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現実世界

夢のつづきはもう見ない

作者: 澪澄にけ


                ◇ ◇ ◇


 「翔太、起きてるのー?ご飯食べる時間なくなるわよ?」

 部屋の外から母親の声がして、慌てて跳ね起きて目覚まし時計を見た。

 「…?なんだよ、まだ早いじゃん」

 時計の針はいつも起きる時間より三十分も前を指している。今日とくに早起きしなければいけない理由もなかった。母親は何か勘違いしているのだろうか。

 ほっとしてもう一度ベッドに寝転がる。本当に起きなければいけない時間までうつらうつらしていよう。ふだん早く目が覚めることなどめったにないから、こういうオマケっぽい時間はものすごく気持ちがいい。心地よすぎて本格的に二度寝して、逆に寝過ごすことになったらヤバイけど…

 「しょ・う・た!」

 耳もとで怒鳴る声が聞こえて、ふたたび飛び起きる。母親は今度は部屋の中まで入ってきていた。道理で声がでかいはずだ。

 まずい、やっぱり二度寝に突入した。今なん時だろう?

 おそるおそる時計を見ると、さっき見た時刻からまるで変化していない。一瞬意味がわからなかったけど、理解したとたんに顔から血の気がひくのが自分でもわかった。

 「嘘だろーっ、なんで止まってんだよーっ」

 もちろん最初に起こされた時点で、起きなければいけない時刻だったに違いない。起床時刻の三十分前で止まるなんてまぎらわし過ぎる。止まるなら止まるで昨夜とか、もっと早いうちに止まってほしかった。でなきゃ最後のベルを鳴らすまでがんばって、義務を果たしてから力尽きるとか。小学生の時から愛用しているのにこんな裏切りに遭うとは、今後はスマホを頼るべきだろうか。

 壁にかけてあるほうの時計を見たら、洗顔と朝食をあきらめて着替えだけして飛び出せば、ギリギリ間に合うかもしれない時間だった。母親が首をふりながら出ていくのを確かめる間もなく、左手でスウェットを脱ぎ散らかし、同時に右手で制服をひっつかんだ。

 学校には結局、ギリギリで…間に合わなかった。

 「目覚まし時計が止まってて」と正直に言ったのに、先生は「そんなベタな言い訳、実際に使った奴はおまえが初めてだ」と笑った。

 その日の夜にスマホのアラームをセットして、一応時計の電池も入れ替えると、学校で渉に借りた小説に手を伸ばす。本好きの渉は自分が気に入ったものをいろいろ貸してくれるけれど、正直言って字ばっかりの本は苦手だ。なるべくわかりやすくて派手なストーリーだといいんだけれど。

 ベッドに横になって読み始めたものの、結局内容が派手なのか地味なのかもわからないうちに眠ってしまった。


                ◆ ◆ ◆


 「翔太、起きてるのー?ご飯食べる時間なくなるわよ?」

 母親の声に反射的に起き上がって、それからなんだかおかしな気分になった。

 ぼんやりした頭でなにが妙なのか考えながら、習慣で目覚まし時計に目を向ける。

 「…え?」

 設定した時刻の、三十分前。

 無意識に壁掛け時計のほうを見た。起床時刻になっている。

 ついさっきまで見ていた夢が、一気に頭の中によみがえった。

 今の母親のセリフ、三十分前で止まった時計。まるっきり夢とおんなじだ。

 不思議な気分だった。夢は(覚えているかぎりは)朝起きるところから始まって、夜眠るところで終わっていた。ちゃんと学校にも行ったし、渉に本を借りたり時計の電池を替えたり、やけにリアルだ。夢というのはたいてい奇天烈な設定だったり、辻褄の合わない展開になったりするものなのに、現実の生活とまったく変わったところがない。

 しかも現実で起こることが先に起こっている。時計が止まっていることに気づかなければ、実際に二度寝して遅刻するところまで実現したに違いない。夢のおかげでこうして、ちゃんと洗顔も朝食も済ませて登校できそうだけれど。

 そこまで考えたところでとりあえず、顔を洗うために部屋を出た。夢に気を取られてぼんやりしていたら、母親が部屋まで入ってきて怒鳴るのは確実だったからだ。


 「これ読んでみろよ、翔太」

 昼休みに渉が差し出した本を見て、とっさに言葉をかえすことができなかった。

 無事遅刻もせず先生に笑われることもなく登校したのはいいけれど、授業中もずっと妙な感じにつきまとわれていた。昨日の夢でも時間割どおりの授業を受けていた気がするのだ。ただ、内容も同じかどうかはさすがに覚えていない(夢でも現実でも、あまり真面目に聞いていない点では同じだ)。

 そのうえ渉までが、夢のとおりに本を渡そうとしている。

 「昨日読み終わったんだけどさ、すっげー面白いんだこれが。テンポも早いしおまえもきっと気に…どうした?」

 話の途中で渉が怪訝な顔をしたので、とりあえず目の前の本を受け取って答える。

 「いやー実は、夢でもおまえに本借りたんだよね」

 「…あぁ?」渉が大丈夫かコイツ、という表情になったので、昨日見た夢と今朝からの出来事を説明した。話し終わると最後にあえて軽く付け加えてみる。「すげーだろ、予知夢ってやつ?日野原翔太、突如才能が開花して予知能力者デビュー?って感じで」

 「…とは限らないだろ」黙って聞いていた渉が冷静に分析しはじめた。

 「時計の電池がそろそろ切れそうだってことを、無意識にわかってて脳が警告したのかもしれない。おばさんが言いそうなセリフだって息子のおまえなら想像つくし、俺が本を貸すのだってしょっちゅうなんだからたまたま夢に出てきてもおかしくない」

 「じゃ授業が同じなのはどうなんだ?おまえの本も…こんなタイトルだった気がするんだけど」

 「そのへんは実際夢に出てきたわけじゃなくて、起きてから脳内補完して夢でもこうだったと思いこんでるとかな」

 「…おまえ文字通り、夢のないヤツだな」

 そうは言ったものの、渉に話した後はなんとなく気が楽になった。結局はただの夢の話なのだ。

 そう吹っ切れたせいか夜にはほとんど夢のことも考えなかった。渉に借りた本を少し読んでみたら意外と面白かったので、寝るまでに半分近くまで読んでしまった。


                ◇ ◇ ◇


 「…なんだ、これ?」

 目が覚めてからもしばらく起き上がれなかった。時計が止まって母親に起こされ渉が本を寄越す。朝起きて夜眠るまで。繰り返す一日。

 なんだかタイムスリップして同じ日を二度送ったみたいだった。

 それにしても面白くない。夢の中では遅刻せずに済んだなんて。

 それからもうひとつ、いちばん気に入らないのは現実であるこちらのほうが夢の中では夢にされていることだ(まったくややこしいな)。予知夢とか勝手なことを言っていた気がするけれど、現実に起きて印象に残っていたことがその晩夢に出てくるだけのことなのに。

 そう、遅刻しなかったのもつまりそういうことだ。二度寝して遅刻したのが失敗だったから、夢では“修正ヴァージョン”になったんだ。

 気を取り直して登校し、たまたま自習になった時間に渉に借りた本の続きを読んだ。

 別に、夢で面白いって言ってたからじゃないけど。自分にわけのわからない言い訳をしながら読んでみると、その小説は本当に面白かった。夢で読んだストーリーと同じような気もしたけれど、それは夢で言ってた脳内補完、ということかもしれない。結局ほかの授業のあいだもこっそり読み進めてしまった。

 昼休みにいつもどおり渉の席に移動すると、昼食のパンをかじりながらそのことを伝えた。「今まで借りた中でいちばん面白いよ。今日中に読み終わっちゃいそうな勢い」

 「珍しいじゃん、おまえがそこまで言うなんて。薦めた甲斐があったってもんだな」

 嬉しそうに渉は答えて、その後は二人で小説の内容をネタに盛り上がった。もっともまだ最後まで読んでいないから、渉が口を滑らせそうになるたび「はいネタバレ禁止ー!」と急いで止めなければならなかったけれど。

 登場人物の名前を出してああだこうだと言い合っていると、突然「それってあの小説の話?」とタイトルを控えめに告げる声がした。

 クラスメートの川村理華だ。たまたま机の横を通ろうとして、話が耳に入ったらしい。

 「そうそう、それ。川村も読んだ?」渉が気軽に返事をしながら、こっちに目くばせを送ってきた。チャンスじゃん、と言っているのだ。

 言われなくてもわかっている。「今こいつに借りて読んでんだけど、面白いよなー」と調子を合わせてそのまま話に引っ張りこむ。理華が別の席の女子に「リカぁ、何してんのー?」と呼ばれて行ってしまうまで、三人で楽しく話すことができた。

 「ますます張り切って読む気になっただろうねぇ、翔太クン」渉がにやにや笑って言う。

 「川村だって、彼氏にするなら趣味が合う相手がいいに決まってるし」

 それこそ言われるまでもない。川村が読んでいて、しかも気に入っている小説であれば午後の授業も全部捨てて続きを読みたいくらいだ。


                ◆ ◆ ◆


 「どうなってんだ?」

 目を開けてすぐ、思わずそんな呟きが漏れた。

 またもや夢の中で一日を過ごしてしまった。思わずスマホの画面で日付をあらためてしまう。本当に一日経ってるんじゃないかと馬鹿らしいことを考えたからだ。

 それにしても変なことになった。二日続けてというのも充分おかしいけれど、夢の中の自分は自分のほうこそが現実だと思っていて、こちら側が遅刻しなかったことに怒っていたりした。

 でもそれを言うなら、こっちにだって言いたいことはある。川村理華が絡んでくるなんてずるいじゃないか。ずっと気になっているのにうまく話しかける機会がなくて、同じクラスでもほとんど言葉を交わしたこともないというのに。

 まぁそれも渉に言わせれば『願望のなせるワザ』とかなんとかいうことになるんだろう。どんなことにだってそれらしい理屈をつけて、スパっと結論を出してしまうヤツだから。

 本当にそう分析するかどうか、渉に話して確かめてみたい気もしたけれど、とりあえず本の続きを読んでしまうことにした。夢の真似をするみたいに自習時間(夢のとおり自習になったのも、願望だったんだろうか?)とその後の授業で隠れて読んだら、もともと残り半分だったことと面白いので全部読み終えることができた。昼休みに渉の席へ移動するとき、返すつもりでパンの袋と一緒に本を手に持つ。

 ふと視線を感じて顔を横に向けると、川村理華が本の表紙を見つめていた。

 「これ、読んだ?」ろくに話したこともないのに自然に声をかけられたのは、自分でも上出来だったと思う。夢でリハーサルできた成果ということにしておこう。

 「うん、すごく面白いよね」

 理華も笑顔で答える。そのまま立ち話になった。最後まで読み終えているのでネタバレも関係なく盛り上がれるのが嬉しい。

 「これ以外で川村のお薦め本ってある?」ときどき席で文庫本を開いているのを見たことがあったので、話を広げたくてそんなことも聞いてみた。

 「えーと、そうだなあ。男の子でも楽しめそうなのは…」

 理華は少し考えて、二、三の作家名をあげた。頭の中に必死でメモを取る。

 「そっか、今度読んでみるよ」礼を言って渉の席に向かう。もっと話していたかったけれど、理華もお弁当を持って仲のいい女子グループのもとに行く途中だったのだ。

 渉は夢の中と同じようににやりと笑った。先に食事を始めながら、様子をうかがっていたらしい。「その本を貸した恩人は誰だったっけ?」

 「感謝してる。今すぐ書くものも貸してくれたらさらに感謝する」渉の机からノートとペンを強引に奪うと、さっき聞いたばかりの作家名を忘れないうちに書きこんだ。

 「ふーん」渉がカタカナで殴り書きされた名前を目で追う。「このへんなら俺も得意分野だな。貸してやろうか?」

 「やった、じゃ帰りにおまえん家寄ってく」

 今日いきなりかよ、と渉は驚いてるけど、もともと小説に慣れてない身には一冊読み通したこの勢いを保つのが大事だ。あまり間が空くと、理華に感想を伝えるにも話しかけにくくなりそうだし。


                ◇ ◇ ◇


 「そうはいくか」

 夢の自分が渉に借りた本を必死で読み、眠気に負けて目を閉じた…瞬間、目が覚めた。

 急いで机の上のノートを開いて、余白にたった今夢で見た作家の名前を書き写す。

 リハーサルだって?冗談じゃない。

 夢の自分に利用されている気がした。理華と話をしたのは自分のほうが先だ。それなのに今回もうまいこと“修正”されて、渉を介さずふたりだけで会話に成功している。しかも抜かりなく次に話しかける口実まで作ったのだ。

 渉はもう起きているだろう。スマホで渉あてのメッセージを打ち込んだ。書き写した作家名をカタカナのまま記して『この作家の本を持ってたら今日学校に持ってきてくれ』と頼む。間違いなく持っているだろう、という確信めいたものがあった。

 昨日借りた本は学校では読み終わらなかったけれど、帰ってきてから家で続きを読んで読み切った。今日は新しい本に取りかかることができるのだ。いつまでも夢にリードを許すわけにはいかない。

 そこまで考えたところで、なんとなく苦笑いが浮かんだ。なんでこんなにムキになってるんだろう?夢で起こったことが現実に重なっている、このこと自体にはもう驚かなくなっていた。渉もなんだかややこしい理屈を考えてくれたし、夢がオリジナルよりレベルアップするのも仕方ない、願望ってやつなんだから…

 願望?それは夢の中の自分が考えたことじゃなかっただろうか。理屈を組み立てていたのは夢の中の渉だったか?

 こんな風に勘違いをしていると、そのうち自分のほうが夢になってしまうんじゃないか、となんの脈絡もなく思って、ちょっと寒気がしたのだが。


 「あ、その作家あたしも好きだよ。偶然だねー」

 と理華が笑いかけてくれた瞬間、朝に感じたそんな不安はどこかへ吹き飛んでしまった。

 放課後になんとか話しかけることができて、昨日の小説の話の続きをしながらさりげなく「今読んでるのはこれ」と今朝渉に持って来させた(文句を言いながらもきちんと持って来てくれた。しかも今は気を利かせて先に帰ってくれている。本当に今度なんか奢らなきゃなぁ)本を出してみせると、理華はなかば予想どおりの反応をしてくれた。授業中に必死で読み進めたのが報われた気がする。

 「最近渉の影響で、こういうのにハマッちゃってるんだよね」なんて言いながら残りの作家の名前を出してみたり、理華が当然その話に乗ってくれたりで、夢のような時間が過ぎた。

 あ、このたとえは良くないな。夢みたいだけど、こっちは断固夢じゃないんだから。

 そんな話の途中でふと時計を見た理華は、すまなそうな顔になった。「あ、ごめん日野原くん。あたし図書室に行かなきゃ…返却期限、今日までなんだ」

 理華がカバンから本を取り出した。背表紙の下のほうに図書室のシールが貼ってある。

 「へえ…」残念に思いながら、とりあえずわかりもしないのに興味があるふりをしてその本をめくって見た。裏表紙の内側に貸し出しカードの入ったポケットがついている。今までにこの本を借りた生徒のだろう、カタカナでなん人かの名前が並んでいた。

 「カワムラ…ミチカ?」

 最後に書いてある名前を見て思わず声が出る。「これって川村だよね?川村って下の名前、リカじゃなかったっけ?」

 「理華って書いてミチカって読むの。友達はリカのほうが呼びやすいからってそう呼んでるけど」

 全然知らなかった。漢字をそのまま読んでいたのと、女子連中のリカという呼び方に騙されていたのだ。考えてみたら先生も名字でしか呼ばないし、名簿やなにかにわざわざ振り仮名をふることもない。

 またひとつ、理華のことがわかった…なんて言ってる場合じゃない。好きな子の名前を覚え間違えてたなんて痛恨のミスだし、よりによってそれを本人に教えられたんだから…。


                ◆ ◆ ◆


 「ちょっと待てーっ」

 朝から面白くない気分だった。放課後の教室でツーショット?抜け駆けもいいところだ。

 抜け駆け?自分が、自分を?

 落ち着けよ。渉ならそう言うだろう。おまえ自身の願望なんだからさ。

 ふつう好きな子と仲良くなる夢を見たら、ラッキーだと思うはずだった。夢の中の自分は自分の分身なんだから。それなのにあいつは(自分のことなのにあいつ、だって)夢のくせして“オリジナル”なんて主張していた。どこまで図々しいんだろう。

 …本当にあっちがオリジナルで、こっちが夢だったりして。

 唐突にそんなことを思った。お互い相手が眠ると目を覚まし、一日過ごして夜眠るとまた交代だ。まったく対等、どっちが現実でも(夢でも)おかしくないのだから。

 こういう話があったような気がする。蝶の夢を見た自分は実は、人間になった夢を見ている蝶なんじゃないか、とか…

 今回のケースでは、どっちに転んでも自分なんだけど。


 「毎日ってのはなかなか不思議だな」

 渉に再び夢の話をすると、前回と違って素直に驚いた。

 「だろ?微妙に現実とずれてるから混乱するし、眠っても夢で一日活動してるから、なんか疲れが取れない気がするんだよな。もしかして俺、人の倍の速さで老けたりして」

 「でも夢ってのは長いこと見てるようでいて、目覚める直前にパッと見るもんらしいよ」

 渉はフォローになってるのかなってないのかよくわからないことを言って、それから例のにやにや笑いを浮かべた。「つまり夢でも毎日、カワムラリカに会えてるわけだ」

 「ミチカだよ」

 「…?」

 「カワムラミチカって読むんだ。夢で教わった」マジ?と言いながら渉は理華にわざわざ確かめに行ってしまう。恥ずかしいからやめてほしい。

 「本当だ、ずっとリカだと思ってた」感心して戻ってきた渉はなぜか理華を連れてきていた。「こいつはちゃんと読めてたんだよ」

 「そうなの?正しく読んでもらったこと、ほとんどないんだけど」理華も感心しているみたいだったけれど、内心不気味に思ったりしてないだろうかと不安になる。「たまたまだよ。なんとなくそうかなって……あ、もしかしたらなんかで振り仮名がついてるのを見たとか、ちゃんと呼ばれてるのを聞いたとか、無意識にそれを覚えてたのかも」

 逆に怪しいだろうというくらいにしどろもどろの釈明をしながら、実際そういうことなんだろうと自分で納得していた。正しい読みを前に知って、忘れていたつもりで夢に出てきた。そうに違いない。

 理華が席に帰っていくと、渉はひとりでうなずいた。「これでおまえのことがまた印象に残っただろうな」

 「…印象づけたっていうより、引かれたんじゃないかって気がする」

 「マイナス思考はやめとけ。これまでろくに喋ったこともなかったんだから、どんなことでも意識するきっかけになるのはいいことだろ」

 人のことだと思っていい加減なことを言っているけれど、だいいちなぜ会話に理華の名前、しかもフルネームが出ていたのか、それを追求されたらどうするつもりだったんだろう。悪いイメージ持たれてなきゃいいけど。

 とにかく、今日の放課後は図書室に行ってみよう。教室に引き止めるより図書室で偶然会ったほうが運命的で(ストーカー的でもあるが)自然な感じになる。先回りして理華が本を返しに来るのを待って、そのまま一緒に帰る流れを作れたら…

 こういう計算、やっぱりストーカーのほうに近いかもしれない。


                ◇ ◇ ◇


 「なんだとぉ?」

 がば、とベッドから跳ね起きる。

 あいつはまんまと図書室で理華と合流し、駅まで一緒に帰ったことを思い返しながら眠りについていた。しかも自分のほうが夢では、と一瞬正解に気付きそうになったくせに、すぐにそんなことを忘れて現実で得た知識を抜かりなく利用している。

 踏み台にするのもいい加減にしろ、と怒鳴りつけてやりたかった。夢はおまえのほうだ、と。

 夢は…あいつのほう、だよな?

 怒りがすっと引いて、なぜだか急に頭の中に風が吹いたみたいな感覚が襲ってきた。

 どちらの自分も、自分のほうこそが確かに現実に存在していると信じているのだ。

 馬鹿なことを考えるのはやめよう。あいつは対等とか言ってたけれど、本物と、本物が夢で見ているだけの分身が対等なわけがない。手の甲をつねるという、マンガみたいなことをして痛みを確認してみる。そうだ、こちらが現実だ。夢なんかに負けられない。張り合ってみせる…

 たかが夢に張り合ったりすること自体、馬鹿みたいな気がするにしても。


 「なるほど、夢の中の翔太には夢の中の俺がブレーンについてる、と。現実と同じじゃん」

 「誰がブレーンだ」

 渉には全部話してあるように思い違いをしていたけど、考えてみたら相談したのは夢の中のほうだった。最初は「他人の夢の話なんて聞きたくねーよ」とか言ってたくせに、説明が終わるころにはずいぶん面白がっている。

 「あっちの俺も冷静にものごとが判断できるみたいだな。おまえも深層心理ではクールな俺にリスペクトしてるってことか」

 全然冷静に判断できてないじゃないか、と思ったけど、脱線させたくなかったのでスルーして話を続ける。「渉だけじゃなくて、自分の冷静さにもびっくりしてるよ。現実に起こってることをいろいろ理屈づけて、願望だとか忘れてた記憶とかで納得してるんだからな」

 「確かに」渉は少し笑った。「でもそれは逆に見ても同じことだ。俺も夢の俺の見解に賛成だし、翔太ダッシュの言い分は立場を変えればこちらのおまえの疑問の答えになる」

 「ちょっと待て、ダッシュってなんだ?」

 「夢のほうのおまえだよ。ややこしいから今そう決めた」

 「ふーん。で、そのダッシュの言い分がなんだって?」

 「願望のあらわれ、とか言ってたんだろ?だったら現実より少しずついい展開になってるダッシュのほうが願望のあらわれってことになるじゃないか」

 「ああ、そうか…そうだよな」妙にうれしくなった。「やっぱりリアル渉は違うな、うん」

 「ま、せいぜいこっちで努力することだな」急に機嫌が良くなったな、と苦笑いしながら渉が付け加えた。「夢で願望を叶える必要がないくらい現実が充実すればいいんだ。川村とつきあうとか」


                ◆ ◆ ◆


 「ふざけるな!」

 今まででいちばん不愉快な気分で目覚めた。

 あいつはすっかりその気になって、告白の段取りをあれこれ考えながら眠りに落ちていた。こっちは最近ずっと、怒りながら目覚めるなんて気分の悪いことになってるというのに。

 いや、それはあいつもそうなのか?今もこちらを夢だと思って、眠りの中でこの状況を眺めて…待て、それじゃあっちが生身だと認めるようなもんだ。あいつは存在していない、こちらが覚醒している間はどこにも存在していないんだ。

 「いいか、ダッシュはおまえのほうだからな」思わず呟いたのは、それでもあいつが聞いているような気がして仕方なかったからだった。


 「向こうの渉がよけいなこと言ったせいで、夢のくせに調子づいてんだよ、どうしてくれる」

 「無茶言うな」あっさりかわされる。こっちだって言いがかりなのはわかっているけれど。

 登校して渉の顔を見た瞬間、思わず八つ当りしてしまった。ダッシュ、と呼ばれるのはものすごく屈辱的で、そう名付けたあちらの渉が憎らしくてたまらなかったのだ。

 あらためて詳しく説明すると、渉はこれまでより真剣な表情になった。「なあ、一度カウンセリングでも受けてみたらどうだ?」

 「な、なんだよ急に。別におかしくなったわけじゃないのに」真面目に取られるとかえってあわててしまう。でも渉にしてみれば、毎日続き物の夢を見ることより、その夢に振り回されていることが心配なんだろうと思う。おかしくなったわけじゃない、どころか充分おかしい。「大丈夫だよ。変なこと言ってごめん」

 「ならいいけどさ…複雑だよな、ライバルが自分自身なんて」頭が冷えたことがわかったのか、渉はわざと軽いノリで答える。「自分との闘い、なんて本当にしてるヤツあんまりいないよ」

 闘い。そうだ、これはどちらが現実なのかをめぐる闘いだった。ここにこうしている自分が、渉が、理華が夢の中の駒のような存在だなんて、認めるわけにはいかない。

 「…よし、自分に克つ!現実を勝ち取ってみせるぞ!」

 言葉にしたらとんでもなく恥ずかしいセリフだった。渉は聞こえなかったふりをした。

 放課後になって理華とまた本の話をしていると、うまい具合に教室からひと気がなくなった。

 (先手を取るチャンスだ)とっさに頭の中に、そんな考えが浮かぶ。朝の決心が鈍らないうちに、向こうの自分への怒りで勢いがついているうちに。

 「あ、あのさ、川村。もしよかったら…俺とつきあってくれないかな?」

 どもりつつも、一気にそこまで言った。途中で息をつぐだけでも、続きを言えなくなるような気がしたからだ。

 理華は目を見開いた。冗談ではないことがわかると、頬を染めてうつむく。

 頭に血が上っているような、逆に血の気がひいていくような、パニック寸前の気分だった。

 (負けられないんだ。頼む、頼む、頼むから……)

 実際にはたいして長い時間でもなかったはずなのに、心の中で百回くらい祈りの言葉を呟いていたような、沈黙ののち。

 「…よろしく、お願いします」

 消え入りそうな声で、川村が答えた。


                ◇ ◇ ◇


 「そんな……」

 天井を見上げながら、呆然とつぶやく。

 ダッシュが、ダッシュのくせに、現実を出し抜いていった。告白を決めたのはこちらが先のはずなのに、それを知ってあわててフライングしただけに思えるのに、成功するなんて。

 (「ダッシュはおまえのほうだからな」)

 あいつが初めてはっきりと、こちらに向けて放った言葉。

 そんなはずがない。ダッシュはあいつなのだ。取って代わられるわけにはいかない。そう、告白することをずっと考えながら眠ったから、夢でシミュレーションしただけのことだ。成功したんだから幸先がいい、きっと正夢なんだ。

 無理矢理自分に言い聞かせ、ベッドから立ち上がった。


 「川村、ちょっといい?」

 話が聞こえる範囲に誰もいないことを確かめて、そっと声をかける。

 あいつみたいに渉に当たることはしなかった。とにかく理華と話ができるきっかけを見つけるのが先決だったのだ。我ながらむやみと焦っていた。

 「あ、日野原くん、おはよう。なに?」何も知らない理華は振り向いてにっこり笑った。

 この理華を、夢の中の存在にするわけにはいかない。

 「いきなりなんだけど…前から好きだったんだ。俺とつきあってくれないかな?」

 夢より堂々と言うことができた、と思った。夢で一度成功するパターンを見ているから、自信がついたせいなのかもしれない。そう考えればあの夢だって役に立っているともいえる。やはりあれはイメージトレーニングにすぎなかったんだ…

 そして夢のとおりに驚いて顔を赤くした川村は、やがてこう答えた。

 「…ごめんね。あたし、好きな人がいるんだ」


 授業に出る気力もなく、屋上のすみに座り込んだ。

 どうしてなんだ。あいつはうまくいったのに(それこそイメージトレーニングにすぎなかったってのか?)なにもかも、こちらのほうが先行してたはずなのに。

 こちらがシミュレーションだったとでもいうんだろうか。

 今までのように、確かに自分のほうが現実だと言い張ることもできなくなっていた。馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、理華の「好きな人」というのが向こうの自分のような気さえしている。

 「負けたのか…」

 唐突に悟った。

 今でも自分のほうが現実だったのだと信じている。それでも、現実には失敗しているくせに夢の中でだけ思いどおりになるほど悲しいことはない。

 うまく行ったのは現実でなくてはならない。

 自分の人生ならそうであったほうがいいに決まっている。

 それならば現実なのは夢…あちら側、なのだ。

 おかしな考え方なのはわかっていた。ふられたことを認められず、願望は願望でも逃避願望になってしまっただけなのかもしれない。

 そうだとしても、もうわかってしまったのだ。これまでのことがなんだったのか。

 あいつは「現実を勝ち取る」と言った。あいつは知っていた。これはどちらが現実かを証明する争いではなく、どちらが現実になるかの闘いだったのだ。

 だとしたら自分はたった今敗北した。

 そしてそれを認めた今の自分は…

 「夢だ」

 そう口にした瞬間、自分がぺらぺらの紙人形になってしまったような感覚に襲われた。そのまま屋上からひらりと舞い上がり、どこかへ吹き飛んで行ってしまうような。まるで本当の自分が目覚めたとたんに、かき消えてしまう影のような


                ◆ ◆ ◆


 ゆっくりと目を開き、そのすがすがしい目覚めに思わず微笑んだ。

 大きく伸びをして、息を吐きだす。こんなに爽快な気分はひさしぶりだ。自分の部屋が、見下ろす自分の手のひらが、世界が、こんなにもクリアーに目に映ったことがあるだろうか。

 「勝った」確かめるように、口に出して言ってみる。

 「これが、現実だ」


 駅で理華と落ち合い、ふたりで学校に向かった。

 「なんか機嫌いいね、どうしたの?」理華が首をかしげる。

 「楽しい夢を見たんだ」

 夢?と不思議そうに、それでも笑った理華を見て、しまった、ここは「最高の彼女ができたから」とか言うところだったか、と思った。

 そんなことをゆったりと考えることができるのが、とてつもなく嬉しかった。


 もとの自分が果たしてどちらだったのかはわからないし、もはや考える必要もない。わかっていることはひとつだけで、そしてそれだけで充分だった。


 ──これからはきっと、夢を見ずにぐっすりと眠れるだろう。

読んでいただき、どうもありがとうございました!

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