都会の怪③
人間を化かすと言えば、まず狐か狸である。秩父の暁父山で稲荷の狐に化かされて酷い目に遭った瑞貴は、狸と聞いて警戒していた。
五月半ばの日曜日、六花との約束通り、瑞貴は新宿に向かった。秩父から帰って以降、千歳も仕事の傍ら、色々とハーブの調合を試してくれている。最近は、妖魔に惑わされにくくなる香りを研究しており、今日はその試作品を渡された。動画を見て化粧も少し上達してきて、眉毛を整えたり産毛を剃ったりすることも覚えた。出でたちは白のオーバーサイズのシャツにデニムパンツではあったが、平行眉に赤リップ、カーキ色のアイラインを引いた様子は、やって来た六花や蒼を驚かせる出来栄えだった。
「ずいぶん気合い入れたね、瑞貴」
女子に見えるとまではいかないが、中性的な雰囲気は十分だ。
「今時の男子っぽいな。だいぶ違和感がなくなった」
最初に桃泉堂で女装を試した時には笑いを堪えきれなかった蒼にも、及第点をもらった。吏に教わった巫女舞を、今も動画を見ながら練習しており、所作も少しはたおやかになっている。
「若いってすごいね。なんでもすぐ吸収できちゃうんだから」
六花も若いとは思うが、高校生の無敵感はあなどれない。瑞貴自身、根は負けず嫌いなので、やると決めたら中途半端にはしたくないというのもあった。
今回の目的地は新宿御苑だった。新宿の狸と聞いて半信半疑だったのだが、新宿御苑なら狸がいてもおかしくはない。ただ、本物の狸と化け狸の区別は難しそうだと瑞貴は思っていた。
「あー。ちょうどいいお散歩日和。健康的だなー。ね、蒼」
千駄ヶ谷門から新宿御苑に入ったところで、六花が蒼に話しかける。天気は薄曇りだが、屋外で過ごすには、時々日が射すくらいが快適だ。溢れそうな新緑。青々とした草の香り。都会の真ん中とは思えない、樹々の生い茂る小道を並んで歩く。
「長く陽に当たるのは苦手なんだ」
蒼は俯いて眼鏡を押し上げながら言った。生白く華奢な蒼には、確かに明るく照りつける陽射しはあまり似合わない。
「真昼間に狸って、見つかるんですかね」
本所の狸囃子は、そもそも姿を見せない妖怪だ。深夜、遠くに近くに聞こえる祭囃子。音を辿って探し回っても、出所を見つけられないという怪異が、狸の腹鼓だといわれる言い伝えである。
「狸囃子の狸が化けるかどうかも、資料には残されていないな」
「えっ、じゃ、どうやって見つけるんですか?」
冷静に言った蒼の顔を、瑞貴がまじまじと見る。蒼は目を逸らし、無言だった。瑞貴は六花を振り返る。
「まぁ、ね。ほら。瑞貴が一緒だったら、ね」
「また僕を餌にするつもりですね」
「餌なんて言い方。……客寄せパンダ?でも、今回は危ない目には遭わせないから」
六花は笑って誤魔化し、横では蒼がジャケットの中で懐剣の鍔音をさせている。瑞貴は軽く溜め息をついた。
三人は、門を入って右手側の人気の少ない外周の道を歩いていた。六花の得た情報では、狸は明治神宮や赤坂御所に近い南側で目撃されるようだ。これが本物の狸なのか妖怪なのかは分からない。そして、本題の祭囃子に関しては、囃子といえるほどではないが、鼓のような軽やかで澄んだ音が、どこからともなく聴こえるらしい。楽器の練習は禁止されているので、職員が注意するために音の主を探したが見つからない。そして、その音は、深夜を含む閉園中の時間にも時折聴こえるというのだ。
新宿御苑の外周は、両側を木立に囲まれた小道が続いている。意外なほど太い幹の樹々が真っ直ぐに伸び、大人の背丈より高い低木が繁みを作っている。曲がりくねった小道の行く先は、せり出した緑に覆われて見通せず、異世界に迷い込むような錯覚すら起こさせる。
「この時期は、この先の庭園で薔薇が見ごろみたいだから、そっちは人が多いかもね。この辺の方が、狸はいそうだけど……」
と六花が言い、しばし足を止めて、繁みの中を覗き込んだり、木立の間を透かして眺めてみたりしてみる。野鳥はたくさんいるようだが、小動物の姿は見当たらない。
薄日の中、瑞貴たちは歩を進める。やがて、閉鎖された門に行きつくと、左手にプラタナスの並木が見えた。その向こうが、六花の言っていた薔薇の花壇の庭園のようで、確かにその周辺から人通りが多くなってきた。
「ちらっとだけ、薔薇の庭、見ていく?」
六花が弾んだ声で言った。庭園の人混みは、化け狸からは最も遠い場所のように思えたが、蒼も何も言わなかった。
庭園では、幾何学的に刈り込まれた生け垣に沿って、色とりどりの薔薇が咲き誇っていた。大輪の花や小さく集まって咲く花、原色だったり、淡い色だったり、様々な薔薇が綺麗に手入れされている。たくさんの人が花壇を眺め、談笑し、写真を撮っている。カップルや子供連れ、外国人を案内する日本人。ゴシックロリータファッションに身を包み、日傘を差して歩く少女たちのグループにとっては、雰囲気抜群のロケーションだろう。
「タンジェリーナ、って薔薇があるんだな」
薔薇の一株一株の前に立てられた名札を眺めていた蒼が呟いた。
「ああ、タンジェリーナね。そう。あの店の名前は薔薇の品種だって言ってたな」
蒼と六花の会話を首をかしげて聞いていた瑞貴に、蒼が囁く。
「あの、宮乃介のお気に入りのキューカンバーサンドの店だ」
そういえば、オレンジ色の紙袋にオレンジ色の薔薇のロゴマークがあしらわれていた。タンジェリーナという薔薇は、六花の髪色に似たオレンジ色をしていた。黒のタンクトップに白のカーゴパンツ、グレーのジレに黒のキャップという今日の六花のコーディネートは、活動的でありながらスタイリッシュで、薔薇の庭園でも美しく映えた。
「写真でも撮るか」
近くでゴスロリ少女たちが薔薇をバックにポーズを決めてお互いに撮影しているのを横目に、蒼は六花にスマホを向けた。六花はカメラを向けられると、条件反射のようにポーズをとる。さすがはモデルだ。
その時、温かい風に乗って、ポン、ポン、と弾むような奥ゆかしい音が、どこからともなく聴こえてきた。
「待って……。この音……」
六花は、人混みのざわめきの中で耳を澄ます。祭囃子というには単調だが、確かに鼓のような音が、一定の間隔で響いている。庭園を行き交う人々は、誰も気に留めていないようだ。何かのBGMか、イベントか、誰かが練習しているのか、休日で賑わう公園の中で、それはあまり目立たず、気にしなければ紛れてしまうほどの音だった。三人は、咲き乱れる薔薇の園で、立ち尽くした。