異変②
その日は一日、調子が出なかった。身体は怠く、頭もぼんやりしていた。父親に持たされた匂い袋を嗅ぐと少しすっきりしたが、それでも気分はあまりすぐれなかった。
顧問の吉田先生にも会いに行き、トレーニング中に倒れて迷惑をかけたことを謝った。体調が回復してきたならなによりだ、と吉田先生は言ってくれたが、瑞貴が倒れていた状況に関しては、先生もよく分からないようだった。若い男女が担いで運んできた。倒れていた場所はトレーニングのコースから少し外れていたようだ。瑞貴が綾山高校陸上部のTシャツを着ていたため、同じTシャツを着ている仲間に声がかかったらしい。奇抜な原色の服を着た、かなり長身で細身の女性と、眼鏡をかけた色の白い男性。地元住民という雰囲気ではなく、登山慣れした風貌でもなかったと吉田先生は言っていた。先生も気が動転していて、二人の名前や連絡先は聞いていないそうだ。運ばれてきた時、熱はなかった。瑞貴自身は覚えていないが、会話はできたらしい。寒気がする、と言っていて元気がなかったので、父親に連絡して迎えに来てもらったそうだ。色々と不可解だったが、それ以上のことは分からない。吉田先生には、右の掌の傷痕のことは話さなかった。
吉田先生と話を終えて、瑞貴は部活には出ずに帰ることにした。やはり、体調はいまいちだ。
「まぁ、上条、無理するな。しっかり身体が回復してから出て来いよ」
そう声をかけた吉田先生に一礼して、瑞貴はグラウンドを後にした。そのまま校門に向かい、帰路につく。部活なしで帰るので、父親より早く家に着ける。風呂掃除と炊飯くらいはしておくか、と考えながら校門を出たところで、瑞貴はふと足を止める。十メートルほど離れたところに、壁に寄りかかるようにして人が立っている。
夕陽に透けるオレンジ色のふわふわした髪。すらりと背が高く、紫色ベースの幾何学模様のセットアップに身を包んだ……おそらく女性。瑞貴が立ち止まったのと同時に、ゆっくりとこちらを振り向き、耳からワイヤレスイヤホンをはずした。無表情だが、瑞貴の顔を見据えて、近づいてくる。やはり、女性だ。乳白色の肌が日本人離れしていて、眼差しが鋭く、中性的だがとても整った顔立ちをしていた。
(派手で背の高い女性……)
瑞貴は魅入られたように立ち尽くし、動けずにいた。朝に聞いた海斗の言葉と、つい今しがた聞いた吉田先生の話が思い起こされる。
「元気そうでよかった」
至近距離まで近づいた女性が、ハスキーな声でそう言った。
「あの、あなたが柄掛山で…」
言葉はするりと出た。女性は唇の端で微かに笑ったように見えた。
「助けてくれた方ですか?」
女性を正面から見つめて、瑞貴は言葉を継ぐ。瑞貴よりわずかに背の高い彼女は、やはり瑞貴から視線を外さずに応える。
「そうね……。助けた、のかどうかは分からないけど。あのあと、体の具合は大丈夫だった?」
この女性は何故わざわざ瑞貴に会いに来たのだろうか。その瞳からは感情が読み取れない。
「僕は、どんな風に倒れていたんでしょうか」
女性の質問には答えず、瑞貴は尋ねた。
「思い出せないんです。倒れた時のことが」
女性は少し顔を曇らせて、暫し沈黙した。瑞貴から一瞬視線を逸らして下を向き、それから再び瑞貴の顔を見据える。
「覚えてないなら、思い出さなくていいんじゃないかな」
下校していく同じ制服を着た生徒たちが、ちらちらと二人を見て通り過ぎる。女性の風貌はかなり目立つので、人目を引く。瑞貴は傷痕のある右手を強く握りしめた。
(この人は、この傷のことを何か知っているんだろうか……)
思い切ってそれを質問するか、瑞貴は逡巡した。しかし、瑞貴が口を開く前に、女性はポケットから紙片を取り出し、瑞貴の目の前に差し出した。
「もし、身体に異変があるようなら、ここに相談したらいいよ」
瑞貴は畳まれた紙片を受け取り、開いた。『陣野医院』と角張った綺麗な字で書かれ、住所と電話番号が一緒に記されていた。
「待ってください」
紙片を渡してすでに踵を返していた女性を瑞貴は呼び止める。
「まだ聞きたいことが……」
「あなたは落ち葉が厚く積もった山の斜面に倒れていた。それを私と連れで運んだ。ただそれだけ。それ以上のことは何もなかった」
歩みを止め、顔だけ少し振り向いて、女性はそう言った。そして前に向き直り、耳の横で手をひらひらと振り、去っていった。追いすがることもできず、瑞貴はただ佇んでいた。




