの瞳には、わずかな光が宿っていた。
それは、救われた者のものではない。
――認められた者のものだった。
◇
キャサリンが屋敷を去った、その日の夕刻。
侯爵邸の厨房は、火が落とされていた。
――火を入れる者が、いなかった。
「――まだか」
苛立った声が響く。
エドワードは食堂の椅子に腰掛け、空の皿を前に指を鳴らした。
いつもなら、何も言わずとも料理は並ぶ。
それが“当然”だった。だが――今は違う。
「料理はどうした」
声を投げる。
しばらくして、見慣れない若い使用人が顔を出した。
「は、はい……その……準備に、少々お時間を……」
「昼から何をしていた」
「で、ですが……食材の場所が分からず……帳簿も見当たらなくて……」
エドワードの眉が歪む。
「そんなもの、適当にやればいいだろう」
「で、ですが……前任の方が……」
言葉が途切れる。
――当然だった。
前任の者は――誰一人として、残っていない。
「……使えん」
吐き捨てる。
だが、その言葉に意味はない。
代わりはいないのだから。
「もう、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
軽い声が、背後から割り込んだ。
振り返ると、マリアンがいた。
柔らかな色のドレスをまとい、笑みを浮かべている。
場の空気を軽くするような、明るい笑顔。
――それは、王宮で見ていたときと変わらない。
「ねえ、今日は外で食べない? 気分転換になるわ」
楽しげに言う。
だが――エドワードは顔をしかめた。
「そんな暇があるか」
「えー」とマリアンは頬を膨らませた。
「でもお腹すくでしょ?」
少女のようなそんな仕草を宮廷では可愛らしいと思っていたが、今はそれはエドワードを苛つかせた。
「――屋敷のことが回っていないのだぞ」
短く言い捨てる。
マリアンは一瞬だけ目を瞬かせ、それから肩をすくめた。
「そういうのは、下の人たちに任せればいいじゃない」
その言葉に、エドワードはわずかに黙る。
――かつては、それで回っていた。
いや。
回っている“ように見えていた”。
食卓に並んだのは、焦げた肉と、塩の利きすぎたスープだった。
マリアンは一口食べて、顔をしかめる。
「なにこれ、しょっぱい」
遠慮のない言葉で、皿を押しやる。
「こんなの食べられないわ」
エドワードもフォークを置いた。――だが、文句を言う相手がいない。
「ねえ」
マリアンが身を乗り出す。
「料理人、ちゃんとした人に替えた方がいいんじゃない?」
「替えている」
短く返す。
「だが、どいつも使えん」
「ふうん……」
興味なさそうに相槌を打つ。そして、ふと笑った。
「前の奥様、こういうの、得意だったの?」
エドワードは、答えなかった。
その夜――執務室の机の上には、未処理の書類が山積みになっていた。
封も切られていない書簡。計算の合わない帳簿。途中で止まった発注記録。
「……何だこれは」
紙をめくる。数字が合わない。何が足りないのかも分からない。
「ねえ、それ、面倒なら明日にしたら?」
背後から、軽い声。マリアンがソファに寝転がりながら言う。
「今やらなくてもいいでしょ?」
エドワードは、何も言わない。ただ、書類を見下ろす。
いつもは――すでに整理されていた。
優先順位がつけられ。
必要な部分だけが目に入るようになっていた。
――誰が、やっていた。
その問いに、ようやく答えが浮かぶ。
「……あいつが」
ぽつりと呟く。
「ん?」
マリアンが首をかしげる。
「……キャサリンが、やっていたのか」
どうして気づかなかった。
いや――気づこうとしなかったのか。
つぶやいた言葉は、あまりにも遅かった。
翌朝――厨房では煙が立ち込めていた。
新人の料理人が鍋を焦がしたのだ。
庭は荒れ始め、帳簿は乱れ、屋敷全体が崩れていく。
新しく雇った使用人は三日と持たない。
一人は無断で姿を消し、もう一人は銀器を持ち出して逃げた。
「ちょっと、何これ」
マリアンが眉をひそめる。
「庭、ひどいじゃない。前はもっと綺麗だったのに」
エドワードは答えない。
「ねえ、どうするの?」
「……何をだ」
「だから、こういうの」
曖昧に手を振る。
「ちゃんとした人を雇うとか、指示するとか」
エドワードは、言葉に詰まる。
――どうするか。
それを、考えたことがなかった。
いつも――“整っていた”から。
「……お前は、できないのか」
思わず口にする。
「え?」
マリアンはきょとんとする。
「私? 無理よ」
あっさりと答えた。
「そんなの、やったことないもの」
当然のように。悪びれもなく、言葉を続けるマリアンをエドワードは唖然と見つめる。
「楽しいことなら考えられるけど」
くすっと笑う。
「こういう面倒なのは、向いてないわ」
その言葉で――すべてが、はっきりした。
広い応接間に、エドワードは一人、立ち尽くした。
静まり返った空間。あまりにも広く、空っぽだった。
思い出すのは――整えられた書類。何も言わずとも回っていた日々。
『お前のそのきちんと“わきまえている”ところは、好ましく思っていたよ』
自分の言葉が、蘇る。
いつも、当たり前のように、そこにいた彼女。
初めて、その名を口にした。
「……キャサリン」
だが――答える者はいない。
隣では、マリアンが退屈そうに窓の外を眺めている。
その光景が、エドワードに残されたすべてだった。
◇
離宮は、静かな場所だった。
王都から南へ少し離れた、丘の上に建てられたその館は、かつて来賓を迎えるために造られた大きな建物である。
各国の使節や貴族を滞在させるため、数多くの客室が用意されていた。
その数――八十八室。
だが長く使われていなかったため、今は人の気配が薄れている。
閉ざされた窓。
手入れの止まった庭。
音を失った空間。
だが。
「……窓はすべて開けてください。風を通しましょう」
キャサリンの一声で、空気が動き始める。
「庭の手入れは奥から順に。日当たりの良い場所から整えれば、見た目も早く変わります」
「承知いたしました、キャサリン様」
迷いのない指示。
それを受けて、使用人たちが自然に動き出す。
誰かが迷えば、別の誰かが補う。
流れができている。
――人が、機能している。
数日もすれば、離宮の空気は見違えるほど変わった。
廊下は磨かれ、庭には色が戻り、食堂には温かな香りが漂う。
それは、かつて侯爵邸で当たり前のようにあった光景。
だが、決定的に違う点があった。
――ここでは、それが“当然”ではない。
正しく評価されている。
キャサリンは、その様子を少し離れた場所から見つめていた。
指示は出すが、支配はしない。
動かすのではなく、整える。
それが、彼女のやり方だった。
「見事ですね」
不意に、声がかかる。
振り向くと、一人の男性が立っていた。
端正な顔立ちに、無駄のない所作。静かな威圧感をまとっている。
「初めて拝見いたします。セシルと申します」
軽く頭を下げる。
「陛下の側近を務めております。――離宮の整備を任されました」
キャサリンも一礼する。
「キャサリンにございます。王妃陛下より、離宮の使用人の管理を承りました」
セシルは、離宮の様子に視線を巡らせる。
整えられた空間。 統制された動き。
そのすべてが、一人の判断で組み上げられていることを理解している目だった。
「なるほど……聞いていた以上だ」
淡々とした声。
だが、その評価は揺るがない。
「過分なお言葉です」
キャサリンは静かに返す。
だが、セシルは首を横に振る。
「いいえ。正当な評価です」
その言葉に、キャサリンはわずかに目を伏せる。
同じ言葉を、最近どこかで聞いた気がした。
だが今度は――その意味を、受け取ることができる。
「あなたのような方が、正当に扱われなかった理由が分かりません」
続く言葉は、感情を含まない。
ただの事実認識だった。
キャサリンは小さく息を吐く。
「……そうかもしれませんね」
もう否定する必要はなかった。
「父上」
不意に、小さな声が割り込む。
振り向くと、ひとりの少年が立っていた。
マリウス――セシルの一人息子だった。年の頃は七、八つくらいだろうか。
腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せている。
「探検に行ってもいい? つまらないよ」
「遊び場じゃないんだぞ。ここは」
セシルは短く返す。
「お前がついてきたいと言ったのだろう」
「だって、あの家庭教師、嫌いなんだ。ちょっと席を立つだけで、怒鳴るんだよ」
むくれたように言う。
「勉強なんて、何の役に立つの!」
キャサリンは、そのやり取りを静かに見ていた。
怒るでも、諭すでもない。
ただ、一歩近づく。
「それでは、一つだけお尋ねしてもよろしいかしら」
やわらかな声。
マリウスが顔を上げる。
「……なに」
「この離宮には、部屋が八十八ありますわ」
静かに言葉を置く。
「来賓用に造られた館ですから、客室が多いのです」
マリウスは少しだけ興味を示す。
「窓には、それぞれ二つのカーテンが必要です」
「ふうん」
「ただし」
少しだけ間を置く。
「そのうち四つの部屋は角部屋で、窓が二面あります」
マリウスの眉が動く。
「さて、カーテンはいくつ必要でしょう?」
「……え」
戸惑いながらも考える。
「……百七十六?」
キャサリンは、静かに首を振る。
「百八十四です」
「違うよ! だって、八十八部屋あって、カーテンが二つずつでしょ!」
すぐに反発する。けれど、部屋の数をしっかり覚えている。
(賢い子なのね)
キャサリンは微笑んだ。
「では、順番に考えてみましょう」
「窓が一面の部屋は、いくつでしたか?」
「……八十四」
「そうです。その部屋にはカーテンが二つずつ」
「じゃあ……百六十八……」
小さく呟く。
「では、残りの四つの部屋は?」
「窓が二つだから……四つ?」
「ええ」
「……十六」
マリウスは、そこで息を止める。
「……百六十八と、十六を……足して、えっと、百八十四?」
ぽつりと呟く。
「……あ」
小さな声。
そして。
「違ってた……」
だが、その表情は――納得していた。
「同じに見えても、違うところがありますでしょう?」
キャサリンが静かに言う。
マリウスは、ゆっくり頷いた。
「……うん」
「では」
キャサリンは身をかがめる。
「実際に数えてみます? 屋敷をぐるりと一緒に回ってみるのはどうかしら」
「――探検!」
瞳を輝かせた息子を見て、セシルは困惑したようにキャサリンに聞いた。
「いいのですか?」
「ええ。ちょうど、全体の見回りをしようと思っていたところですから」
キャサリンは微笑むと、マリウスの手をとった。二人は離宮を歩き始める。
セシルはその様子を姿が見えなくなるまで見つめていた。
――部屋を開け、窓を数え、確かめる。
マリウスも、次第に夢中になっていく。
「ここは二つだ!」
「こっちは……四つある!」
「さっきと違う!」
気づく。
考える。
理解する。
数時間後。
戻ってきたマリウスは、顔を輝かせていた。
「父上! 楽しかった! ここ、とっても広いね」
セシルは、わずかに目を見開く。
「計算、ちゃんとやる!」
キャサリンは、その様子を静かに見ていた。
セシルが、低く言う。
「……あなたは」
わずかに間を置く。
「人を活かす方だ」
キャサリンは微笑んだ。
「そうであれば、嬉しいです」
離宮には、風が通っていた。
整えられた空間。
動き出した人々。
そして。
誰かの力が、正しく使われる場所。
キャサリンは、静かに目を閉じる。
ここでは、誰もが、役に立っている。
それが、こんなにも穏やかなことだとは。
もう、エドワードと暮らした屋敷がある王都を、振り返る必要はなかった。
◇
離宮に、穏やかな午後の光が差し込んでいた。
帳簿を閉じ、キャサリンは静かに息を吐く。
今日の仕事は、すべて整っている。
誰に急かされることもなく、誰かに責められることもない。
ただ、自分の判断で物事が進み、必要な場所に必要な手が届いていく。
それが、こんなにも穏やかなものだとは――
以前の彼女は、知らなかった。
窓の外では、整えられた庭に風が渡っている。
あの荒れた離宮が、今ではすっかり人の住む場所になっていた。
「キャサリン様」
呼ばれて顔を上げると、セシルの息子のマリウスが立っていた。
離宮の本格的な整備のため、セシルとマリウスは現在離宮の部屋に暮らしている。
最初は遠巻きにこちらを見ているだけだったマリウスは、今ではこうして、用があれば真っ先にキャサリンのところへ来るようになっていた。
「どうしましたか」
自然に膝を折り、目線を合わせる。
マリウスは少しだけためらい、それから抱えていた本とノートを差し出した。
「……ここ、わからない」
以前なら「勉強なんて何の役に立つの」と口を尖らせていた子どもが、今はこうして自分から本を持ってくる。
その変化が、キャサリンには少しだけ嬉しかった。
「ええ、見せてくださいな」
マリウスの隣に腰を下ろし、本を開く。
数字が並んでいる。
先日、離宮の部屋数とカーテンの数を数えながら覚えた計算の応用だった。
「ここまでは合っていますわ。では、この続きを一緒に考えてみましょう」
キャサリンは、答えをすぐに教えない。
考え方の道筋を、ひとつひとつ丁寧に手渡す。
「同じように見えても、条件が違うところがありましたでしょう?」
「……あ」
マリウスが小さく目を見開く。
「そう。では、そこを分けて考えると?」
「……こっちは、先に足す」
「ええ」
短いやり取りを重ねるうちに、マリウスの額から険しさが消えていく。
分からないことを責められない。
間違えても笑われない。
だからこそ、彼は少しずつ、素直に考えられるようになっていた。
やがて、ノートの上に答えが出る。
「できた……!」
ぱっと顔を上げるマリウスに、キャサリンは微笑んだ。
「ええ、できましたね」
「前より、計算……きらいじゃないかも」
小さな声で言う。
その言葉に、キャサリンは目を細めた。
「それはよかったです」
「……キャサリン様とやると、分かる」
そう言って、安心したように彼はキャサリンの隣へ寄ってくる。
しばらくして、本を抱えたまま、こくりと頭が揺れた。
まぶたが重くなってきたのだろう。
「眠いのですか」
「……ちょっとだけ」
そう言った次の瞬間には、もう半分目が閉じていた。
キャサリンは苦笑し、そっと肩を貸す。
マリウスは自然に身を預け、そのまま眠ってしまった。
しばらくして。
部屋の外から、控えめな足音が近づいてきた。
扉が少しだけ開き、セシルが中をのぞく。
仕事を終えて様子を見に来たのだろう。
だがその足は、すぐに止まった。
眠っている息子と、その隣で静かに本を支えているキャサリン。
午後の光の中で、その光景はひどく穏やかだった。
「……眠ってしまいました」
キャサリンが小さな声で言うと、セシルは忍び足でゆっくりと中へ入ってきた。
そして、少し離れた場所に立ったまま、眠るマリウスを見つめる。
「教科書を持ったまま寝ている――」
静かだが、驚いた様子の声だった。
「以前は、書物を見るだけで不機嫌になっていたのに」
キャサリンは、眠る少年の髪を乱さぬよう気をつけながら、そっと微笑んだ。
「今日もお勉強を頑張っていらっしゃいました」
「そうですか」
セシルも、わずかに目元を和らげた。
彼はキャサリンの向かいに静かに腰を下ろした。
しばらく言葉はない。
ただ、寝息だけが小さく部屋を満たしている。
その静けさは、不思議と気まずくはなかった。
むしろ、長く失われていたものがようやく戻ってきたような――そんな静けさだった。
やがて、セシルがぽつりと口を開く。
「妻は……マリウスを産むと同時に、亡くなりました」
キャサリンは顔を上げる。
セシルの横顔は変わらず静かだったが、その声には、長く押し込めていた重みがあった。
「そうでしたか……」
それ以上の言葉は、軽くなる気がして言えなかった。
セシルは視線を眠る息子へ向けたまま続ける。
「それからは、何もかも手探りでした」
短く息を吐く。
「仕事をし、子を育て、日々を回すことで精一杯だった」
その言葉は淡々としている。
だが、そこに込められた年月の重さは、キャサリンにも分かった。
「……妻がいなくなってから」
セシルは、ほんのわずかに声を和らげる。
「こんな穏やかな時間は、初めてです」
キャサリンの胸の奥で、何かが静かに震えた。
それは、恋の高鳴りのような華やかなものではない。
もっと静かで、もっと深いものだった。
セシルはキャサリンを見つめた。
「あなたが、いるからですね……」
何と返していいのかわからず、キャサリンは自分を見つめる青い瞳を、見つめ返した。
沈黙の中――ふと、眠ったマリウスの手がずり落ちそうになり、キャサリンは支えようと手を伸ばした。
同時に、セシルも同じように手を伸ばす。
指先が、触れそうになる。ほんの、紙一枚ほどの距離。
一瞬、空気が止まった。
セシルがはっとしたように手を引く。
その頬に、薄く赤みが差した。
普段の彼からは想像もつかないほど、不器用な反応だった。
キャサリンは目を瞬かせ、それから少しだけ困ったように笑う。
笑ってしまいそうになるのを、声には出さずに堪えた。
そのとき。
「……ん」
マリウスが小さく身じろぎし、目を開けた。
眠たげな顔で、左右を見る。
そして、父とキャサリンを交互に見てから、不思議そうに首をかしげた。
「父上、顔が赤いよ……お熱があるんじゃ」
沈黙。
次の瞬間、キャサリンは思わず唇を噛んだ。
笑ってはいけないと思うほど、笑いがこみ上げてくる。
セシルは咳払いをひとつした。
「……気のせいだ」
「そう?」
マリウスは納得していない顔だったが、やがてまたキャサリンの腕に寄りかかる。
その仕草があまりにも自然で、キャサリンの胸の内に、じんわりとあたたかいものが広がった。
「キャサリン様」
眠気の残る声で、マリウスが言う。
「明日も、つづきやる?」
「ええ、もちろん」
キャサリンは優しく答える。
マリウスは満足そうに頷くと、再び目を閉じた。
セシルが、今度はまっすぐにキャサリンを見る。
その眼差しには、理解と敬意、そして以前よりも少しだけはっきりした感情が宿っていた。
「あなたは」
低く、しかし確かな声で言う。
「与えることを、惜しまない方だ」
キャサリンは一瞬だけ言葉に詰まる。
それから、ほんの少しだけ困ったように笑った。
「……そうでなければ、ここに来ることもなかったかもしれません」
それは、誰に向けた言葉でもない。
けれど確かに――彼女自身の、答えだった。
かつて。
彼女は、与えたものが報われない場所にいた。
尽くしても、当然のように扱われる場所に。
だが今は違う。
ここでは。
差し出したものが、きちんと受け取られる。
そして、返ってくる。
それは、特別なことではない。
本来、そうあるべき形だった。
午後の光は、少しずつ傾き始めていた。
眠るマリウス。
その隣に座るキャサリン。
少し離れた場所で、その二人を見つめるセシル。
誰かに与えたやさしさが、別のかたちで静かに戻ってくる。
――そんな時間が、ここにはあった。




