蛟②
また、夢を見ているんだ、と瑞貴は思った。何も見えない、白く明るい空間だった。誰かが、優しく瑞貴の髪を撫でている。目を開けたくない。目を覚ましたくもない。何もかも、知らないふりをしていたい。
――瑞貴。
優しく甘い声が聞こえた。
――瑞貴、戻ってきてくれて、嬉しい。
聞き覚えのあるような、ないような、しかし、とても安心する声音。
――あなたは、優しくて強い子だから……
「母さん……?」
瑞貴はうっすらと目を開けた。夢の中であることは分かっている。白くまばゆい光の中に、優しく微笑む女性の顔が見えた。母親の顔は記憶にはないが、家に飾られている写真と同じ姿だった。
――見守っているからね。あなたのことも、お父さんのことも。
「母さん」
瑞貴は手を伸ばした。母親はその瑞貴の右手をそっと両手で包んだ。ひんやりとして、柔らかい。
――瑞貴、覚えていて。必要なのは、《《理解》》……
そこで、プツリと途切れるように目が覚めた。木目のある白木の天井が見える。だだっ広い和室に、障子を通して白く明るい陽の光が差し込んでいる。
部屋には誰もいなかった。遠くから、雅楽の音が聞こえてくる。巫女舞の曲だ。瑞貴は起き上がった。誰かが着替えさせてくれたのか、作務衣を着せられている。熱は……なさそうだ。倦怠感も強くない。むしろ、少しすっきりした感じすらある。
「あら、瑞貴、起きたのね」
障子が開いて、蔦子が顔を出した。
「おばあちゃん」
「みんな、心配してるわ。美弦たちを呼んできてもいい?」
「うん」
蔦子に案内されて部屋に入ってきたのは、美弦と六花、蒼だった。蔦子は盆に載せた軽食を運んできて、部屋に置いていった。時間はもう十時半だった。
布団の上に座っている瑞貴の傍らに、六花と蒼が腰を下ろした。正座した六花が、突然頭を下げる。
「瑞貴、ごめん。もっと早く助ければよかった」
「六花さん……」
隣で蒼も神妙に頭を下げている。
「私たち、密かに瑞貴の後を追って、秩父に来てたの。瑞貴を見張っていれば、きっと妖怪に出会えるんじゃないかと思って……。妖怪を確保することに夢中になって、瑞貴を危険に晒したこと、本当に申し訳なかったと思ってる」
「もう、きみを囮にするような真似はしない。済まなかった」
目の前で頭を垂れる二人を見て、瑞貴は目をしばたたかせた。そうか。二人は瑞貴が妖怪に取り囲まれて蛟に喰われそうになっているのをしばらく見ていたのか。
「でも、助けてくれましたよね」
「そうだね。僕も、瑞貴が沼におびき寄せられたことにすぐには気づけなかったから、島崎さんと陣野さんがいてくれなかったら、間に合わなかったかもしれない」
美弦は立ったまま、いつもの微笑を浮かべながら言った。
「で、成果はあったんですか?」
えっ、と六花と蒼が顔を上げ、瑞貴をまじまじと見た。
「妖怪確保の、成果です」
真顔で尋ねる瑞貴に、六花が戸惑いながら答える。
「あの時……、妖怪カラーボールを投げたの。あれがうまく弾けてくれたから、粉を撒いてマーキングすることができた。あの場にいた妖怪たちの多くは、レーダーで追跡できるようになったよ」
二人が助けに来た時、化け物の頭上に投げられた球が弾けて銀色の閃光が走り、銀粉が舞った光景がフラッシュバックする。
「あの化け物は……沼の主ですか」
「そうでしょうね。かなり大きな蛟だった。蛟は毒を吐いて、水害をもたらすともいわれてるけど、地方によっては水神として祀られることもある妖魔だよ。大雨の時に竜になって天に昇るっていう伝説があったりする。宝珠の力を利用して、現世を離れたかったのかもね……」
六花は蛟に同情的だったが、蒼は不服そうな表情をしている。
「民保協では、人間に致命的な害をなす妖怪は斬っていいことになっている。それが俺の役割でもある。あの蛟も、斬ってしまえばよかったんだが、六花が殺すなと言うからな」
「できるだけ、傷つけずに保護したいんだよ。特に蛟みたいな知能の高い妖怪は」
民保協の役割を考えると、六花の言い分も筋が通っている。瑞貴だって、必ずしもあの蛟を殺してほしかったわけではなかった。
「ところで瑞貴、どうやって沼に誘い出されたんだい」
美弦が尋ねる。そこで瑞貴は、翼と稲荷の雪絵に沼まで案内された一部始終を話した。
「それは、翼ではないな。翼は昨夜、この屋敷から出ていない。雪絵さんが一緒だったんだね」
「はい。瀬尾稲荷の提灯を貸してくれました」
それを聞いて、美弦は一つ大きな溜め息をついた。
「雪絵さんはね、狐だよ。瀬尾稲荷の、狐だ」
「えっ⁉」
瑞貴は驚いた。狐、ということは、化けているということだろうか。狐はあんなにうまく人間に化けて、日常生活になじむことができるのか。
「人魔相殺か……」
「よくご存じで」
蒼のつぶやきに美弦が頷く。
「雪絵さんは、人魔相殺、つまりもう狐に戻らない代わりに、永遠に人の姿を得て永らえる契約をした。祀様とね。宝珠とそういう契約をする妖魔も時々いるんだ」
「じゃ、翼ちゃんに化けてたのも……狐?」
「ああ。雪絵さんの娘だろう」
沼のほとりで、雪絵のそばで瑞貴を振り返っていた灰色の狐のことが思い出される。
「しかし、この屋敷には結界があるはずなのに、どうやって入り込んだんだ……。何か、稲荷にまつわるものを拾ったりしたかい?」
問われて、瑞貴は考えた。そして、あっと声をあげ、昨日着ていた服を引き寄せて、ポケットを探る。
「あの、雪絵さんって人に、稲荷の護符を渡されたんです」
そう言って、ポケットから取り出したのは、一枚の木の葉。
「えっ……?」
きょとんとした顔で樫の葉を持つ瑞貴を見て、三人は、ああ、と脱力する。
「まぁ、狐だからね」
美弦が失笑した。
「結界の中に自らの縁の強いものを送り込めば、それに引かれて結界を破ることができる。雪絵さんはそもそもそれが目的で、瑞貴に護符に見せかけた木の葉を渡したんだろう」
瑞貴はとても情けなく、悔しい気持ちになった。狐に化かされるとは、こういうことか。まるで、昔話の登場人物だ。
「しかし、蛟の毒をあんなに浴びて、熱も出さずに済んだのは幸いだった。午前中は少し休むといいよ」
気を失ってしまったのは、蛟の毒気に当てられたせいではなかったのか。その時、瑞貴の腹の虫が鳴いた。蔦子が置いていった軽食が、とても美味しそうだ。
「六花さんたちは、このあとどうするんですか」
「私たちは、昨夜マーキングした妖怪たちを追跡して、データベース登録作業を進めることにするよ」
話し終えると、美弦と六花と蒼の三人は、部屋を出て行った。瑞貴は軽食の載った盆を布団まで運び、つやつやの米が握られたおにぎりを食べ始めた。
※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。