暗雲②
東京は梅雨入りしてすぐにはあまり雨が降らなかったが、一週間ほど遅れてだいぶじめじめした陽気になっていた。雨の日が続く中、時折晴れるとまだ六月だというのに気温が三十度を超える日もあり、おかしな天気だった。
陸上部の部活は、本降りの雨の日と熱中症警戒アラートが出ている日は屋内練習になるので、夏は曇っているくらいが丁度いい。今日も空はどんよりしていて、雨がぱらつくこともあるが、部活は比較的やりやすかった。綾山高校の陸上部は、長距離班とトラック班に分かれている。部員は男子の方が多いが、トラック班には女子部員も多かった。長距離班は、学校を出て外周をランニングすることもあるが、今日は学校の敷地内の校舎の周りをぐるりと回るコースを周回する。そもそも進学校の運動部なのでそれほど本気度が高くはない。瑞貴は海斗や他の部員たちと一緒にゆるくランニングをしていた。校舎脇の体育館の裏を走っていると、海斗が小声で話しかけてくる。
「なぁ、あのフェンス越しにこっち見てる奴、あれ、終礼で言ってた不審者じゃないか?」
瑞貴と海斗は別のクラスだったが、今日の終礼では全クラスで不審者への注意喚起があった。白っぽい服を着た白髪頭の年配の男性が、壁やフェンスの外から学校の中をじっと覗いていたり、学校の周辺の道で制服を着た生徒たちを眺めたり後をつけていったりするらしい。走りながらフェンスの外を横目で見ると、確かに白い人影が立ってこちらを見ている。
「関わらない方がいい」
瑞貴はそう言った。人間であっても、妖怪であっても。いや、おそらくあれは妖怪だろう。
(窮鬼か、通り悪魔か……。どっちにしろ、ろくなもんじゃないな)
すぐに視線を逸らし、ランニングコースの前方を見る。しかし、海斗はまだ、不審者に気をとられているようだった。他の部員も通りすがりにチラチラと不審者の方を見ている。瑞貴は、ジャージのポケットに入れておいたハーブの小袋を取り出した。これは、千歳が作った新しい魔除けのハーブだ。千歳が嫌なモノを見たと言っていた翌日、「お前は大丈夫だと思うが、念のため持って行きなさい」と渡された。瑞貴はランニングの列から外れて、靴紐を結び直すふりをして屈むと、小袋の口を開ける。中から乾燥したハーブをひとつまみして掌に載せると、ふっと息を吹きかけた。細かいハーブの粉が、風に乗って不審者の方に飛んでいく。そのまま瑞貴は立ち上がり、フェンスの外を見ずに走り抜けた。突き当たりの角を曲がる時に一度だけ振り向くと、両手で顔を覆った不審者が、踵を返して去っていくのが見えた。白っぽい服、というか、灰色の浴衣のようなものを着ている。やはり、妖怪だったのだろう。
中学と高校、そして特別棟の校舎の周囲を一周して、一団が再び校庭に戻ると、フィールドの中ほどに人だかりができていた。
「おい、どうしたー?」
先頭を走っていた海斗が声を上げる。
「三年が怪我したんだ」
海斗や瑞貴と同じ高一のトラック班の部員が答えた。綾山高校の部活は高二の秋で引退になるので、三年ということは中三だ。人だかりの中には、怪我をした生徒と、その傍らに座って介抱する顧問の吉田先生、それからマネージャーの姿があった。女子部員の左の脛を先生がタオルで押さえており、白いタオルが真っ赤に染まっている。辺りには血痕が点々としており、ハードルの並べられたトラックの一カ所に血溜まりがあった。
「いや、だから、転んではないんです」
二宮という怪我をした生徒が大声を出していた。
「いきなりすごい風が吹いて、気がついたら血塗れになってて……」
「ハードルに足がぶつかったんじゃないのか?」
「当たってないです」
吉田先生と二宮が押し問答になっている。なんとなく思い当たる節のある瑞貴は、思わず天を仰ぐ。すると、海斗に肘でわき腹をつつかれた。
「お前もさ、あったよな。ちょっと前に」
海斗が耳打ちしてくる。もう二か月くらい前のことだが、海斗もあの鎌鼬のことを思い出したようだった。
「ああ、うん……」
瑞貴は感情のこもらない返事をする。あれが瑞貴を襲ったのと同じ鎌鼬だとすると、二か月前より負わせる傷が大きくなっているようだ。特に何もないと美弦に言ってしまったことを瑞貴は後悔した。これはさすがに認めざるを得ない。柄掛山の季仙坊も言っていた。先々、全国の妖怪たちが騒がしくなろう、と。
怪我をした生徒は、まだ不服そうだったが、他の陸上部のメンバーに付き添われて保健室に運ばれていった。外は雨脚が強くなってきて、部長が吉田先生と相談して早めの部活の終了を決定した。部員たちは、まだ騒然としながら、ロッカールームへと戻っていった。
※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。




