第9話「社畜と悪役令嬢と花の乙女と、不思議な薬師の森日記」 エピソード⑫
王立学院・寄宿舎
ルナリアの私室内・浴室(夜)
湯けむりの向こう、乳白色の湯に浮かぶのは淡い花弁たち。
紅、白、薄紫――まるで春の庭園を閉じ込めたかのような光景だった。
湯に足を浸せば、しっとりとした温もりが、じわりと足首から肌を包んでいく。
まひるは静かに肩まで浸かり、はあ、と小さくため息を漏らした。
「……あったか……」
ぽろりとこぼれた本音。
昼間の騒ぎも、怪我の痛みも、すうっと溶けていきそうだった。
「はぁぁぁ……しみるぅ……」
(癒されるぅ~……。
でも、こういうのって――近所の銭湯を思い出すんだよなあ……)
ふと思い出す、銭湯の檜風呂。
(比べたら、さすがにミレーヌさんに怒られそうだけど)
肌を撫でる湯は、柔らかくて重すぎず、心地いい。
花の香りが鼻をくすぐり、まぶたが自然と落ちそうになる。
ふと、視線を落とすと――
(……この身体、やっぱり綺麗だなあ……)
濡れた肌を伝う水滴が、胸元からなぞるように滑り落ちる。
まひるは思わず手を伸ばし、水滴の軌跡を指先でなぞった。
「これが……ルナリアさんの身体、かあ……」
華奢なのに、触れれば驚くほど柔らかく、どこまでも滑らか。
ふっくらと丸みを帯びた輪郭は、まだほんのりと幼さを残していて――
思わず、もう少し触れていたくなってしまう……。
慌てて、ぶんぶんと首を振って我に返った。
(ちょ、何考えてんの、わたし……!)
(……いかんいかん、これ以上はさすがにセクハラ案件!)
(バレたら絶対ただじゃすまないやつ。
「まひるさん、もう二度とお貸ししませんわ!」って怒られた挙げ句に、
「聖女様にお祓いをお願いしますので!」とか言われるやつだ!)
慌てて水をかき混ぜると、水面がふわりと揺れて、白い肌が沈んだり、また覗いたりする。
耳の奥がかあっと熱くなる。
(ダメだ、なんか……いろいろ危ない……)
ふうっと深呼吸。
それでも、心の奥底に、どうしても拭えない思いがあった。
(……それにしても、ほんと信じらんないなあ。
まさか自分が“令嬢”になって、こんなふうにすてきなお風呂に浸かる日が来るなんて)
社畜だった頃にはなかった感覚。
この世界に来てから、何度も芽生えてきた――
くすぐったくて、でも少し誇らしい、そんな気持ち。
まひるはもう一度、水面に指を浮かべ、小さな波を描いた。
「……ま、たまにはこういうのも、悪くないか」
天井を見上げれば、湯けむりの向こうにぼんやりと灯る光。
その下で、まひるはゆっくりと目を閉じた。
まるで花のように、静かに、湯に浮かびながら。
(あ、いけない……ルナリアさんのモードで入らなきゃ!)
背筋をしゃんと伸ばそうとしたけれど――
でも、すぐに力が抜けた。
「……もう、いいよね。誰も見てないし……」
ふにゃあと全身から力が抜け、湯の中にとろんと身を沈める。
胸いっぱいに吸い込んだのは、優しいカモミールの香り。
ぽちゃん、と水面に浮かぶ一輪の白い花を指先でつつく。
(今日も、なんとか乗り切った……ルナリアさん、わたしたち頑張ったよね……)
そっと目を閉じれば、湯気と一緒に、ふわりと優しい香りが包み込む。
(……カモミールの香り……たしか、安眠にいいんだっけ。癒しとか、リラックスとか)
(……うん、そういうの、今はちょっと、欲しいかも)
湯の中で、ぽつんと零れる。
「ありがとう、ミレーヌさん……」
そのとき、瞼の奥に、ほろりと熱いものが滲んだ。
でも、それはきっと、湯気のせいにしてしまえばいい――
そう思って、まひるはそっと目を伏せた。
*
湯に沈み、ぷくぷくと息を吐く。
そして肩を出すと、全身の力を抜きながら、ぽつりと心の声が漏れた。
(王子に手を差し伸べられたのって、もしティアナちゃんが助けてくれなかったら――
どうなってたんだろう……とか、もう……つら……)
そのときだった。
「お嬢様、失礼いたします」
浴室の扉が、音もなく開いた。
「ひゃっ!? ちょっ、ミレーヌ!?」
「湯加減を確認に参りました。
……ふふ、まるで蕩けたお団子のようなご様子ですね」
「や、やめてくださいまし、そういう比喩は……っ」
あわてて背筋を伸ばし、湯の中でびしっと姿勢を正す。
ぽちゃん、と水面が脇で小さく跳ねた。
「では、お背中からお流しいたしましょう」
「いえ大丈夫ですわ。ひとりで洗えますから……!」
お湯に手を入れて温度を確かめるミレーヌの視線が、やたらと身体に刺さる。
まひるは思わず胸元を隠すようにさりげなく腕を組んだ。
「だめです……他にもお肌に傷などついていないか心配ですし……。
この機会に、念入りに確認しましょう」
(ね、念入りって……。もしかして、あれですか?)
そう言いながら、ミレーヌはエプロンドレスの袖をきゅっとまくりあげる。
さらに、そばに控えていた小瓶を手に取ると、蓋を外し、タオルに数滴、さらりと垂らした。
途端に、湯気に混ざってふわりと立ちのぼる、甘く上品な香り。
「それは……?」
「さすが、お気づきになられましたか? 今日のはいつもと違う特製の香油です。
お嬢様のお疲れになったお身体に香りを纏わせ、血行を促し、肌の潤いを保ちます。
心も体もほぐれますので、ご安心くださいませ」
(ほぐれますって、な、何をどうやって!?)
タオルを手に、微笑んだまま近づいてくるミレーヌが――やけに神々しく見えた。
……まひるには、まるで処刑人の微笑みのようにしか思えなかったけれど。
(だめだ、ミレーヌさん本気のやつだ!)
(これ、断っても絶対「いけません。お嬢様のためです」って強行されるパターンだよね!?)
と、思ったときにはもう遅かった。
湯気の向こう、ほのかに上気した頬に微笑みを浮かべたミレーヌが、タオルを手にしとやかに背後へと――いや、まるで獲物を逃さぬ猫のように――回り込んだ。
少なくともまひるにはそんな風に見えた。
そして、湯桶のそばにしゃがむと――
「では、まず」
と言いながら、そっとまひるの髪を両手で持ち上げる。
「あ、あの……」
あわてて身を縮めるまひるの背中で、湯気がふわりと揺れた。
「濡れますから、こちらに……」
ミレーヌはそっと、濡れた髪をすくい上げて片手で留めると、もう片方の手に布を取った。
「では、お背中を失礼いたしますね」
(ひいい……この優雅な所作、これは天国のはじまりか、それとも地獄のはじまりか!?)
ぴた、と背中に感じるやわらかなタオルと指先。
「~~~っっっ!!」
まるでほぐすように力を込めたタオルが触れるたび、温度以上に、心拍数だけが上がっていく。
湯の温度は変わらないはずなのに、顔だけはどんどん熱くなっていく。
けれど、カモミールの香りに包まれながら、ほどよい圧力で背中に触れるタオルが心地よくて……。
それに加えて、さっきの香油の甘い香りも、湯気と一緒にふんわりと鼻先をかすめる。
(やば……こんなのリラックスするに決まってるでしょ……!)
(ああ……社畜がこんな贅沢していいんでしょうか……でも、この後って確か……)
「では、いつも通り、立ち上がっていただけますか? ……お嬢様?」
その言葉に、時間が一瞬止まった気がした。
「~~~!!」
(ひぃぃぃぃ~~。やっぱり来た……! いつもの流れ……!)
(ルナリアさんは平然としてたから他人事だったけど、
まさか実際、こんな羞恥プレイだとは……!)
(恐るべし……お嬢様専属メイドの仕事……。
むしろこれ、プロフェッショナルを装ったメンタル試験では……?)
(ねえ……令嬢の皆様~……こんなの毎回平然と受けてるの……?
鬼メンタルすぎるでしょ……。ルナリアさんの余裕、ほんとに同じ人類なの……?)
(ああ、でも……これが“育ち”ってやつか……。
メンタルまで高貴とか、社畜のわたしには無理ゲーですって……!)
そんなことを考えながら湯桶の中で背中を丸めていたまひる。
「ま、ままよっ!」と心の中で叫び、胸元を隠したまま勢いよく立ち上がる。
ざばぁっと湯が撥ね、しずくが肌を伝って滑り落ちていく。
背中から肩甲骨をなぞるように、腕を組んだ胸元から、そっと割れるように。
(ひゃああ……やっぱり、めちゃくちゃ恥ずかしい……!)
慌ててミレーヌに背中を向けると、濡れた髪の先からも雫がつう、と背中を這い、湯の中に落ちた。
(もう、どこが熱いのかわからないんですけど!?)
「……?
――なんだか、今日のお嬢様は可愛らしいですね?」
「え……そうかしら? いつも通りと思いますけれど……」
ぎゅっと口を引き結び、目を瞑って耐える――
すると、再びタオルが背中に触れ、ぐぐっと。
「ひゃっ!」
そっと振り返れば、ミレーヌが怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「……そんな反応なさるなら……面白いのでいたずらしちゃいますよ?」
「それは……絶対にダメです」
ものすごく残念そうな顔をしながら、二の腕にタオルを当てるミレーヌ。
(ねえ、ミレーヌさん。いたずらって何~~~!?)
(……怖すぎて、絶対聞けないけど!)
そして運命の瞬間――
「はい、背中は終わりです。
では――こちらを向いてくださいな。
……念入りに確認しながら、丁寧に流させて頂きますので」
(ひぃぃぃ~~!! ですよね~~~!!)
――その日の入浴は、まひるにとって天国でありながら、同時に地獄だったという。
*
――ミレーヌによる荒行が終わった後。
妙にすっきりした顔で湯にゆらゆらと沈みながら――まひるの心の中。
(ミレーヌさんみたいな子に流してもらえるなんて……ある意味天国だけど、同時に地獄……)
思い出すたびに、顔が真っ赤になる。
(でも、なんか……肌、つやっつやになってるんですけど!?)
(あの香油、絶対お高いやつだよね……! 恐るべし、令嬢ケア……)
その肌の手触りに、つい頬を撫でながら。
(……この優雅なお嬢様生活……慣れたら、それはそれで、やめられない気がする。
でも今、一番怖いのは――わたし、ちょっとだけ慣れてきてるかも、ってこと……)
まさか、これが……あの伝説の“令嬢畜”!?
社畜の皆さん、すみません。わたし、たぶん裏切ります。
(……でも、たまにだけだから……許して)
ふーっと息を吐きながら、まひるは湯気に煙る天井を見上げた。
(あ、秘密の日記に今日の森での出来事、書いとかないと。
ふふ、わたしの“チート社畜スキル”、仮称《薬師》の記念すべき発動も!
ちょっとだけ自慢してもいいよね……。
それに、自慢と言えば令嬢風呂の感動も……日本語だし、バレないよね?)
――いや、待て待てまひる!
その瞬間、まひるの脳裏に、妙にリアルな未来予想図が浮かんだ。
わたしの日記が間違ってどこかの図書館に紛れ込んじゃって、時を経て――
大英博物館みたいな場所に、“謎の言語で書かれた古代の書物”とか言って展示されて、
さらに未来の考古学者さんが、ロゼッタストーンばりに解読しちゃったりして、
古代の“とある公爵令嬢の暮らし”なんて翻訳付きで展示されたりしたら――。
(……うわ、やだ、恥ずかしすぎて死ねる……! ルナリアさんの名誉も木っ端微塵!
絶対晒されちゃだめなやつでしょ!!)
――風呂上がりのまひるには、さらなる天国と地獄が待っていた。
(うわ、うわ、うわ……ミレーヌさんの“フルコース”来た!)
マッサージに、爪のお手入れ、耳と髪のケア――。
まさか、やっと夜着を着られると思ったら、その前に「お耳の裏まで念入りに」だなんて。
さらには指の間を丁寧に拭かれて、
「ここは汚れやすいので、しっかりお手入れを」と太ももの裏や脇腹まで滑らかに撫でられ、
仕上げは香り付きのオイルで髪の毛先を優雅に整えて――。
(いやもう、わたしの羞恥心、どこまで試されるんですか!?)
(これ、ほんとに貴族文化!? 違うでしょ、趣味でしょ!?)
でも……慣れてしまえばきっと……令嬢畜生活、最高かも……。
その夜、まひるはベッドに沈みながら心に決めた。
(絶対、日記には書きません……!)
「やっぱり、お風呂のことも、その後のことも、ヒミツです!」
小さな呟きが、ふんわりと香る髪と一緒に、夜の静けさに溶けていった。
※最後までお読みいただき、ありがとうございました!
第9話はこれにておしまいです。明日は、第10話のEpisode1をお届け予定です。
第10話は中盤の締めとして、まひるが回想を交えながら、シナリオ考察に挑みます。
ちょっとしたサプライズも……あるかも(=^・^=)
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