寒月峰神社②
秩父駅は、かなりの人出だった。連休でもあり、東京近郊の観光地としては、手頃で人気なのだろう。駅前には、土産物のショップやフードコートが立ち並び、家族連れやカップル、年配の団体客などが行き交っている。
瑞貴の家は父子家庭だったが、瑞貴の幼少期には、割とまめに千歳が旅行やレジャーに連れて行ってくれた。瑞貴が中学に入ってからは、一緒に出掛けることはだんだん少なくなっていた。今回は久し振りの父親との遠出だな、と、フードコートで談笑している何組かの家族連れを眺めながら、瑞貴は思った。
「千歳叔父さん、瑞貴」
突然、人混みの中、声をかけられ、瑞貴は辺りを見回す。
「やぁ、美弦くん。立派になったね。何年ぶりだか分からないくらいなのに、よくすぐに分かったね」
振り返った千歳が話していたのは、穏やかな笑みを浮かべた青年だった。
「そりゃあ、それだけの霊力を放っていれば、遠くからでもすぐに分かります」
「それもそうか」
それだけの霊力、とは、瑞貴の宝珠の力のことだろうか。爽やかな青年は、瑞貴の方に向き直り、にっこりと笑いかける。年齢は、もう二十代半ばくらいのはずだが、禿のような髪型が似合っている。
「久し振りだね、瑞貴。憶えてるかな」
「美弦さん、お久し振りです」
「すごいね、その宝珠の力。紅を引いてるのに、溢れ出してくるんだね」
ここ最近、瑞貴は六花に言われた通り、化粧の練習をしていた。ファンデーションと口紅で、なんとか中性的な風貌に寄せている。千歳は、韓流アイドルみたいだと言ってくれたが、そこまでうまくはできていない。ただ、魔除けのためにも口紅は赤がいいと六花に勧められたので、化粧をする時は赤い口紅を塗ることにしていた。
「そんなに強いんですか、僕の力」
おずおずと瑞貴が尋ねると、美弦と千歳が顔を見合わせた。なんて吞気なんだ、とでも言いたげに、二人は笑い合っている。なんだか、この二人は似ているな、と瑞貴は思う。物腰が柔らかくて人当たりが良く、そつがないところ。それに、外見も少し似ていた。
「駐車場まで行きましょう。車でご案内します」
美弦はそう言って、先に立って歩き始めた。
寒月峰神社までは、美弦の運転するライトバンで一時間以上かかった。道すがら、美弦は瑞貴と千歳に色々な話をした。寒月峰神社の宮司である祖父と、まだ駆け出しの神主である自分の間に、もう一人神主がいること。宮司様は厳しいが、妻と娘には弱いこと。千歳の姉の吏が巫女になったことで、吏の夫と美弦の妹の翼は神奈川県で離れて暮らしており、この連休は二人も帰省してくるであろうこと。淡々と穏やかに美弦は話し、千歳も淡々と穏やかに相槌を打つ。ライトバンは山道に入り、曲がりくねった道を、小さな集落に出ては、鬱蒼とした木々の間、両脇から茂った草が道路までせり出した道に入ることを何度か繰り返した。そして、舗装されていない細い小道に逸れ、石や小枝がタイヤの下で爆ぜる音を聞きながら走り、少し拓けたスペースに出たところで、美弦は車を停めた。
「ここからは徒歩です」
なるほど、寒月峰神社は人里離れた山奥の神社だと事前に聞いてはいたが、車でここまで登ってきて、さらに歩いて登るとは。
「裏道だな。まぁ、こっちの方が近道だったね。表参道は、少し参拝しやすくなったのかな」
「ええ、あちらは道路も広くなって、参道沿いの店も増えたので、休日には賑わっていますよ」
駐車場、と言えるのかどうか分からない空き地から、人がやっとすれ違えるくらいの道幅の山道に、美弦の先導で分け入っていく。標高が高いせいか、空気はひんやりしていた。木々の間を縫っていく木陰の道はなおさらだ。それでも、五月初旬の木洩れ日は清々しく、爽快な山歩きだった。三十分ほどの行程だったが、途中に一ヶ所、古びた赤い鳥居と小さな祠があっただけで、あとは急峻な山道だった。千歳はだいぶ息が上がっている。普段は運動不足の研究者なので、無理もない。一方の瑞貴は、現役陸上部だけあって、このくらいなら準備運動程度だった。
行く手から川のせせらぎの音が聞こえ、左側に小さな石の橋が見えた。
「これを渡れば神社です」
美弦が声をかけ、一同が橋に差し掛かったところだった。
「あらぁ、上条の坊ちゃん、お客さんなんて、珍しいね」
三人の背後から明るい女の声がした。振り向くと、野良着というのか、短い着物に前掛け姿の女性が、野菜を載せた笊を抱えて立っている。
「こんにちは。雪絵さん」
「ちょうどね、お宅におすそ分けにあがろうと思ってたの」
雪絵と呼ばれた女性は、いそいそと美弦に近づき、じゃがいもや独活や山菜を載せた笊を差し出した。
「これはこれは。ありがとうございます」
白の井桁模様の入った紺色の着物を着た女性は、三十代くらいかとも思うが、もっと年配にも見える。
「ふふ。またうちもご贔屓にしてくださいねぇ」
美弦のクラッチバッグを千歳が代わりに引き受け、愛想のいい笑顔を振りまく雪絵から、美弦が丁寧に笊を受け取った。雪絵に会釈すると、美弦はまた向き直り、先頭に立った。一番後ろを歩いていた瑞貴は、雪絵とすれ違いざま、ちらりとその横顔を見る。すると、雪絵も瑞貴の方を見遣り、にこりと笑った。
「この下の稲荷の者です。坊ちゃんも良かったら、お寄りくださいね」
瑞貴の耳元で小声で囁き、さっと手を取ると紙きれを一枚握らせて、足早に去っていった。瑞貴が手の中を見ると、それは護符のようなもので、凝った文字で『瀬尾稲荷』と書かれている。先ほど通ってきた赤い鳥居の祠のことだろうか。あそこには、人が住めるような建物はなかったように見えたが。そんなことを考えながら、瑞貴は先を歩く美弦と千歳の後を追った。
最初に父子を迎え入れたのは、瑞貴の祖母の蔦子だった。
「まあぁ、遠いところ、よく来たわね。あなたが瑞貴なのね。本当に赤ちゃんの時以来だもの。大きくなって…」
声のボリュームこそそれほど大きくはなかったが、涙ぐんで口元を押さえる様子は、孫息子の来訪を待ちかねていたようだ。
「千歳も、久し振りねぇ。元気にしてたの?男手ひとつで子育てして、大変だったでしょう」
「あら、親不孝息子がやっと帰ってきたのねー」
小柄な蔦子の向こう側、玄関の正面の部屋から巫女姿の女性が顔をのぞかせている。
「母さん、姉さん、ご無沙汰しています」
千歳は深々と頭を下げた。
「とにかく、上がって」
神社の境内にある社務所の奥には、十二畳ほどの座敷があり、瑞貴と千歳はそこに通された。家具の何も置かれていないシンプルな和室で、床の間には花瓶に活けられた苧環の花と掛け軸が飾ってある。
父子は出された座布団に並んで座り、蔦子はお茶の準備をしていた。
「午後には拓実さんと翼も到着するの。今日は賑やかになるわね」
蔦子は嬉しそうだ。千歳の姉の吏もその姿を見て微笑んでいる。拓実というのが、吏の夫だった。
「母さん、申し訳ないけど、僕は夕飯を食べたら東京に帰ります。明日も仕事があるんで」
千歳が遠慮がちに、しかしきっぱりとした口調でそう言った。えっ、と蔦子と吏が同時に千歳の顔を見る。
「ちょっと、千歳。十何年ぶりに帰ってきたっていうのに、仕事、休めなかったの?」
吏が呆れたように大声を出す。千歳は研究で生き物を扱うこともあったし、実験の工程次第では休日に出勤することもしばしばだった。特に今回は、急遽決まった帰省であり、本当に都合がつかなかった可能性も十分あるが、瑞貴は何となく、千歳が実家に長く滞在したくないと思っているような気がしていた。
「そうなの。それは大変ね。残念だわ」
「瑞貴は四日間お世話になりますので、よろしくお願いします」
淋しそうな顔をしている蔦子に、敢えて気づかないふりをして、千歳は言った。
座敷の廊下に面した障子越しに、装束姿の人影が通り、瑞貴と千歳は姿勢を正す。障子が開いて、白衣に紫色の袴を穿いた老人と、浅葱色の袴姿に着替えた美弦が入ってきた。瑞貴は二歳でこの家を出ているので、ほぼ初めて見る祖父の顔だった。身体は小柄だが、眼光鋭く、足音も立てずに機敏に動く姿は威厳に満ちている。
「久し振りだな、千歳、瑞貴」
にこりともせず、二人の前に腰を下ろして、老人が低い声を発した。
「ご無沙汰しています、父さん」
千歳が頭を下げたので、瑞貴も一緒に一礼する。老人は最初に千歳の顔を、次に瑞貴の顔を見据える。視線に射抜かれて、瑞貴は身を固くした。
「さっそくだが、瑞貴。お前には、上条家に代々伝わる宝珠の力が顕現した。その力は神仏から魑魅魍魎まで、あらゆるものに活力を与える。使い方を誤れば、その力に自身が呑まれてしまうほどの強大な力だ。神職の学びのないお前にその力が顕現したのは、どのような神の思し召しかは分からぬが、お前にはこれから力を活かすために精進してもらわねばならん」
朗々と響き渡るような力強い声だった。緊張感のある、ぴりついた空気が座敷に流れた。
「やあねぇ、父さん。久し振りの再会だっていうのに、そんな、しかつめらしい顔して。今生の別れかと思ってた孫に会えたんだから、もう少し喜んだら?」
静寂を破るように、突拍子もなく明るい声で、吏が笑い出した。
「そうですよ。千歳だって、やっと帰ってきてくれたんじゃないですか」
控えめながら諭すように妻にもそう言われ、老人は母娘二人を見遣り、少しばつが悪そうに咳払いをした。
「瑞貴、こちらがあなたのお祖父様で、寒月峰神社の宮司の晴海さんです。こう見えてね、あなたたちの力になりたいと思っているのよ」
優しい口調で蔦子が瑞貴に語りかけた。瑞貴は正座したまま、身を縮こまらせている。これは、どういう雰囲気なのだろう。
「は…はい……」
祖父と祖母を見比べ、反応に困って瑞貴は俯き、ただ頷いた。
「ほら、瑞貴が怖がってるじゃない。いいのよ、瑞貴。そんなに畏まらなくて」
吏が笑う。以前会った時にも、吏は明るくて朗らかな印象だった。瑞貴の隣で、千歳がやれやれ、といった風に茶を啜り、美弦は晴海の隣で黙って微笑んでいた。
「とにかく、瑞貴には四日間、美弦の下で修行をしてもらう」
厳しい表情を崩すことなく、晴海は瑞貴に告げた。神社の修行というのがどういうものなのかまったく分からないので瑞貴は不安だったが、美弦がにこやかに頷いていることが救いだった。
晴海は話し終えると、すっと立ち上がり、座っている美弦の後ろをすり抜けて部屋を出て行く。晴海の袴の紋が、動くたびに銀色に光った。
「まったく、うちの男性陣は本当に素直じゃないんだから」
吏は千歳のことも横目で見ながら呟いた。
「仕方ないわ。また夜にでもゆっくり話しましょう。瑞貴と千歳は離れで昼ご飯よ。部屋も準備してあるから、行きましょう」
先刻のやりとりもさして気にも留めていない風に、蔦子は立ち上がった。
「じゃ、食事が終わったら、瑞貴はこの社務所に戻ってきてもらえるかな。ゆっくりでいいよ」
美弦が声をかける。美弦も吏も蔦子も、晴海の愛想のない様子には慣れっこのようだった。瑞貴と千歳は、蔦子とともに社務所を後にした。
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