ぬらりひょん①
八月一日、瑞貴は一人で秩父に向けて出発した。千歳は当然一緒には行かず、後から合流するかどうかも未定だった。五月に初帰省した時と同様に、駅まで美弦が迎えに来てくれることになっている。
秩父行きの特急の中で、瑞貴は車窓からぼんやりと外を眺めていた。今回は少なくとも二週間ほど滞在する予定なので、大きめのスポーツバッグにワンショルダーのリュックサックと荷物は多めだ。リュックサックには、京弥からもらった懐中時計と管狐の入った竹筒をぶら下げている。魔除けのために薄くメイクもしていた。
だんだんと緑の多くなっていく景色。前回、同じ景色を見ていた時とは異なる種類の不安がある。かつての瑞貴は、顕現した宝珠の力をうまく扱えず、それを奪おうとして寄って来る妖怪を恐れていた。今は、妖怪への恐怖心は薄れたが、力を得た妖怪が世の中に及ぼす影響を心配している。
秩父駅はゴールデンウィークほどの混雑ではないが、それでもかなりの人出だった。駅から外に出ると、照りつける太陽が肌に刺さるようだ。今回はリアルタイムで美弦とメッセージをやり取りしながらの待ち合わせだったので、幸い人混みの中でも難なく落ち合って美弦の白いライトバンに乗り込んだ。
「瑞貴。だいぶ顔つきが変わったね。頼もしくなった」
三か月ぶりに顔を合わせた美弦は、快活な笑顔で迎えてくれる。瑞貴も微笑んでそれに応えた。美弦は神社の外では私服だが、麻のスタンドカラーシャツが涼しげだ。
「美弦さん、山の様子はどうですか?」
「うん……。狐の嫁入りの後は少し落ち着いたけど、やっぱり今年は遭難が多くてね。大抵は捜索で見つかってるけど……」
車のエンジンをかけてエアコンを効かせながら、美弦は語尾を濁す。
「道に迷って救助された人の半分くらいが、何かに道に迷わされたとか、山の中で化け物を見たって言うんだよ」
うーん、と唸って瑞貴が美弦の顔を窺うと、美弦も難しい表情で頷いている。山で道に迷った時の心理状態では、何でもないものでも化け物に見えるということもあり得るが、全部が本物の妖怪でないとも言い切れない。山の事故も水の事故も、連日全国でニュースになっている。そのうちのどれだけに妖怪が関わっているのだろうか。
美弦は車を発進させ、山に向かう。夏休みだけあってミニバンやSUVが行き交い、レンタカーもかなり多い。山道は、ゴールデンウィークの時より車が多い印象だった。
「来るなり申し訳ないんだけどね、瑞貴」
山のカーブでハンドルを切りながら美弦が切り出す。
「数日前から、宝珠に会わせろって言って、ずっと待っている客がいるんだ」
「客?」
「うん。ぬらりひょんっていうんだけどね」
事もなげに美弦は言った。ぬらりひょんといえば、妖怪の総大将とされている有名な妖怪である。
(来たか……)
瑞貴は心の中で呟いた。実のところ、いずれ対峙することになるだろうとは思っていたのだ。総大将と言うからには、おそらく人間と渡り合うことにも長けているのだろう。一筋縄ではいかない気しかしない。
「何の用件なんでしょう」
「それが、宝珠に会いたいの一点張りで。神社には結界があって入れないから、いつも表参道で待ち構えていてね」
「どんな感じでしたか?僕で太刀打ちできるでしょうか」
「天下の宝珠殿が、何をおっしゃるか」
「やめてくださいよ」
冗談めかして笑う美弦に、瑞貴は軽く抗議する。
「ふふ。肚の中はどうだか分からないけど、話の分からない相手ではなさそうだったよ」
ぬらりひょんは、宝珠の力を利用したいのか、それとも季仙坊たちのように今更の宝珠の力の顕現を疎ましく思っているのか。どちらにしろ、気は抜けない相手だ。
「あまりにも毎日、催促に来られるんでね、今日は表参道の茶屋で待ってもらっているんだ。神社に着いたら、会いに行ってくれるかい?」
「……分かりました」
ずいぶん強引だし性急だ。このタイミングで妖怪の総大将が宝珠に会いに来るとは、ただの興味本位とは考えられない。瑞貴は完全に身構えていた。
寒月峰神社の離れに着くと、瑞貴は挨拶もそこそこに、リュックサックだけ背負って家を出た。山は東京に比べれば涼しいが、歩けばすぐに汗ばんでくる。瑞貴は美弦とともにまずは神社まで行き、拝殿に詣でた。晴海は忙しくしているのか、姿が見えない。境内で掃除をしているもう一人の神主に会釈をして、二人は神社の正面の鳥居をくぐった。灯籠の並んだ石段を下り、表参道に出る。瑞貴はこちら側の道に下りるのは初めてだった。表参道は大きな樹々に囲まれて深い日蔭になっており、風が渡って涼しかった。砂利道は思いのほか幅が広く、片側にはいくつかの店が軒を連ねている。
「お店もあるんですね」
「うん。昔よりアクセスが良くなって、参拝客も増えたからね」
土産屋、食事処、甘味処と並んでおり、甘味処の軒先の床几台と野点傘の赤が目に眩しい。二人の目的地は、氷の吊り下げ旗がはためく『甘露屋』というその甘味処だった。屋外の床几台には家族連れと外国人カップルが一組ずつ座っている。その脇を通って店内に入ると、やや薄暗い中、テーブル席がいくつか並んでいる。店内はあまり冷房が効いておらず、古ぼけた扇風機が音を立てていた。瑞貴はリュックサックにぶら下げた懐中時計に目を遣る。猫目石は緑色を帯びており、近くに妖怪がいることを示していた。二つほどのテーブル席に客がいたが、ぬらりひょんらしき姿は見えない。
美弦が店の奥のテーブル席に瑞貴を案内する。すると俄かに隅の暗がりから、椅子に座った老人の姿が浮かび上がって、瑞貴は息を呑んだ。妖怪の気配はだいぶ分かるようになっていたつもりだったが、ぬらりひょんは完全に気配を消していた。灰茶色の駒絽の着物に鳶色の羽織。雄然のモダンな和装とは趣が異なり、古風で風格がある。
「瑞貴、こちらがお客さんだ」
瑞貴は老人の向かいに腰を下ろしながら、その顔をまじまじと見た。揶揄うような瞳でこちらを見ているが、とても優しい顔をした妖怪だった。
「ぬらりひょんさん、お待たせいたしました」
『うむ。お前さんが新しい宝珠かい。名前は何という?』
「上条瑞貴です」
『瑞貴。いい名前だ。驚いているね。人の住処に上がり込み、存在を消して居座るのがぬらりひょんの特技なのでな』
ほほほ、と、禿げあがった長い頭を揺らして、ぬらりひょんは笑う。深みのある温かい声だった。
『ここにいる他の誰も、私が妖怪だとは気付くまいよ』
楽しそうにぬらりひょんは笑い、テーブルの上のみたらし団子を口に運んだ。
『この店の団子は旨い。お前さん方も食べなさい』
「いえ、あの、僕は……」
言いかけた瑞貴の腹が、情けない音で鳴った。それを聞いたぬらりひょんは哄笑して、店員を呼び止めると二人分のみたらし団子を注文する。頭が極端に大きく後頭部の突き出た特異な見た目にも拘わらず、店員はさして気にも留めずに注文を受けていく。
『若者は大いに食べた方がいい』
ぬらりひょんは扇子を広げ、上機嫌にパタパタと扇ぎ始めた。
「あの、それで……ご用件は?」
おずおずと瑞貴は尋ねる。対するぬらりひょんは朗らかな笑顔だ。
『なぁに、そう急くな。お前さんの心配事と同じ事だろうて。団子でも食べながら聞きなさい』
ほどなくして団子と緑茶が運ばれてきて瑞貴と美弦の前に置かれ、ぬらりひょんの茶碗には緑茶が注ぎ足された。ぬらりひょんは孫を眺めるように目を細め、ゆっくりと話し始める。
『知っての通り、わたしは妖怪の総大将と呼ばれている。総大将といってもね、別に偉いというわけではなく、まぁ、責任者というか、交渉係のようなものだね。妖怪をみな一族と見做し、人間やら他の妖魔と折衝するのが仕事でね』
ぬらりひょんの笑顔の圧に負けて、瑞貴と美弦は団子を食べ始めた。みたらし餡はほど良い甘さで団子は歯切れがよく、老人の言葉通りとても美味しかった。
『消滅の危機に瀕していた我々妖怪に活力を与えてくれたこと、まずは礼を言おう。それに、人の手による妖怪駆除を阻止したのも、英断であった』
「駆除を阻止……民保協の縊れ鬼駆除のことですか」
瑞貴は驚いて訊き返す。ぬらりひょんはにっと意味深に笑った。
『人と妖怪が個々の諍いで傷つけあうのはよくあること。しかし、組織立った駆逐は互いの均衡を崩すのだ。もし、この日本が《《国として》》縊れ鬼を抹消したとあらば、それは我が一族の敵愾心を煽り、いつ果てるとも知れぬ泥仕合になっていたであろう』
縊れ鬼を斬らずに封印することを選び、実行したのは蒼であり、瑞貴はたまたまその手伝いをしただけだ。そもそも知らされずにしたことではあったが、結果的にそれが良かったということか。それは是非、民保協に報せたいところだ。
『わたしとしても、妖怪と人間の対立は避けたいのでね』
あまり空調の効いていない店内は蒸し暑く、ぬらりひょんの扇子が羨ましく思えるほどだ。瑞貴の背中を一条の汗が滴った。
『妖怪というのは、半分は人間の心の中に棲んでおるものなのでな、人間なしには活きられんのだ』
「心の中に……?」
思わず瑞貴はぬらりひょんの言葉を反芻した。
「それは、どういう意味ですか?」
美弦も不思議そうに身を乗り出した。ぬらりひょんは柔和な表情で教えを説くように話を続ける。
『妖怪は物理的に存在はしておる。しかし、人間の心に何らかの印象を残すことで、その存在を確かなものにするのだ。その印象というのは、恐れであったり、敬いであったり、親愛であったりと様々だ。だが、それを得心しない輩が、妖怪の中にもいるのだよ。人間を放逐して妖怪の天下となることを望むような者たちがね』
すでに瑞貴も多くの妖怪たちと出会い、それぞれの環境で色々な思想を持った妖怪がいることを知った。民保協の立ち位置も、ただ消滅が危ぶまれる妖怪を保護するだけの組織ではいられないだろうということも明らかになってきた。
「僕たちは、本当に共生できるんでしょうか」
柄掛山で六花が季仙坊に共生の話をした時には激昂された。おこがましいことは分かっていながらも、訊かずにはいられなかった。ぬらりひょんはパチンと扇子を閉じ、声を立てて笑いながら、閉じた扇子で瑞貴を指した。
『まさにそれよ、瑞貴』
突然、名前を呼ばれて瑞貴はたじろいだ。温厚な雰囲気はそのままに、ぬらりひょんは愉快そうな強い眼差しで瑞貴を射た。
『我々はこの現代において、妖怪と人間の共生の可能性について考えねばならんのだ』
そう言い切ると、ぬらりひょんは少し肩の力を抜き、頬を緩めた。
『わたしはもう二千年近く生きておるが、日本では古来から人間と妖怪が好く共生してきたのを知っている。現代でも何とかうまくやっていく方策が、きっとあるだろう』
さすがは妖怪の総大将だ。感情的になることなく将来を見据えている様子に、瑞貴は感動すら覚えた。そこまで言うと、ぬらりひょんはまた扇子を開き、扇ぎ始めた。
『すぐに答えが出ることではないのでな。瑞貴にもゆっくりと考えてほしいのだ。宝珠であるお前さんにとっては、避けては通れないことだろうからね。わたしはしばらくこの山の周辺に滞在することにした。団子も旨いしな。また語らおう。瑞貴も、寒月峰神社の神主殿もな』
茶目っ気たっぷりにぬらりひょんは笑った。妖怪だということを忘れそうになるほどの笑顔だ。
『瑞貴は瀬尾稲荷の管狐を式神にしているだろう。わたしに会いたい時には式神を遣いに寄こすといい』
呵々と笑って、ぬらりひょんは椅子から立ち上がった。止める暇もなく支払いを済ませ、店から出て行く。残された瑞貴と美弦は、テーブルの上の空になった皿と茶碗を呆然と眺めた。じわじわと迫る暑さのせいか、瑞貴の背中には幾筋もの汗が流れていた。
※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。




