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蛟①

 境内をひと通り見て回った後は、巫女舞の稽古を見学して過ごした。吏が若い巫女たちに舞の指南をしていた。神楽殿に掲示されていた、五月五日に奉納される巫女舞の練習だ。本職の巫女たちの指導が終わってから、吏は瑞貴にも稽古をつけてくれた。吏は巫女になる前は塾の講師をしていたそうで、教え方は上手かった。

「うん。体幹が鍛えられてるから筋は悪くないね」

 と、吏は褒めてくれた。吏が手本で舞ってくれた巫女舞は、見惚れるほど美しかった。

 夕方には拓実と翼が到着し、夕食は大人数になった。食卓には山菜や野菜の天ぷら、独活うどのおひたし、豚肉の味噌漬けなど、旬のものや土地のものがずらりと並んだ。晴海や美弦も離れに戻り、上条家の三世帯が揃ったことになる。蔦子は三人の孫に囲まれてとても嬉しそうだった。晴海と千歳はほとんど言葉を交わさなかったが、翼は千歳と話したがった。瑞貴が以前、翼と会った時にはあまり会話をした記憶は残っていないが、当時は中学生女子と小学生男子だったので、無理もない。久し振りに顔を合わせた翼は、母親に似て気さくで明るく、ショートヘアがボーイッシュな印象だった。大学は理学部で、研究者である千歳に憧れているらしい。

「瑞貴くんは、もう進路決めてるの?」

 と翼に訊かれ、瑞貴は言葉に詰まる。文系よりは理系かな、というくらいで、正直、まだまったく考えていなかった。「まだ高一だもんね」と言われたものの、痛いところを突かれた感じだった。

 賑やかな女性陣のおかげで和やかに夕食を終えた後、千歳は帰っていった。この時間だと自宅に着くのは零時近くなることもあり、翼も加わって引き留めようとしたが、やはり千歳の意志は固かった。

「悠花さんのことで、やっぱりまだこの家のことをゆるせないのね……」

 千歳を見送りながら、吏が淋しそうに呟く。それがどういう意味なのか、瑞貴には分からなかったが。

 離れには、晴海夫婦の部屋と美弦の部屋、吏の部屋の他に客間が二つあったが、拓実と翼は吏の部屋に、瑞貴は客間の一つに泊まることになっていた。午後九時過ぎ、瑞貴は風呂から上がり、千歳が帰って一人になった部屋に戻った。家具のあまりない八畳間に一人だと、かなりだだっ広く感じる。部屋の真ん中に布団が一組、ポツンと敷かれている。瑞貴はそこにごろんと寝転がった。家では、千歳が盛り塩と香で結界を張ってくれたので、ラップ音はだいぶ静まっていたが、それでも遠くに奇妙な音が聞こえたり、窓ガラスに何かが当たったりすることはあった。ここにはさらに強力な結界が張られていると聞いたので、今日は静かな夜を過ごせるかもしれないと瑞貴は期待した。山の上で、スマホの電波も入りづらく、動画を見たりゲームをしたりするのも難しい。美弦から、明日は早起きだと伝えられているし、今日は早く寝てしまおうと瑞貴は決め込んだ。


 真夜中に、瑞貴は目を覚ました。布団をかけていても少し肌寒い。障子の向こうは、広縁ひろえんを隔てて小さな庭に面しており、風が吹いて葉擦はずれの音だけが聞こえる。家の内も外も灯りはなく、暗闇だ。瑞貴は枕元に置いたスマホを手に取る。午前一時過ぎ。布団を掛け直し、もう一度眠ろうと、目を閉じた時だった。

「瑞貴くん、起きて」

 障子の向こうの広縁から名前を呼ぶ声が聞こえた。

「翼だけど、夜中にごめんね」

「翼ちゃん?どうしたの?」

 瑞貴は半身を起こして、布団の中から問うた。障子の向こうにうっすらと、身をかがめた人影が見える。

「ちょうど今夜、ここの上の浄縁沼じょうえんぬまで、すごく珍しい現象が起きてるんだって。それで、兄が瑞貴くんを連れてくるようにって」

「美弦さんが?」

「うん。瑞貴くんの宝珠の力にも、関係があるかもしれないって」

 瑞貴は障子の四つん這いのまま寄っていき、細く障子を開けた。翼は、パーカーとジーンズという恰好でしゃがみ込んでいた。

「早く着替えて。時間が経つと、消えちゃうかもしれないから」

 急かされて、瑞貴は立ち上がった。部屋の電気をつけ、リュックサックからロングTシャツとウインドブレーカーを引っ張り出す。下はジャージを穿いていたので、上だけ着替えて部屋を出た。

「突然起こしてごめんね。暗いから、気をつけて」

 翼は懐中電灯を持っていたが、その光は小さく、街灯のない屋外では心許ない。二人が離れを出て神社のそばの石橋まで来ると、ぼうっと光る灯りに照らされて、女性が立っていた。

「雪絵さん」

「はい。山道は危ないからねぇ。これをどうぞ」

 女性は赤い大きな提灯ちょうちんを二つ携えている。提灯には『瀬尾稲荷』と書かれていた。昼間出会った野良着の女性だ。

「上条の坊ちゃんから話は聞いてます。道に慣れてる私が同行しますよ」

 雪絵は提灯を一つ瑞貴に渡すと、先頭になって歩き始めた。

 獣道のような細い道を登っていく。起き抜けで出てきた瑞貴は、石ころや木の根につまずいて、何度も転びそうになった。

「大丈夫?瑞貴くん」

 翼が振り向いて声をかける。瑞貴はなんとか二人についていこうと、必死に足を動かすが、歩きにくいことこの上ない。坂道の上の方から、何かがコロコロと転がり落ちてきては、瑞貴の足に当たり、絡みつく。闇の中から、無数の目が覗いているような気がした。どこかで、カランと金属が落ちる音がして、それが山肌を転がっていった。昼間、駐車場から神社まで登る時には、こんなに何かが足にまとわりつくことはなかったのに。先導する雪絵はスイスイと登っていくが、瑞貴は必死だった。

 神社を出て十五分ほど歩いただろうか。坂道を登りきり、覆いかぶさるような木の枝をかき分けると、突然視界が開けた。青白い光に照らされて、紺青こんじょうの水を豊かにたたえる沼が、ひっそりとそこにあった。

「ここが浄縁沼だよ」

 水面を照らすのは月の光……かと思ったが、青白い光の球体は、水の上をすーっと移動する。空中には、それと同じ青い火の玉が、いくつか浮かんでいた。

「おやまぁ、鬼火があんなに」

 稲荷の雪絵が嬉しそうに言った。瑞貴は提灯を持ったまま、呆然と鬼火を見つめた。いや、鬼火だけではない。目を凝らすと、沼の周りにひしめくたくさんの異形いぎょうの者たちの姿が見える。全員が、こちらに注目している。瑞貴は背筋がぞわりとするのを感じた。地の底から湧き上がるようなざわめき。桃泉堂を初めて訪れた時の、付喪神たちのざわめきに似た、いや、その何倍ものざわめきが押し寄せる。

 沼から生える草の蔭から、不意に火のついたように泣く赤ん坊の声が聞こえた。これを皮切りに、沼の周り中から一斉に不気味な雄叫びがあがった。独特な節回しで歌を歌うモノ。呪いの言葉を繰り返すモノ。招き寄せるような誘いの言葉をかけるモノ。唸り声。獣や鳥の鳴き声。入り混じった、聞き分けられない音が、沼を振動させるように低くうねった。青白い鬼火は素早く動き回り、分裂して数を増やし、不規則にジグザグと散って沼の上や岸辺を照らす。沼の岸には、無数の妖怪たちが集っていた。老婆や子どもや僧侶のような人型の妖怪。異常に大きかったり小さかったり、角を生やしていたり。大きな鼠やムササビ、猪やサイに似た獣の姿をしたモノもいる。頭上では、鳥たちがバサバサと羽ばたく音も聞こえた。

「翼ちゃん、美弦さんは……」

 と瑞貴が翼の方を振り向くと、その姿は忽然と消えていた。少し離れたところに稲荷の雪絵が佇み、その足元で灰色の狐が心配そうにこちらを眺めている。瑞貴は立ちすくんだ。騙された。これは、おびき寄せられたのか。

 ザバァ、と、沼の中心から水柱が上がった。沼の水が三メートルほども巻き上がり、風が起き、岸辺に生えている草木が大きく揺すられる。振りまかれた水飛沫が、瑞貴の上にも妖怪たちの上にも、等しく降りかかった。

『お前が宝珠か』

 頭上から、雷鳴のような声がとどろいた。沼の中からそそり立つ水柱の中に、鎌首をもたげた巨大な蛇の姿があった。蛇、いや、竜だろうか。頭には小さな角、そして前脚のようなものがある。

 沼に集まった妖怪たちが身を縮める。巨大なその生き物は、赤く光る眼を見開いて、瑞貴を見下ろした。

「まぁ、みずちどの。ええ。こちらが宝珠ですよ」

 稲荷の雪絵が瑞貴に走り寄り、その肩に手をかけて声を張り上げる。蛟と呼ばれた妖怪は、身を低くすると、沼の中から突き出す碧い鱗に覆われた太い尾を振りかぶり、水面に勢いよく叩きつけた。沼の水がほとばしり、蛟の背後の岸辺にいた妖怪たちの一部がぎ倒される。悲鳴や怒号のような声が上がり、逃げ出していく妖怪もいる。

「なにを怒ってるんだい。蛟どのが一目会いたいというから、連れてきたんじゃないか」

 抗議がましく叫ぶ雪絵を、蛟はひと睨みすると、今度は鎌首を大きく振り、口から霧吹きのように水を吹きかけた。雪絵と瑞貴の持っていた提灯が吹き飛ばされ、雪絵はきゃあと金切り声をあげて、地面に倒れ込んだ。

(なんなんだ、これは……)

 瑞貴は混乱した。これは、妖怪同士の仲間割れか。

『ご苦労であったな、雪絵どの。わしは宝珠を喰ろうて天にかえるわ』

 蛟の体は沼を覆いつくすほどに大きくなる。水柱とともに体をうねらせ、天に向かって咆哮ほうこうする化け物を見て、瑞貴は絶望した。誰にも言わずに一人で神社を出てきてしまったし、戦う術も持たない。こんなところで、化け物に喰われて終わるのか。

(何故……僕がこんな目に…っ)

 わにのように大きく口を開けた蛟は、青黒い毒の水煙を吐きながら、一口で丸呑みしようと瑞貴の頭上に迫る。喰われる。その時、防御しようと頭上で両腕を交差させた瑞貴の身体が一瞬、ぼうっと白く発光した。蛟が赤い目を見張り、たじろぐ。ひゅっと、瑞貴の背後から、肩越しを掠めて何かが飛び出し、鈍い音を立てて蛟の左眼に突き刺さった。蛟はのけぞり、再び咆哮する。黒い人影が走り出て沼の岸に立ち、青白く光る小太刀を振り上げた。

(蒼さん……⁉)

「だめだ、蒼、殺すな!」

 聞き覚えのあるハスキーな声が叫び、沼の上に拳大のボールのような球体が投げ上げられる。球は怯んだ蛟の頭上で弾け、まばゆい閃光とともに、きらきらした銀色の粉が火山灰のように振りまかれた。

「瑞貴、無事⁉」

「六花さん、どうして……」

「話は後。ほら、逃げるよ」

 駆け寄ってきた六花が囁く。刀を振るうことを止められた蒼が、先ほど放ったダーツのようなものをもう一本、蛟に打ち込む。今度は喉元に刺さり、蛟は怒り狂った。

『おのれ、小賢しい真似をしおって。もろとも喰ろうてくれるわ』

 蛟の攻撃は止まない。六花は瑞貴の腕を掴み、沼まで登ってきた山道に戻ろうと、沼に背を向けた。小太刀を鞘に納めた蒼もそれに続く。蛟はなおも追いすがり、岸に前脚を掛けて、沼から身を乗り出した。六花は護符を一枚取り出して空中に放り、蒼が三本目のダーツを投げて護符ごと沼の岸辺の地面に射込んだ。

急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう

 蛟がまた毒の水煙を吐きかけたが、六花が呪文を唱えると、護符を射込んだあたりに見えない壁があるかのように水煙が跳ね返された。

 三人は沼を離れようとした。しかし、沼の岸辺に集まっていた妖怪たちがいつの間にか彼らを取り囲み、行く手に立ちはだかった。六花は今度は数珠を取り出し、手に掛ける。

心無罣礙しんむけいげ無罣礙故むけいげこ無有恐怖むうくふ

 念仏を唱えて数珠を振ると、妖怪を一瞬撃退できるものの、すぐにまた集まってくる。

「だめだ、数が多い」

 再び、蒼が刀を抜こうとした時だった。

 ヒューーーッと空をつんざく長く鋭い音がして、一本の矢が天にはしった。山の小道を駆け上がってきた人影が、続けてもう一本、矢をつがえ、弓を引く。鋭い音とともに矢が放たれた。

鏑矢かぶらやか」

 蒼が呟いた。山にこだまする高い音に、妖怪たちは恐れおののき、一目散に逃げ出した。皆、思い思いの方向に、夜闇に紛れて姿を消していく。気づけば、雪絵と灰色の狐の姿もなくなっている。

 蛟も最後に一度、悔しそうに咆哮し、

『覚えておれよ』

 と言い残して沼に沈んでいった。

 岸辺には、動くものは何もなくなり、辺りは急に何事もなかったかのように静まり返る。沼の水面も、鏡のようにさざ波ひとつなくなった。瑞貴は、身体の力が抜けて、その場にへたり込んだ。

「大丈夫?瑞貴」

 六花も一緒にしゃがみ込む。

 弓と矢筒を携えた人物が、がさがさと草を踏みしめる音をさせながら、駆け寄った。

「助けに来るのが遅くなってすまなかった、瑞貴」

「美弦さん……」

 瑞貴の意識は朦朧としていた。ああ。柄掛山で倒れた時も、こんな風に体が重く気怠かったのではなかったか。寒気がした。生きた心地がしなかった。

「瑞貴、ねぇ、瑞貴」

 六花の声が遠く聞こえた。奈落の闇に吸い込まれるように、瑞貴は気を失った。

※カクヨムでも同じ作品を掲載していますが、カクヨムでは章ごと、なろうでは1-2パラグラフごとに更新します。

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