第2話「社畜と聖女と、悪役令嬢の婚約破棄フラグは正ヒロインに託します」 エピソード⑥
王立学院・寄宿舎
ルナリアの部屋(朝)
──翌朝。
──朝の始まりは、光と香りと静けさから。
絹のカーテン越しに差し込む朝陽が、レースの縁をゆるやかに染めている。
空気には、昨夜の名残――レモンパームとカモミールのかすかな余香。
ふかふかの羽毛布団の中、頬を撫でるリネンは冷たくもなく、ぬくもりを残して心地よい。
(……ああ、いつもの――完璧な朝)
寄宿舎の静けさに包まれて、ゆっくりとまぶたが開く。
窓の向こうには、透き通るような青空と、風にゆらめく白いカーテン。
香り、光、温もり――少し土の香り……?
公爵令嬢ルナリア・アーデルハイトの一日は、いつも“美しい目覚め”から始まる――
はずだった。
(ん……ぅ……朝……?)
ベッドに寝そべったまま、窓の向こうの雲一つない青空を眺め――
優雅に伸びをする。
「……ふぁ……なんか……昨日は変な夢を見たような……」
まどろみの中、どこか違和感が胸をよぎる。
(……ん?)
(……なんで、朝なの?)
(朝……でいいのでしたっけ?)
ぼんやりした頭で考える。
たしか、少し休むつもりで――
レモンバームとカモミールをたっぷり、パッションフラワーをほんの少し加えたハーブティーを頂き……
それから――“ふて寝”を決め込んで、ベッドに潜り込んで――
(…………夜会!!)
バッ!!と跳ね起きた拍子に、長い金髪がふわりと宙に舞い、透き通る紫の瞳が驚きに見開かれた。
その瞬間、視界に飛び込んできたのは――
ドレスは見るも無残にレースがちぎれ、裾には乾いた泥がみっしり。
上体を起こし、両手を広げたポーズのまま固まる。
そして、ルナリアの長い睫毛が震え、凛とした眉がわずかに跳ね上がり――瞳はまんまるに見開かれた。
見れば、泥だけではない。
小枝、草の破片、花粉のようなもの、さらには猫の毛まで付いている。
まるでどこかの森を全力疾走したあと、畑に転げ落ち、最後に神殿の花壇にダイブしたような――
そんな有様だった。
「…………っ!!」
それに――体が重い、とにかく重い。
礼儀作法の講義を丸一日立ちっぱなしで受けた後―
舞踏会のダンスパートナーを一晩中務めさせられ――
翌朝まで詩の朗読会に付き合わされたかのような―――疲労感。
(……な、なんでぇえええええっ!!?)
ルナリアの叫び声が心の中でこだました――。
けれど、実際の口元はきゅっと引き結ばれていた。
(……だめ、叫ぶなんて品のない真似。わたくしは……アーデルハイト家の令嬢なのですから)
喉の奥まで込み上げた悲鳴を、ぎりぎりの理性で押しとどめる。
深呼吸ひとつ。
視線を落とし、泥にまみれた裾を見つめる。
ほんの少し、肩が震えた。
「……まずは、朝のブレンドティーですわね」
それは、崩れかけた世界を支える最後の一本柱のように――。
静かに立ち上がると、足元の泥の感触にも動じることなく、ティーセットのもとへと歩を進めた。
お湯を沸かし、ポットを温め、慎重にラベンダーを多めにしたブレンドを用意する。
いつもの朝より、少しだけ時間をかけて。
ティーカップに湯気が立ちのぼるころ。
「心を整えるには、順序が必要ですわ」
濁った現実を、一杯の香りで押し返す。
泥だらけのドレスも、乱れた髪も、今はただの背景。
ティーカップを口元に運ぶ仕草だけが、何よりも彼女の誇りを物語っていた。
そして、その背後で、ラベンダーの香りがほんのりと揺れた。
まるで、ひとときの静寂を守る最後の砦のように。
……そう。それがアーデルハイト家の令嬢としての、矜持。
たとえどれほど泥にまみれようとも、心まで汚れることはない――その証。
そのとき――
『ん~……おはようございま~す……ふぁぁ……♪』
突如、脳内に響き渡る、能天気極まりない声。
「…………」
一瞬、顔が引きつるが、ルナリアはそっとティーカップを持ったままベッドに腰掛けた。
ドレスからひらりと、枯れ葉が落ちる。
(……うそでしょ……?)
『うそじゃないですよ~♪ お目覚めですね、ルナリアさん!』
(やっぱり夢じゃなかったぁああああああ!!)
ルナリアは、心の中でベッドに大の字になって、天を仰いだ。
実際には、静かに紅茶の香りを楽しみながら、そっと目を伏せる。
優雅な朝のティータイムと並行して、まひるとの脳内会話は続く。
『っていうかルナリアさん、朝から何ステップ踏んでるんですか!?
社畜的には、“目覚めた瞬間、猛ダッシュ”がデフォですよぉ……?』
(……朝の静けさを愛でる習慣が無いなんて……一日が台無しですわ)
(ん? それより――どんな悪夢よ、これぇえええ!!)
『えへへ……ちょっとびっくりでしたかぁ? でも、みんな笑顔でしたよ~?』
(何を勝手に“昨日の仕事やりきりました感”出してますの!?
わたくし寝てたのだけど!?)
『うぅ……そんなに怒らないでくださいよぉ~。わたし、がんばったんですもん~』
ルナリアは心の中で叫びながらベッドから飛び起きた。
実際には、微笑みを湛えたまま、ティーカップを一口含み、ゆっくりと味わいを楽しんだ。
(それに……なんなのよこれぇえええええっ!!?)
心の中で仁王立ちになり、口をぱくぱくさせながら、惨憺たるドレスを指さすルナリア。
実際には、ティーカップ片手にゆったりと優雅に立ち上がった。
そして、いくつかの点を除けば――
一分の隙もないその立ち姿を――鏡越しにまひるに見せつける。
裾は破れ、泥がまだら模様を描き、
髪はぼさぼさ、枯れ葉が絡み、
陶器のような白い肌には、花粉と猫の毛と乾いた泥が、まるで芸術作品のようにこびりついている。
(……ペンダント……は?)
はっと、胸元に手をやる。
指先に感じたのは、変わらずそこにある銀の感触。
(……よかった……無事……)
ほんの一瞬だけ、心が揺らいだ。
だが、現実の惨状は、次の瞬間にしっかりと目に返ってくる。
『うぅ……。結構ひどいですね……これは……』
まるで他人事のように、まひるがぽつりとつぶやく。
(なに他人みたいな感想言ってんのよッ!?)
『でも、メイク、泥でナチュラル感出てて、逆にアリかもですよ~♪』
(まさか、泥パックしてくださったとでもっ!?)
(っていうか、一体どこで何してきたらこうなるの!?)
(これ、貴族の礼装よ!?)
(しかも……これは……由緒正しい、当家の刺繍入りの……“夜会正装”ですのよっ!?)
『すごっ。そっかそっか、ドレス選びは大成功だったってことですねっ♪』
(舞踏会に"出て"、ワルツを"踊る"なら、の話ですけどぉお!!)
鏡越しに、ルナリアの完璧な顔が、ほんの少しだけ青くなっているのがわかる。
そして――
ドサッ。
ルナリアは、心の中でその場にへたり込み、頭を抱えた。
実際には、テーブルに紅茶の香りがわずかに残るティーカップを置き――
その音が、やけに大きく響いた。
まるで、何かが終わる合図のように。
ルナリアはベッドサイドに腰掛け、そっと目を伏せる。
(……婚約破棄とか、乙女ゲーとか、もうそんな次元じゃない……)
(わたしの、これまでの貴族令嬢としての尊厳が……し、死んだ……)
『でも、ほら! ちゃんと、皆さんすごく喜んでくれてましたよ?
あの猫ちゃんなんて、すごくスリスリしてくれて――』
(黙れえええええええ!!)
心の中の叫びは涙混じりだった。
そして、何かが――ルナリアの中で、ガシャンと音を立てて崩れた――
まるで、ルナリアの心の壁が上げる悲鳴のように。
「なんでよぉ……どうして、こんなことに……!」
ルナリアはそっと横になり、枕に顔を埋めながら――
崩れかけた壁を通して絞り出すように、かすれた声で、かすかに呟く。
そんなルナリアに、まひるはあくまでもやさしかった。
『大丈夫、社会に出たら、朝起きた瞬間に絶望するのが日常ですよ♪』
にこっ。
(そんなの、あなただけよ!!)
顔を埋めたままのルナリアに、まひるは重ねてやさしく語り掛ける。
『えへへ……なんか、いいことした日って、胸のあたりがふわってなるんですよねぇ……♪』
『ふふっ……破滅フラグ、しれっと回避済みです~』
(……!)
ルナリアは起き上がると一瞬真顔になり、鏡に映ったぼさぼさの髪と泥の付いた顔が目に入る。
そして、脳内のまひるは、きわめて能天気に……ルナリアに告げた。
『ちゃんと王子様のお相手、代役お願いしておきました~。
セリアさんに。とってもかわいらしくて、正ヒロイン適正Sランクでしたよ~♪』
『あ、あと! ルナリアさんの好感度もたぶん上がった気がしますよ~!
あの“天然尊さ”で!』
(…………!)
(今セリアっておっしゃったかしら? もしかして、ですけど……”聖女”セリア様……かしら?)
『そう、その方です~。もう、可憐で清楚で。聖女ってぴったりですよね~』
(そう……セリア様に“お願い”したのですのね……ご丁寧に、ふふ……ごきげんよう)
微笑みながら、その目は笑っていない。
――次の瞬間、ルナリアは糸が切れた操り人形のように、ベッドにバタンと倒れ込み、呟いた。
「ふふふふふ――もう……我慢できませんわ……」
そして、その顔は、みるみるうちに青を通り超して青紫になり――
ガラガラガラ……ッ、ズシャァァン。
まるで、紅茶の香りを打ち消すような、崩壊の音が心に響く。
「よりにもよって……! 誰も頼んでないわよぉぉぉぉ……!!」
この朝、実際に叫ばれた、ただ一度だけの彼女の絶叫は、朝の光が差し込む寄宿舎の部屋に、少しだけ爽やかに、そしてちょっとだけ切なく響き渡った――。
……なおこのあと、
元の華麗で冷静な令嬢に戻ったルナリアが、淡々と学院の身支度を整える間――
まひるはゆっくり、たっぷり、みっちりと……
朝イチ説教を受けたらしい。
でも、まひるは、なぜかそれが少しだけ嬉しかったとか、なかったとか。
『……うぅ、でも……ルナリアさんに怒られるのって……社畜的にちょっとだけ、ご褒美……かも……』
そしてこの日、さらなる試練と破滅フラグが襲いかかることになるとは。
ふたりは知る由もなかったし――
そもそも、支度に忙しいルナリアに至っては……それどころではなかったそうな。
ただひとつ確かなのは。
この朝、誰よりも気高く目覚めた彼女が――
今日もまた、ひときわ美しく、少しだけ不憫だったということ。
けれどこの朝――
彼女の美しい所作と、淡い香りに包まれた寄宿舎の一室を飛び出して、
思いもよらぬ“誤解”が、講堂の片隅で静かに芽吹こうとしていた。
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