化け狸 保守と革新②
蒼に指定されたのは、北側にある温室の近くの丸花壇だった。蒼が確保したのは、六花と瑞貴が追っていた子狸とは別の狸のようで、ちゃんと鼓の音の主である古狸だと言っていた。
六花と瑞貴が丸花壇の南側から、その円形の中に足を踏み入れた瞬間、違和感があった。円形の外側の世界と、隔絶されたような感覚。それまで聞こえていたざわめきがミュートしたように遮断され、その空間だけ切り取られたかのような。
『ようこそお越しくださいました』
丸花壇のベンチに蒼と並んで座っていた、襟付きシャツの上に着物、羽織という書生スタイルの老人が立ち上がり、六花と瑞貴を迎えた。
『宝珠どのでございますね』
しわがれた声で老人は言った。小柄で痩せており、眼光だけがギラギラしている。言葉とは裏腹に、あまり歓迎されてはいなさそうだった。
『どうぞ、お掛けください』
二人はベンチに誘導され、先に座っていた蒼の隣に腰を下ろした。花壇の真ん中では、ここでも薔薇が咲いていた。それを囲む花壇には、色とりどりのペチュニアがまばらに植えられていたが、こぢんまりとして控え目な佇まいのためか、あまり人通りはないようだった。
「瑞貴が見つけた子狸は、この爺様の曾孫だそうだ。子狸が捕まりそうになったから、御大自ら、俺の前に現れたらしい」
老人は、座った三人の前に立った。すると、そこはもはや新宿御苑の丸花壇ではなく、美しい日本庭園に面した茶室に姿を変えていた。
『元本所狸の小十郎でございます。ただいま、この場を異層に移しました』
立礼式の茶室で、三人の座っていたベンチは畳の間に配された椅子になっており、床の間には薔薇を活けた唐物の花瓶が飾られている。小十郎は、三人を前にして立ったまま話を続ける。
『山で道に迷った旅人が、辿り着いた人家でもてなしを受けたが、一夜明けると何もない野原であった、というような、狐狸に化かされた者の昔話がございましょう。あれは、旅人をこのように異層に誘うのです。現在では、我が一族の中でも、怪異を起こせるまでの妖力を持つのは、私のみにございまして』
後ろ手に手を組み、少し前屈みで上目遣いに語る小十郎の声は、わずかに怒気を帯びている。
『曾孫の太月は腹鼓もまともに打てず、人に化けることももはや敵いませぬ。もう一族が妖力を保ちながら存続していくことは難しいのです』
そこへ、庭園に面した縁側から、小さい狸が入ってきた。右の後ろ脚を引きずって、やっと家に辿り着いたものの、茶室にいる人間の姿を見て、びくりと身を震わせた。尻に白い半月模様。先ほどの子狸だ。すると、部屋の反対側の開いた襖から、二匹の狸が出てきて、子狸に走り寄った。
『あれが、曾孫の太月とその両親にございます』
紹介しながら、小十郎は溜め息をついた。狸たちは三匹で固まって、身を寄せ合っている。
『曾祖父様、ごめんなさい。僕が人間なんかに捕まりそうになったから……』
子狸が喋った。狸の姿はしているが、人語は話せるらしい。
『太月が人に捕まりそうだと聞き及び、私が貴方がたの前に姿を見せたのでございますが、太月はその前に館林のいちかどのの助けで難を逃れたようですな』
「いちか……?」
『たまたま通りかかったいちかどのが、太月を逃がしてくださったのでしょう』
瑞貴は、落し物を拾ってほしいと声をかけてきたゴスロリ少女のことを思い出す。木から落ちて逃げ出した子狸を追いかけようとする瑞貴を、執拗に阻止しようとしていた。
「館林のいちか狸のこと……?いちか狸がいたってこと?」
六花が驚いて言った。狸と聞いてハッとして、瑞貴はポケットを探り、少女にもらったキャンディを取り出した。オーロラ色の包み紙のキャンディだったはずのものは、ぴかぴか光るどんぐりになっていた。また騙されたのか。
『いちかどのは、当代一の化け狸でございますからな』
小十郎は、少し小馬鹿にしたように言った。そこには暗に、有名な化け狸を見破れなかったことへの嘲笑が込められているのだろう。狐のみならず、狸にも化かされて、瑞貴は一人、憤懣やるかたない気持ちだった。千歳の妖魔に惑わされにくくなるハーブも、巧妙な化け狸には力が及ばなかった。
「百五十年ぶりに宝珠が現れて、再び妖力を得る妖怪も増えるでしょう。私たち民俗保全協会は、貴方がたの存続を支援したいんです」
六花が小十郎を真っ直ぐに見据えて言った。対する小十郎は、その視線を受け止め、さらに眼光を鋭くする。
『今更、宝珠どのが再来されても遅いのです。我々の妖力は先細りでございます。幸い、狸は妖力を失っても、畜生として生きていけましょう。本所から御苑に居を移しましたのも、一族が住処に困らないためでございます。いわんや、人間の助けなど無用なのです』
語気を強めた小十郎の前に、後ろ脚を引きずりながら太月が進み出た。
『だけど、曾祖父様、宝珠が現れたら一族は甦る、僕だって人に化けられるようになる、って言ってたじゃないか。腹鼓ももっと練習して、僕は曾祖父様みたいに立派な妖怪になりたいんだ』
『およしなさい、太月』
部屋の隅にいる二匹の狸のうちの一匹が太月を窘めた。声からして、母親らしい。小十郎は、すがるように自分を見つめる太月に目を遣り、無言で首を振った。
『曾祖父様!』
なおも太月は食い下がり、小さい体ながら立ち上がって背伸びをし、曾祖父に訴えかけようとする。
『いてっ』
脚を挫いているのか、太月はよろめき、畳の上に倒れ込んだ。それを見ていた瑞貴は、右手を開き、掌の上で柔らかく光る緑色の球を作り出し、そっと息を吹きかけた。光はシャボン玉のようにふわふわと飛び、太月の痛めた右の後ろ脚に舞い降りた。光が太月の脚を包み込み、一度煌めくと、蒸発する。
『あ……』
太月は、呆気に取られて光を眺めていた。太月の両親も、固唾を飲んで見守っている。小十郎だけが無表情だった。
『痛くなくなってる……』
そう言って、太月はぴょんと身軽に宙返りをした。
『これが宝珠の力か!』
明らかに希望を滲ませた弾んだ声で太月は叫んだ。しかし、横から小十郎がぴしゃりと言い放つ。
『情けをかけるのはおやめください、宝珠どの』
「でも、小十郎さん、太月くんは、妖怪でいたいと……」
前のめりに説得を始めようとした六花を、蒼が押しとどめる。
「おっしゃることは分かりました。もし、気持ちが変わったら、ご連絡をください。民保協はいつでもお力になります」
蒼はそう言って、名刺を二枚、目の前のテーブルに置いた。
『もう我々に構わんでください。お引き取り願います』
小十郎がそう言った瞬間、茶室は消え失せ、瑞貴と六花と蒼の三人は新宿御苑の丸花壇のベンチに座っていた。小十郎や狸たちの姿も消えている。ほんの一瞬だと思っていたが、二時間ほど経っていた。花壇の向かい側のベンチには、老婦人が腰掛けて本を読んでいる。周辺からは、休日を楽しむ人たちの喧声が聞こえていた。
※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。




