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宵のハコブネ  作者: 朔蔵日ねこ
覚悟
16/30

覚悟②

 秩父滞在の後半は、修行として主に早朝の山駆やまがけと拝殿での瞑想、そして巫女舞の稽古をして過ごした。山駆けでは、美弦と一緒に山伏の装束をまとい、神社がある暁父山ぎょうぶさんの山道を山頂まで走った。途中、浄縁沼も通ったが、朝陽に輝く沼は穏やかで、蛟や妖怪たちの気配はまったく感じられなかった。山の頂上までは、飛び石伝いに小川を渡ったり、急な勾配を木の根につかまって登ったりしながら、三十分ほどかかる。一心不乱に登った先の頂上には大きな岩がいくつかあり、丈の低い草が隙間を埋めていた。すり鉢状に拓けた窪みに二体の鬼の姿が彫られた黒い石碑があった。役小角えんのおづぬという修験道の開祖である行者ぎょうじゃに仕えた前鬼ぜんき後鬼ごきを祀っていると美弦が説明していた。石碑の周りの草取りをして掃き清め、山頂の冷たい風に吹かれつつ、朝靄あさもやの中に浮かび上がる周囲の山々を見渡すと、瑞貴は清々しさで満たされた。

 巫女舞奉納の当日は、神社の境内はかなりの人出だった。遠方から来る観光客も少なくないようで、外国人の姿もちらほらあった。この日はさすがに美弦も吏も晴海も忙しくしており、瑞貴は拓実や翼と一緒に、参拝客に混じって巫女舞を鑑賞した。独特で奥ゆかしい雅楽の音に合わせて舞う巫女たちはとても美しかった。

 たった四日間で何かが身に着いたのかどうかは分からなかったが、瑞貴は、これまでの日常からはかけ離れた新しい世界を垣間見たような気がしていた。

 最終日、朝の山駆けから戻った後、瑞貴は拝殿に呼ばれた。午前七時過ぎの境内はまだ人気もなく、静寂の中、鳥のさえずりだけが聞こえている。美弦に通されて拝殿に入ると、烏帽子えぼしをかぶり亜麻色あまいろ狩衣かりぎぬに身を包んだ晴海が待っていた。凛とした立ち姿は、得も言われぬオーラを放っている。

 「瑞貴、座りなさい」

 晴海の声は重厚で良く響いたが、厳しさだけではない、わずかな柔らかさを帯びていた。拝殿の中央には、白い胡床こしょうが一つだけ置かれている。瑞貴はそこに腰掛けた。

「四日間、少しは修行になったようだな」

 瑞貴自身は、あまり実感はなかったが、晴海には何か感じるものがあるのだろうか。

「人ならざる者の狡猾さや凶暴さも身を以って味わっただろう。宝珠の力を得たからには、お前はますます精進しなければならない。夏休みには、またこちらに来て、修行を続けなさい」

 晴海はそう言葉を継いだ。夏休みと言っても、部活以外には特別な予定もない。それに、晴海の言う通り、妖怪の恐ろしさを知ってしまった現在は、宝珠の力を少しでも使いこなせるようになることが急務のように思われた。瑞貴は素直に、分かりました、と答えた。

「瑞貴、お前は、神職に就く気はないか?」

 唐突に、晴海は言った。その声音と眼差しには、意外にも優しさすら滲んでいる。瑞貴は晴海を見つめ、それから美弦の顔をちらりと見て、下を向いた。

「今は……まだ、分かりません」

 瑞貴は正直な気持ちを告げた。晴海はその返答を聞くと、そうか、と頷く。その表情は、残念というよりむしろ、満足げに見えた。

「では、帰る前に厄を祓っておこう」

 晴海は瑞貴一人のために祈祷を始めた。晴海の祝詞は朗々と響き渡り、それが一つの旋律のように耳に心地よく響く。神社で祈祷を受けたのは、中学受験の前と千歳の厄年くらいで、どんな様子だったかもあまりよく覚えていない。晴海の祈祷は力強く、張りのある声は体の隅々まで染み渡るようだった。最後に、玉串を捧げ、祈る。瑞貴は厳かな気持ちで顔を上げた。

 祈祷が終わり、ピンと張っていた緊張が解けたように感じた時、晴海は再び口を開いた。

「ところで瑞貴、お前は祀様の飴色の花弁を持っているらしいな」

 晴海から言われて、瑞貴はすっかり忘れていた鼈甲べっこうのような花弁のことを思い出した。それは、秩父に来た初日に美弦に見せた後、ズボンの尻ポケットに入れたままだった。

「これです」

 そう言って、瑞貴は晴海の前に袋ごと差し出す。晴海はそれを手には取らず、確認しただけで頷いた。

「これを、皇居の河童が持っていたのだな」

「はい」

 そして、踵を返すと、瑞貴について来るように言った。

 連れて行かれたのは、神社の本殿だった。本殿は、拝殿の奥にある、神社の御祭神ごさいじんが祀られている場所であり、普段は施錠されて入ることができないと、美弦から聞いていた。晴海はその本殿の扉の鍵を自ら開け、瑞貴と美弦を中に招き入れる。

 本殿の中は薄暗く、中央には数段の朱塗りの階段が二つ連なっており、その高みに金の飾りのついた白木の扉があった。晴海は燐寸マッチを取り出し、四隅にある行灯あんどんの一つに火をつける。ゆらりと揺らぐ炎の灯りの中、二つの階段の間の踊り場に、花瓶が安置されているのが浮かび上がった。花瓶は美しい瑠璃色の陶器でできており、その中から直立するように、一本の大きな花が伸びていた。黒く細い針金のような茎の先端に、二枚の花弁をつけている。生花ではないが、あまりにも花弁の少ないその様子は、散りかけのようにも見える。その二枚の花弁は、瑞貴が持っている鼈甲のような花弁とそっくりだった。

「これは……」

「近づいて見てかまわない」

 晴海に促されて、瑞貴は一つ目の階段を慎重に上る。茎の上で儚く揺れる二枚の花弁には、真ん中にそれぞれ『生』『死』と記されていた。

「それは先代の宝珠、祀様の遺した『八葉はちようの花』だ。八葉とは、宝珠が修行により錬成することができる花弁であり、その名の通り、八枚の花弁が揃った時、すべての花弁が蕾を形作り、その蕾の中に宝珠の力を籠めることができると言われている。祀様は、八葉のうち七葉までを錬成したと伝えられているが、寒月峰神社には『生』と『死』の二葉のみが遺されている。瑞貴が手に入れたものは、この八葉のうちの一葉だ」

 瑞貴は、手の中にある袋から、花弁を取り出した。確かに、真ん中に記された文字以外は同じものだ。

「花弁を茎に添えて、戻してやりなさい」

 階段の下から、晴海が言った。瑞貴はそっと、花弁を茎に近づける。すると、花弁は元あったところへ還るように、すっと茎と一体化し、一瞬、花全体が幽かに光った。花弁は開いた状態だったが、その形は蓮の花に似ていた。

「祀様は、宝珠の力を容れる器を作ることで、宝珠の力を持った巫覡かんなぎが不在の世にも、宝珠の力を残せるよう試みたのだ。しかし、祀様の存命中に花弁は七枚までしか錬成されず、ここに遺された二枚の他は、行方も分からなくなってしまった」

 宮乃介は、『継』の花弁を瑞貴に渡す時に、次の宝珠が現れたら渡すよう言われていた、と言っていた。七葉までを祀が錬成したのであれば、ここにある三葉以外のあと四葉がこの世のどこかに存在するということになる。

「祀様が次代の宝珠に何を期待されていたのかは分からない。散ってしまった七葉を再び集めることなのか、それとも、次代の宝珠が改めて失われた花弁を錬成することなのか。これは、新たに宝珠となったお前にしか解けぬことだ」

 三枚目の花弁が加わって、凛とした八葉の花に、瑞貴は顔を近づけて見つめた。先代の宝珠である祀の力は、宮乃介も讃えていた。そんな強い力を持つ巫女でも、七葉までしか作れなかったものを、自分で錬成することなんてできるのだろうか。それとも、散り散りになっている花弁を探し当てれば良いのか。祀の成し遂げられなかったことを、瑞貴が引き継ぐことができるだろうか。

「八葉の花が完成しなくとも、お前の百五十年後には、また宝珠が現れるだろう。八葉の花は、あくまでも祀様の試みであったと聞いている。その意思を継ぐかどうかは、お前次第ということだ」

 晴海の言葉は、瑞貴の不安を見透かしているかのようだった。瑞貴は何も言わず、ただ、八葉の花とその奥の高みにある閉ざされた扉に向かって一礼すると、階段を下りる。

「教えてくださって、ありがとうございました」

 下で待っていた晴海と美弦のところに戻ると、瑞貴は晴海に礼を述べた。晴海は頷いた。その眼には、どこか慈愛のような感情が込められているように見えた。

 その日の午後、瑞貴は秩父を後にして、一人で東京の家に帰っていった。その表情はいつになく精悍で、覚悟のようなものを秘めていた。

※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。

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