第8話「社畜と悪役令嬢と、図書館の幽霊少女」 エピソード④
王立学院・講堂――午前授業。
神学と神聖教史の講義は、今日も静かな口調で始まった。
だが、講師の語り口は穏やかでも、内容は穏やかとは限らない。
黒板に白墨が走るたび、その瞳は――じりじりと、ルナリア・アーデルハイトを狙ってくる。
「……さて。ではアーデルハイト嬢に、こちらの解釈についてお尋ねしてもよろしいかしら」
静かな声――その名が呼ばれた瞬間、空気がぴんと張りつめる。
けれど、一部の生徒たちは、「よし、始まった」と言わんばかりに目を合わせた。
(……今日もですか。まったく、抜き打ちもいいところですわね)
ルナリアは静かに手を膝に置き、背筋を伸ばし直す。
『きたっ……! ルナリアさん、次も”踏み絵”なら、協力してかわしましょう!』
(ええ、わかっておりますわ、まひるさん)
そして、ルナリアの鮮やかな答弁が始まる。
「……それは、条文解釈において“意図”と“原義”のどちらを優先するかによって、見解が分かれますわね」
講堂が、またもざわつく。
「また始まったぞ……!」
「“神学問答”第5ラウンド、開始のお知らせでーす」
「今のところ勝率どのくらいだっけ?」
「結局ルナリア様、負けなし……なんだけど、たまにギリギリで引き分けになるのが熱いんだよな」
もはや講義というより、“アーデルハイト劇場”の定期公演である。
開幕の気配を察した生徒たちの間には、期待とざわめきが自然に広がっていた。
一方平民席では、ヴィオラがルナリアの横顔に釘付けになっていた。
(……かっこいい……。冷静で、堂々としていて……)
思わず、「ルナリア様すごい……」とノートの余白に書きかけて――
ハッとして慌てて消す。
(な、なにやってるの私……!?)
イレーネはそれらの反応に気づきながらも、微笑を崩さず、静かに次の話題へと誘導する。
「では、最後に……“建国神話”について少し。
セレスティア神聖国の礎を築いたのは、建国王と原初の聖女――
この国における、最初の“秩序と信仰の象徴”ですね」
黒板に、王と聖女の名が記される。
――建国王エリディウスと、原初の聖女アストレイア。
「ふたりは、理想の婚姻を経て、神に祝福された国を築いた――そう記されています」
そのとき、イレーネの目が、ゆるりとセリアへと向けられた。
聖女セリア・ルクレティア。
金の睫毛に彩られた青の瞳は――伏せられることなく、静かに開かれている。
少し顔を上げ、まるで瞑想でもしているかのような、神秘的な眼差し――。
(あの先生の目線……この場に、わたくしよりも”ふさわしい“女性がいると言いたい。
そういうことかしら)
だが。
(……あの、セリア様?)
ルナリアは視線を送りながら、微かに眉をひそめた。
(……お休みになってますわね、これ)
まばたきひとつせず、ただ虚空を見つめている――
これは、完全に寝ている。
目を開けたまま、微笑みまで浮かべて。
神のご加護か、本人の資質かはさておき――
教室の空気が、ひととき妙な沈黙に包まれる。
イレーネは、白墨を持ったまま、微笑を保ちつつ数秒間フリーズした。
(……先生、今ちょっと戸惑っていらっしゃいますわよね)
(せめて閉じて……その瞳……)
するとセリアは、ゆっくりとまばたきをし、ひとこと。
「……はい! わたしは、原初の聖女様が一番好きです……!」
(寝言!?)
『いや、セリアちゃんの推しは誰も聞いてないから!』
言い終えたセリアは、まるで満足したかのように、微笑んだままこくりと首を傾げ――
そっと目を閉じた。
『次はガチで寝るんかい!』
『いやいや、知ってたよ? セリアちゃんの凄さは。
でもこれ、役員会議で爆睡できる人のメンタルよ!?』
イレーネは、ほんの少し眉を寄せた後――
「仕方ない聖女様ですね」とでも言うようにやわらかく微笑むと、背を向けて板書を続けた。
次の瞬間、セリアは小さく首を振り、その瞳がぱっちりと開いた。
視線が集まっているのに気付き、きょとん、としながら周囲を見まわす。
くすくす、と小さな笑い声が広がり、”聖女の守り手”ユリシアまでもが肩を震わせている。
そしてルナリアも――
思わず吹き出しそうになるのを”公爵令嬢の矜持”をもって必死で抑えていた。
*
やがて、まるで今までの講義はこの一問のための前奏だったかのように――
イレーネはひときわ冷たい表情で、質問の刃を突き立てた。
「……では、アーデルハイト嬢。最後に一問、よろしいかしら。
王と聖女。王の隣にいるべきは聖女、あなたはそうは思いませんか?」
講義の終盤、誰もが気を抜きかけた瞬間――
その名が、またしても狙いすましたように呼ばれた。
(これは……。これまでで最大の”踏み絵”ですわね……どう答えたら……)
その瞬間、講堂が凍り付き、無数の視線が、ルナリアとセリアに注がれる。
さすがのエミリーも「それ王太子の婚約者に聞く?」と言わんばかりに眉根を寄せ、
ヴィオラは不安そうに俯き、アルフォンスは興味深げにルナリアをそっと見つめた。
ふと、ルナリアの視線がセリアと交差した。
セリアは何も言わず、ただゆっくりと瞬きをして、そっと頷いた。
それは、“どんな答えでも大丈夫”と伝える、静かであたたかな肯定だった。
(……? まひるさん……まさか、お休みされてますの?)
その時、ルナリアの中で、まひるの半分寝ぼけた声が響いた……。
連日の夜勤が響き、急に眠気に襲われたまひるだったが、ルナリアは知る由もない。
『すゃ~、ん?
ああ、建国王と聖女様? 諸説あるけど、結婚してなかったんだよね……本当は。
王と聖女は並び立つもので、結婚とかそういう関係じゃなかったらしいよ……』
『余談だけど、聖女様以外に、北の氷姫さんと、花の乙女さんとも恋仲で――
建国王さんってなかなかの無自覚系モテ男子だったみたい……。
絶対転生者ですよ、あれは……』
『ルナリアさん、やば、ごめん……!
ちょっとだけだから……。おやすぴ~……』
(まひるさん、おやすぴ~……じゃありませんわよ。
……あなたまでお昼寝ですの……?)
けれど、まひるの声を聞くと、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
(北の氷姫……わたくしのご先祖ともいわれる英雄、氷の巫女……。
”余談”も真実のようですわね……。
さすがに、これはわたくしから触れることは難しいですが……。
まったく――まひるさんたら、寝言で言う内容ではございませんことよ」
(でもそれならば、今のわたくしが答えるべき言葉は――たった一つです)
次の瞬間。
「……諸説ある中の一つではございますが……」
静かに、ルナリアが口を開いた。
「実は、建国王は、原初の聖女とは婚姻しなかった……
――彼は、聖女とともに並び立ち国を支えることを選んだ、という説もございます」
“婚姻しなかった”
“ともに並び立つ”
その言葉が、講堂の空気を、一瞬で変えた。
しん、とした空気の中、ルナリアはひときわ澄んだ声で答えを口にした。
「……わたくしは、誰よりも王を支えたいと思う“覚悟”があるなら、
聖女であろうと、そうでなかろうと王の隣に立つ資格があると考えますわ」
セリアは一瞬だけ目を見開いたが――すぐに、ふんわりと微笑んだ。
それは、祝福にも似た“承認”のようだった。
ルナリアを見つめるアルフォンスの瞳が、かすかに熱を帯びた。
ざわっ――
生徒たちのざわめきが、静かに広がる。
その中で、ヴィオラは小さく息を呑んだ。
その言葉は、まるで鏡のように、ヴィオラの心に映り込んだ。
(……隣に立つ“覚悟”。いつかわたしも――そんな覚悟に辿り着けるのかしら……)
ルナリアを見つめるその瞳に宿るのは、羨望でも嫉妬でもない。
ただ、静かな問いかけだった。
(……あのときの自分なら、何も答えられなかった。
でも――今なら、少しは……)
イレーネの白墨を持つ手が、黒板の端で静かに止まる。
そして――そのまま、何も言わずに彼女は板書を続けた。
けれど、表情は微笑のままなのに、目だけが冷たい。
氷を宿したような、鋭く透明な視線だった。
「……アーデルハイト嬢」
講義が終わり、椅子が引かれる音が響く中――
イレーネは、ごく自然な声で言った。
「授業のあと、少しお時間をいただけるかしら。お話がありますの」
講堂が、再び静まり返る。
ルナリアは、一瞬だけ黙ったのち――
気高く、貴族の礼をもって、静かに頷いた。
「かしこまりました」
イレーネは微笑のまま、わずかに目を細めた。
その視線は、“知っている者だけが知る”静かな警告だった。
*
ルナリアが講堂を出ようとしたそのとき。
セリアが、そっと袖を引いた。
「ルナリア様……さっきの、ちょっとびっくりしました」
「……気になさらないでください。あくまで一説に過ぎません」
「はい……わたしも、原初の聖女様って普通にお妃様してる感じがしなくて……」
「だから、ルナリアさんの言う通り、
“王の隣に誰がいるか”より、“王の隣で何をするか”のほうが大切じゃないかって思ってます!」
そう真剣な顔で言うセリアの声に、ルナリアも小さく頷いた。
微笑を返しながらも、ルナリアの胸の奥では、静かに何かがざわめいていた。
(……あの先生の反応。まひるさん……どうやらあなたの言う”地雷”というもの、
ついに踏んでしまったようですわ……)
返事はなく、ルナリアは、心細く感じている自分に気が付いた。
同時に、彼女が目覚めたときに、がっかりさせたくないという気持ちにも気付く。
(このところ、あなたに頼りっぱなしでしたから……
その報いを受けているのかもしれませんわね)
(でも、安心してお休みになって)
(ルナリア・アーデルハイトの矜持をもって、堂々と相対しますわ!)
※最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もしお気に召しましたら、評価やブックマークをいただけますと、とても励みになります。
評価・ブクマしてくださった皆さま、改めてありがとうございます!




