試行錯誤①
待ち合わせは九段下駅だった。二番出口の階段下で、瑞貴はスマホを弄りながら壁に寄りかかっていた。土曜日の午前中、すでに駅構内は色々な人が行き交っている。約束の時間には、十分ほど早い。今日はここで、六花と蒼を待っている。
桃泉堂から帰った夜、瑞貴は父親に話をした。柄掛山で倒れてから、不思議な出来事が続いていたこと。ある人が、それは瑞貴に顕現した宝珠の力によるものだと教えてくれたこと。そして、宝珠は上条家に百五十年に一度、現れると聞かされたこと。その話を聞いた父親は、力なく苦笑いしたのだった。
「宝珠は、お前だったんだな」
自らに言い聞かせるかのように、父親は呟いた。
「護ってやりたかったんだが、力不足ですまなかった」
研究者になって上条家を飛び出した父親は、妖怪のような非科学的な話を信じないのではないかと瑞貴は思っていたが、そうではなかったらしい。やはり父親はこのことを知っていて、妖怪を寄せ付けないための『遮断の香り』のハーブを調合していたのだ。父親は、あまり多くを語らなかった。ただ少し残念そうに、穏やかに笑ってこう言った。
「今度の連休に、上条の実家に帰ろう」
父親の真意は分からなかった。ただ、それが今の瑞貴にとって必要なことなのだろうとは思われた。瑞貴は一言、分かった、とだけ答えた。
「瑞貴、おまたせ」
ハスキーな声がして、瑞貴は顔を上げた。
「ちょっと、賄賂の調達に手間取っちゃって」
「賄賂……?」
気づくと、約束の時間を五分ほど過ぎていた。現れた六花は、エスニック調のワンピースを着て、サングラスをかけている。
「六花さん、髪が……」
縮れてふわふわだった六花の髪は、さらさらのストレートになっている。思いのほか長い髪を、六花は手で梳いてみせる。
「今日だけ限定ねー。身バレ防止。悪くないでしょ」
「どんな格好をしても目立つけどな」
無表情で横からそう言った蒼は、今日も上等なワイシャツにジャケット姿だ。
「さ、行こうか」
蒼の言葉を気にも留めず、六花は先に歩き出した。
エスカレーターに乗って地上に出る。外は良く晴れていて、暑かった。
先日、桃泉堂で六花とメッセージアプリの連絡先を交換した。六花は、民俗保全協会の活動内容や百五十年前以前の宝珠について調べた資料などを送ってくれた。最初に出会った時は、端正な見た目も相俟って、飄々としてとっつきにくい印象だったが、ここ数日のやりとりを見ていると、かなり面倒見の良いタイプのようだった。
今日は、河童に会いに行くと聞いている。皇居の内濠に棲んでおり、民保協への登録を経て、現在は国に保護されている。雄然が半蔵濠の宮乃介と呼んでいた河童だ。妖怪に会いに行くというのも奇妙な話だが、瑞貴はすでに雄然のところの貨幣の付喪神も見ているので、驚きはしない。動物園に珍しい動物を見に行くのと、気持ちに大差はなかった。
九段下の駅を出るとすぐお濠が見え、歩道をお濠沿いに歩いていく。日本武道館に近い北の丸公園入口を過ぎ、よく手入れされた植え込みのある歩道を十分ほど歩いた辺りで六花は歩みを止めた。
「ここ」
六花が指さしたのは、歩道から一段高くなっていて、お濠が見渡せる展望台のような場所だった。外国人観光客が何組か、お濠を眺めたり写真を撮ったりしている。長身で色白でオレンジ色の髪をした六花は、インバウンド客に混じっても、まったく違和感がない。三人は小高い展望台に上がり、お濠を見下ろした。眼下に広がる緑色の水面。何艘かの船が水上に浮かんでいる。手漕ぎボートのほか、スワンボートや足漕ぎボートもある。両岸の斜面から樹々が、キラキラと光る水面に向かって枝を伸ばし、新緑が目に眩しい。
「うん。まぁ、そこまで混んでなくて良かった。あれに乗るの。下でチケットが買えるよ」
六花が、浮かんでいるボートに目をやって言った。蒼は知っているらしく、ただ頷いただけだった。瑞貴は黙って二人の後について歩き、展望台を降りてスロープを下った。千鳥ヶ淵ボート場、と書いてある。大人が三人乗れるのは、手漕ぎボートだけだった。六花がチケットを買い、三人は船着き場まで下りる。
蒼が最初に乗り込み、オールに手をかける。
「あ、僕が漕ぎましょうか」
瑞貴が咄嗟に言った。蒼はインテリらしく華奢な体つきをしているし、上等なジャケットはあまり活動的ではなさそうだ。瑞貴もそこまで屈強なわけではないが、一応、現役の運動部高校生だ。蒼は一度、上目遣いに瑞貴を見ると、
「じゃ、お願いしようか」
と言って漕ぎ手の位置を譲った。結局、ボートに後ろ向きに瑞貴が座り、向かい合わせに六花と蒼が並んで座った。ボート場は始業したばかりだったが、土曜日でもあり賑わっている。外国人も多いが、日本人のカップルや家族連れもいる。
ボートを離岸させると、六花が方向を指示する。最初はぎこちなかったが、すぐに瑞貴は慣れて、うまく漕げるようになった。船着き場から見て左岸の、岸から樟の枝が大きく張り出してできた木陰までボートを進めると、六花はそこで停めさせた。
「ここでいいよ」
徐ろに六花は白い日傘を広げる。そして、キャンバス地のトートバッグから鈴を取り出し、そっと鳴らす。コロコロと、軽く涼やかな音がした。
蒼がさりげなく周囲を見回す。近くにはスワンボートが一艘、そして、手漕ぎボートが一艘、通り過ぎて行ったが、いずれもこちらには目もくれず、それぞれ写真撮影や会話に興じていた。
深い緑色の静かな水面に、ポコ、ポコ、と粘度の高い泡が浮いてきた。瑞貴は息を呑む。ぬらりと水の表面が盛り上がり、茶色い頭がのぞいた。亀の甲羅に似た平たい皿の周りに、縄のような硬い質感の毛がふさふさと生えている。その下から、こちらを見上げる瞳が二つ。河童は辺りを警戒しながら、嘴まで水の上に露わにした。
『よく来たな、シマザキ』
河童は濁声で六花に声をかけた。
「久し振り、宮乃介。これが上条の末裔、宝珠だよ」
六花は、敢えてそうしているのか、河童の方を見ずに話している。河童がいるのは、ボートと岸の間の陰で、六花の日傘がさらに外から見えづらくしている。瑞貴はついつい河童の方を見てしまうが、どうしたらいいのか分からず、とりあえず会釈した。
『うむ。まぁ、力としては立派なものだな』
嘴がほぼ水に浸かりながら、河童は頷いた。
『だが、均衡が悪い』
「瑞貴、こっちが、半蔵濠の宮乃介」
六花が紹介してくれたので、瑞貴も一応名乗っておくことにした。
「上条瑞貴です」
『ちょいと、右の掌を見せてみな』
ボートの下の水面すれすれにいる宮乃介に見せるため、瑞貴は少し身を乗り出して手をかざした。
『おお……。妖力が漲るな……』
急に宮乃介はうっとりとした表情になる。瑞貴にはいまいち分からないが、この掌から何か出ているのだろうか。
『ああ。久し振りに、尻子玉でも喰いたいな……』
宮乃介は近くを通った小さな子供連れのスワンボートを目で追いながら、舌なめずりをした。
「瑞貴、もういいぞ」
蒼も宮乃介の方は見ずに、ぴしゃりと言った。瑞貴は慌てて手を引っ込める。
『ふん。祀の力はもっと洗練されていたがな』
宮乃介はすぐに真顔に戻った。祀というのは、百五十年前、つまり先代の宝珠である。六花が資料で調べたところによると、寒月峰神社の現在の神主である瑞貴の祖父の祖母にあたる上条の巫女だった。
「瑞貴はね、これから宝珠の力をコントロールできるようにならなきゃいけないの。それで、宮乃介にも知恵を貸してもらいたくて来たの」
『制御ねぇ』
「もちろん、寒月峰神社で上条の神主からもトレーニングを受けることになるとは思う。でも、それが身につくまでには時間がかかる。その間にも、宝珠の力はどんどん強大になって、妖魔の世界にも影響を及ぼしてしまう」
『闇の世界の復活ってわけだな』
冗談めかして、宮乃介はほくそ笑んだ。
「妖怪にとっても、良いことばかりじゃない。宝珠の力を狙って妖魔が集まると、諍いも起きるし、宝珠の力は知っての通り、妖魔を制圧することもできるけど、瑞貴はまだ手加減も分からないからね」
『なるほどな』
「今は、自分ではコントロール困難で暴走しかねない宝珠の力を、せめてもう少し制御できるようになるまで、目立たないようにしておきたい」
六花の説明を蒼が継いだ。六花は瑞貴のいくつかの服に白糸の背守りを縫い付け、瑞貴の父親もさらに強力な遮断のハーブを調合してくれた。しかし、それらを身に着けていてもなお、宮乃介が恍惚とするほどの力が漏れてしまう。都会は妖怪が棲みにくく、数が少ないためまだ大事には至っていないが、力に惹かれて妖魔が集まってくるのも時間の問題かもしれない。
「そうだ、宮乃介。これを」
唐突に、六花はバッグから小さな紙袋を取り出した。薄いオレンジ色の手提げバッグに鮮やかなオレンジ色の薔薇のマークがあしらわれている。
『タンジェリーナの胡瓜サンドだな!』
危うく水面から飛び出してきそうになった宮乃介を、六花が日傘で制止する。
「ちょっと、宮乃介。人が多くなってきたから、気をつけて。あなたは国に認められてはいるけど、妖怪はまだ非公式な存在なんだから」
『分かってる。分かってるから、その胡瓜サンドをくれ』
六花は紙袋からフードパックに入ったサンドイッチを出すと、待てをされた犬のようになっている宮乃介に手渡した。
「あれは、六花の友人のパティシエが作ったキューカンバーサンドだ。アフタヌーンティーブームでイギリスのキューカンバーサンドを店で出したら、人気が出たらしい」
蒼が瑞貴に耳打ちする。胡瓜サンドとはあまり聞き慣れなかったが、さすが河童だと瑞貴は感心した。河童は胡瓜が好物なのは有名だが、アフヌンのキューカンバーサンドとは、またずいぶんお洒落だ。
『この乳酪と葡萄酢が絶妙なのだ』
宮乃介は水中から袋状のものを出して、ほくほくしながら丁寧にサンドイッチをしまった。防水バッグなのか。文明も享受している。妖怪も時代が変わると進歩するものなのだ。
『力を目立たないようにする方法か。祀は幼い頃から修行して、力に目覚めた時にはすでに一人前の巫女だったからな…』
六花が言っていた賄賂というのはこういうことか。サンドイッチを受け取った宮乃介は首を捻り、真剣に考え始めた。
『そうだな。巫覡は、性別を不詳にしておくことが多いな。魔を除け、術者を特定させないためにな。祀も一人で野山で修行する時には、よく山伏や侍の格好をしていた。祀やお主の名だって、そういうことだろう』
確かに、瑞貴も名前でよく女子に間違われることがあった。父親も千歳、祖父も確か晴海という、女性でも通用する名前であり、これは上条家のしきたりなのかもしれないと、瑞貴は思った。
「なら、女装すればいいということか」
蒼の低い呟きに、瑞貴はえっ、と顔を上げる。
「昔から、魔除けのために子どもに異性装をさせる風習があったりするもんね」
六花も同調する。
『祀は少々お転婆ではあったが、何ものにも動じない器の大きい巫女だった。あれの白拍子姿は本当に美しかったぞ』
瑞貴は内心焦った。
「いや、でも、日常生活で女装はちょっと…」
「四六時中というわけじゃない。一つの手段としては有用だろう」
抵抗してみたものの、蒼に一蹴される。六花も真剣な表情をしており、冗談ではなさそうだ。
『そうだ。お前にこれをやろう』
宮乃介が水の中から手を出し、ボートの方へ突き出した。ぬめぬめとして水掻きのついた手に、掌くらいの大きさの板のようなものを持っている。瑞貴は六花と蒼の顔を見たが、二人とも何も言わなかったので、宮乃介の差し出したものを受け取った。
それは、花弁の形をした鼈甲のようなもので、真ん中に『継』と彫り込まれていた。
『寒月峰神社に行くんだろう。そこの神主に聞いてみるといい』
「これは……」
『まぁ、祀の忘れ形見だな。次の宝珠が現れたら、渡すように頼まれていた』
そう言うと、宮乃介はまた、口元まで水に浸かった。縄のような長い髪の毛は、水に浮かんだ枯れ枝かなにかのようにしか見えない。
『シマザキ、ジンノ、また来るといい。じゃあな』
言い残して、宮乃介は水の中に沈んでいった。
こうして、皇居の河童である宮乃介との逢瀬は終わった。千鳥ヶ淵は客が増えてきて、そこかしこにボートが浮かび、行き交っている。うららかな春先の休日を、皆、楽しんでいるようだった。瑞貴がまたゆっくりとボートを漕いで、三人は船着き場まで戻った。
※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。




