首塚①
いつになく静かで、凛とした朝だった。山全体に晴れやかで落ち着いた空気が充ちている。まるで、遊び疲れた子どもが眠っているかのようだ。
瑞貴は離れで、蔦子と吏とともに朝食を摂っていた。一週間の修行を終えた瑞貴は、今日から精進落としに入っている。久し振りに食べる焼き鮭の脂が身体に染み入る。
「美弦さんと宮司様は?」
「明け方まで氏子会の方たちとお祭りの打ち上げをしてらしたからね。二人ともまだ仮眠中よ」
蔦子が瑞貴の茶碗にお代わりの米飯をよそいながら答える。
「氏子会の色んな人からね、あの剣の舞の巫女は誰かって訊かれて、大変だったみたいよ。上条の親戚筋の娘だっていうことにしてあるみたいだけど」
「ああ……」
茶碗を受け取りながら、吏の言葉に瑞貴は力なく呟きを洩らした。
「まぁ、宝珠なんてただの言い伝えだと思われてるし、色んな意味で保守的な地域だから、神職じゃない男子が巫女に扮して舞を奉納するなんてことには納得しない氏子もいるからね」
「えっ、あんなに妖魔が集まるお祭りをやってるのに、みんな宝珠を信じていないんですか?」
「やぁねぇ、瑞貴。あの妖魔たちは全員に視えてるわけじゃないよ。全然視えない人にとっては、形式だけの閑散とした祭りに見えるんだから」
「そうなんだ……」
瑞貴は驚愕した。あんなに大勢の参加者で盛況な祭りだったのに、人間の中にはそれがまったく分からない人もいたのか。
「もちろん、普段は妖魔が視えない人にも顔を隠した妖魔が人間として見えることもあるし、中には本当に妖魔が視える人だっているけど、それは口には出さない不文律だからね。それにしたって、昨夜の祭りはここ数年でも一番の、立派な祭りだった。これで、山の妖も当分の間はおとなしくしてるでしょう」
やれやれ、と吏は肩を竦めたが、瑞貴は少しがっかりしていた。人間と妖魔があんなに楽しそうに交わるなんて、やはり幻想なのだろうか。
朝食を終えた後、瑞貴は神社まで歩いて行った。修行の間は、デジタルデトックスも兼ねてスマホの電源を切っていたので、久し振りにWi-Fiにつなぐ。この近辺では神社の社務所にだけWi-Fiがある。離れではほとんどスマホの電波は届かない。緊急で連絡が必要になるかもしれない相手には、神社と離れの固定電話の番号を伝えておいたが、一週間、誰からも連絡はなかった。一週間ぶりに電波のつながったスマホには、溜まっていたメッセージやメールが一斉に届く。その中には、六花からのメッセージも入っていた。
蒼の小太刀は本部から返送されてきたそうだ。処分の決定はまだ下されていないが、暫定的に活動を再開して良いことになったらしい。他に妖怪を的確に斬れる調査員が関東にいないというのがその理由だった。それだけ、妖怪による脅威が逼迫しているということだろう。
祭りの翌朝で、神社の境内はまだ雑然としてはいたが、空気は清浄に整っている。祭りが終わった後、宮司様は結界を新たに張り直してから氏子会の集まりに出掛けたと蔦子が言っていた。瑞貴は神社の境内をひと巡りした後、一旦離れに戻り、管狐を連れて今度は山道に出掛けた。禊も山駈けもない朝は久し振りだ。一週間、だいぶ山の中を歩き回ったので、道はかなり覚えた。瑞貴は特に宛てもなく、悠花や祀の墓のある山の中腹辺りへ向かって歩いていった。
いつも宝珠の姿を追ってざわめいている妖怪の気配が、今日はほとんど感じられない。あの神事はこんなにも山を鎮めるものなのか。そんなことを思いながら瑞貴はのんびりと、晴れた空を眺めながら歩いていた。
『主さま、何か来ます!』
山肌の日向の、踏み固められてできた細い山道の向こうを見通して、タカネが声を上げた。その耳は、警戒するようにピンと立っている。タカネが見つめる方に目を遣ると、痩せ細って青白い、襤褸を纏った人型の妖魔が近付いてくるのが見えた。
(良くなさそうだな……)
瑞貴は思い、咄嗟にやや低くなった道端の窪みへと逸れ、草叢に身を隠した。管狐たちも後に続く。妖魔は、太陽の光の下を蜃気楼のようにゆらりゆらりと歩いてくる。その姿には生気がなく、今にも倒れそうで覚束ない。まるで、自らの意志ではなく何かに操られて動いている傀儡のようだ。
『妖怪でしょうか……それとも、死霊の一種かもしれません』
タカネが小声で囁いた。確かに、死霊と言われた方がしっくりくる。妖魔は、瑞貴たちが潜んでいる草叢の前を通り過ぎようとして、ふと動きを止めた。
(気付かれたか……?)
妖魔はしばらく、柱のように微動だにしなかった。風が吹き、その纏った襤褸だけが頼りなく棚引く。
と、その時、瑞貴のすぐそばの丈の高い草の一筋に、黒い小さな甲虫が飛んできて留まった。
(えっ、蛍?)
瑞貴の目と鼻の先に留まった黒い虫は、尾部が白く発光している。蛍の光はどんどん強くなり、朝の光の中でもはっきりと分かるほど明るく輝く。
立ち止まっていた妖魔がゆっくりと首を動かして瑞貴たちのいる方を顧みる。頬のこけた青白い顔がこちらを向くと、その落ち窪んだ眼窩には眼球がなく、深い闇を湛えた伽藍洞になっている。無感情で虚無。空虚なその相貌は、敵意や憎しみの表情よりも、却って空恐ろしく見えた。
蛍が、強い光を放ったまま飛び立ち、真っ直ぐに妖魔の頭のそばまで向かっていく。さながら、鬼火のようだ。そして、呆けたように佇む妖魔の顔の前で、閃光弾のように弾けた。ゆらりと、妖魔の体が揺らぐ。そのまま倒れるかと思われたが弥次郎兵衛のように持ち直す。そして妖魔は音もなく向き直ると、元の進路に向かって進み始めた。痩せさらばえた体をゆらりゆらりと揺らし、覚束ない足取りのまま、妖魔の背中は小さく消えていった。
『主さま、何だったんでしょう、あれ』
『怨霊だって、あんなに虚ろではありませんよ』
タカネとフウロが口々に言って身震いした。まるで動く屍のような妖魔は、妖怪にとっても恐ろしく見えるのか。瑞貴は草叢から立ち上がり、妖魔の歩いて行った方向を見つめた。
『そんなところで何をしておいでだね』
後ろから声を掛けられて、瑞貴はびくりと体を震わせる。振り返ると、妖魔がやって来た方向の山道にぬらりひょんが立っていた。
「ぬらりひょんさん」
『今、ここを行き遭い神が通って行ったろう』
『行き遭い神!あれが!』
瑞貴が口を開く前に、フウロが大きな声を出した。タカネも首を竦めている。
『ああ。あれは、純粋な妖怪ではなく、神や死霊の性質も併せ持つからな。祭りをしたところで、あの手のモノは鎮まらんと見える』
ぬらりひょんは柔和な笑顔でそう言うと、瑞貴に上がって来いとばかりに手招きした。
「行き遭い神は、遭遇すると祟られるって言いますよね」
『そうだな』
瑞貴に手を貸して、元の道に引っ張り上げながら、ぬらりひょんは相槌を打つ。
『体に触れたり、魅入られたりすれば、命も落としかねん。だが……』
身体についた土埃や草の葉を払う瑞貴に向かって、ぬらりひょんは言葉を継ぐ。
『お前さんは加護を受けているからね。大丈夫だろう』
「加護って、あの……蛍?」
ぬらりひょんはそれには答えず、歯を見せてにっと笑った。加護を受けている――以前、季仙坊も同じことを言っていた。先代の宝珠、祀の加護。あの蛍が放った白い光も、祀の加護の現れだったのだろうか。
『山が静かだから、却ってああいった空虚な妖魔は出歩きやすいのだろう』
「ええ。今日は本当に、山が静かですね」
『お祭りが楽しかったからですよ!』
『昨夜はくたびれましたが、私たちにはお勤めがありますゆえ』
そう言いながらも、管狐たちは元気に跳ね回っている。そのうきうきした様子を見ていた瑞貴の頭の中で、今朝からずっとぼんやりと思い描いていたことがひとつの言葉を形作った。
「百鬼夜行……」
思い浮かんだ言葉は、そのまま口をついて出てくる。ぬらりひょんが、おや、という顔をした。
「百鬼夜行を起こすというのは、どうでしょう」
以前、雄然が口にした百鬼夜行という言葉が、頭の中に残っていたのだ。狐の嫁入りや祖霊や妖魔をも巻き込んだ寒月峰神社の祭りを見てきた瑞貴は、雄然の言っていた通り、力を持て余した妖怪たちが発散できるイベントを起こすことが効果的だと実感したのだ。
『ほう、百鬼夜行』
ぬらりひょんは興味深そうに頷いて、顎に手を当てて首を捻る。
『妖怪たちに、夜空を練り歩いてもらうんです。狐の嫁入りみたいに、異層を通りながら、時々、見え隠れするくらいに。……そんなことって、できますか?』
勢い込んで、瑞貴はぬらりひょんの顔を覗き込んだ。ぬらりひょんは少しの間、眉間に皺を寄せて考え込んでいた。近くの木の枝ががさがさと揺れ、鳥たちが囀りながら飛び去っていく。
『……できんことはないだろう』
「ほんとですか⁉」
『しかし、いくつか解決しなければならんことがある』
「どんなことですか?」
『まず、全国の妖怪に報せを出し、参集を促さねばならん。そして、異層を作り出せる妖怪に協力を仰ぐ必要がある。しかも、異種の妖怪の異層同士を繋げなければなるまい』
目を閉じて真剣に思案しているぬらりひょんを息を詰めて見守り、瑞貴は次の言葉を待った。
『そして……一番の難題はこれだ』
ぬらりひょんは腕組みをして、瑞貴を見据えた。
『大規模な百鬼夜行には、核となる妖魔が必要だ。つまり頭領だな』
「頭領……」
『魑魅魍魎を率いる品格と実力のある妖魔でなければ、頭領は務まらん。皆を盛り立てて、牽引する頭領だ』
沈黙が訪れる。確かに、冗長にならず妖怪たちが鬱憤を発散できる百鬼夜行を起こすには、音頭をとるリーダーが必要だというのは理解できる。
「……ぬらりひょんさんでは、だめなんですか?」
『私のような耄碌爺では、誰もついて来んだろうよ。もっと華があって豪胆な妖魔でなければな』
呵々と笑うぬらりひょんを見て、妖怪の総大将なのに、と瑞貴は思ったが、この柔和な好々爺では、申し訳ないが若干地味なのは事実だ。
「うーん。そうですか……」
しかし、肩を落とした瑞貴にぬらりひょんは笑いかけ、背中をポンポンと叩く。
『だがな、瑞貴。発想は悪くない。良いぞ、百鬼夜行。やってみる価値はある。頭領さえ決まれば後は些末なこと。頭領を務められる妖魔を各々探してみよう』
「……分かりました。考えてみます」
そうは言っても、百鬼夜行の頭領になるような妖魔なんて思いつかないし、思いついたとしても実現できる気がしない。
『百鬼夜行を起こすなら、盆の内が良かろう。騒ぎになると一番厄介な都会には人間が少なく、多少の不思議があっても赦される時分だからの。少々急がねばならん』
「えっ、そんなにすぐですか?」
『妖怪の鬱憤が爆発してからでは遅かろう。最早、盆でもぎりぎりかもしれん』
盆と言えば、もうほんの数日後だ。そんなにすぐに、百鬼夜行なんてできるものだろうか。とはいえ、ぬらりひょんの言うように、妖怪の欲求不満はもう限界かもしれない。
こんな時に相談できるのは、やっぱりあの人たちしかいない、と瑞貴は思った。早速翌日、瑞貴は東京に一旦戻ることにした。
※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。




