第7話「社畜と悪役令嬢と、すれ違う仮面の舞踏」 エピソード⑩
聖都セレスティア
王立学院・寄宿舎
ルナリアの私室(夜)
夜空には三つの月と星空がまたたき、ハイランドよりもほんのりとあたたかい風が――
カーテンをくすぐるように吹いていた。
巡礼の橋を渡って戻った夜。
ルナリアはキャンドルも灯さず、紅茶も淹れずに――
ひとり、窓を眺めながら、自室のベッドに座り込んでいた。
まるで夢だったかのような、賑やかで、少しうるさくて――でも、あたたかい時間。
(……あの時、お母様に、ぎゅっと抱きしめられて)
(お兄様は……泣きそうな顔で、肩をぽん、と)
(レオニウスは……最後まで、わたくしの胸にしがみついて離れませんでしたわね)
その小さな体を、ミレーヌが抱き取ってくれなければ、まだ家を出られなかったかもしれない――
ルナリアはそっと、膝の上に両手を重ね、目を伏せた。
(……お母様の香り、まだ袖に残っている気がしますわ)
(お兄様の手のひらの温もりも……レオニウスの、甘えた声も)
ほんの数時間前のことなのに、まるで夢のよう。
手を伸ばしても、今はもう届かないのだと思うと――少しだけ、胸がきゅっと締めつけられた。
ふと、誰かと話したくなり、心の中の同居人に声を掛けてみる。
(……まひるさん? そういえば、帰りの馬車でも静かでしたわね……)
『すゃ~。むにゃむにゃ……シャトーブリアンが空を飛んでる……。
お兄さんが火であぶって……お母さんの膝の上のルナリアさんの口に……。
もうお腹いっぱいだよぉ……」
(まったく、何の夢を見てるのかしらね……。
ふふ……おやすみなさいな。まひるさん)
静寂の中、胸元に輝く月の意匠を施されたペンダントを手に取り、そっと眺めていた。
お母さまから譲り受け、そして……あの日、未来を誓ったペンダント。
誰と一緒に誓ったのか……。
ラファエル様?
それとも……本当にアルフォンス様なのかしら?
そのとき――小さく扉が開く音が静寂に響く。
「失礼します」
浴室の扉が静かに開き、ミレーヌがそっと現れる。
手にしたランプが、私室の隅々をやわらかに照らした。
ラベンダーと薄紅のバラの香りが湯気に乗って、ほんのりと部屋に広がる。
「お嬢様。湯浴みの支度は済んでおります。
夜着も整えましたので……お清めの後は、ゆっくりお休みくださいませ」
「……いつもありがとう。ミレーヌ」
ルナリアはそう返しながらも、ベッドの上で膝を小さく抱えたまま動かない。
ミレーヌは少し首を傾げると、テーブルにランプを置き――
「失礼します」と言いながら、ルナリアの隣に腰掛けた。
きょとんとしたように眉を上げ、ルナリアはそっとミレーヌを見やった。
ミレーヌはといえば、すまし顔で窓の外を見ている。
ミレーヌがぽつりと言った。
「本当に、お嬢様は良いご家族をお持ちです。少々……破壊力は強めですが」
「急にどうしましたの? ミレーヌ?」
「……帰りの馬車では殆どお話もされませんでしたし――宿場町でもキャンディーフルーツをねだられませんでした」
「それは……お腹が空いていなかっただけ……ですわ……」
するとミレーヌは軽くルナリアを向いて座り直すと、ルナリアの手を取る。
驚きに、目をぱちりと開いた。
そして、ミレーヌはためらうように少し指を絡ませたあと――
意を決したように、ぐっと胸元に引き寄せる。
ルナリアは、ミレーヌが華奢な見た目に反して、意外と力があることを思い出した。
「ちょっ……ミレーヌ?」
「はっきりと申し上げます。ミレーヌは、お嬢様が大好きです。
辞表を出すまで、ではございますが」
ルナリアは思わず身を引いた……ミレーヌの顔が……いつになく近い。
彼女の琥珀色の瞳に、自分の驚いている顔と――
まるで何か“秘密”でも隠されているような、熱と静けさが混じっていた。
「ええ……それは嬉しいわ。わたくしも、あなたが好きですわ」
打ち切るように、そっけなく言ったつもりだった。
しかし、ミレーヌは逆にずいっと身を寄せ、やわらかな膝先と肩がぴたりと触れ、
ベッドが、二人の体重でわずかに沈み――心臓の鼓動が、同じ空気に響いた。
「……けれど、お嬢様にお仕えできる時間が、ずっと続くとは限りません……ですから……」
そう言うと、ミレーヌは一度だけ、ほんの少し、小さくまばたきをしてから――
そっと顔を近づけてきた……口元に吐息が触れるほどの距離に。
心臓が跳ねる音が聞こえてしまいそうで――ルナリアは、息をのんだまま固まってしまった。
一拍、二拍――ようやく呼吸を思い出した頃には、頬がぽうっと熱を帯びていて……。
「……ん……や、やめ……。
な、なにを……っ、ミレーヌっ……!」
息をのむように見つめ合ったまま、思考がほんの一瞬、止まってしまう――
感じるのは、跳ねる心臓と、熱を帯びた頬だけだった。
彼女の熱が伝わる。もう何も考えられない。
彼女の少し開き、濡れたように艶めいた唇が近づき……。
……ぁ……なんだか、わたくし……へん……。
こんなとき、どうすれば……。目は閉じるべき……? 唇は?……こちらも閉じるものなのかしら……。
するとミレーヌはふいにぱっと手を放し――
じーっとルナリアを見つめた。
「……はい、測定完了です――
お嬢様のお手を借りて心拍数を測りましたところ、優に100は超えてます。
やっぱり、お嬢様はちょろすぎます」
「…………っ!」
早鐘のように打つ鼓動を鎮めようと、胸元を手で押さえる。
「まあ、ほんの少しだけお許しいただけるなら、とも思ったのは事実ですが」
「……今のはほんの一滴の毒ですが。効果はてきめん、ですね?
まあ、ミレーヌは王子レベルの女たらしなので仕方ありません」
「ち、ちょっ、ミ、ミレーヌ……っ!?」
(わたくし、何を期待して……?)
(……だめですわ。思い出すと、また顔が熱く……)
(……な、なにを期待していたのかなんて……そんなの……わたくしが知るわけ、ないでしょう……!)
その瞬間、聞き慣れた寝ぼけ声が。
『……ミレーヌさん……ずるい……りんご飴で誘惑するの、反則です……期待しちゃいますから……』
ルナリアはピクリと肩を跳ねさせた。
(聞いてらしたの!?)
『すゃ〜……むにゃ……レオたん……そこはだめですよ〜……』
顔を真っ赤に染めながら、ルナリアは心の中で小さく叫ぶ。
(もう!……寝てるなら黙っててくださるっ!!)
「結論として、お嬢様は毒の耐性が低過ぎるということです。
お望みなら、ミレーヌがいつでも喜んで鍛えて差し上げますので」
「……ミレーヌの意地悪っ――もうっ、知りませんっ!」
「なお、辞表を出す日はまだ先の予定ですので、まだ時間はございます。
ご安心ください」
ルナリアは頬を膨らませたが――すぐに、ふっと小さく笑った。
ミレーヌも、手を口に当ててくすくすと笑い始める。
二人の笑い声が、揺れる灯りとともに、静かな夜の空気へと溶けていった。
「お嬢様、やっと笑顔になられましたね」
「お嬢様には味方が沢山います。
ご家族も、このミレーヌも。
あとたぶん……アルフォンス殿下も」
「ちょ、ちょっと!」
ルナリアは、頬を赤らめたまま視線を逸らす。
(そして、まひるさんも……ですわ)
窓の外には、今日も変わらず三つの月が、やさしく夜を照らしていた。
「……たしかに、少し浮ついていたのかもしれませんわね。
でも、もう迷いません。わたくしは、わたくしのやるべきことをやるだけです」
「そのご決意、頼もしい限りです。では明日は……」
「ええ、午後からエキジビションの練習でしたわね?」
「朝食には甘味と紅茶を添えてお持ちいたしますわ」
「……気を使わなくても結構ですわよ?」
ミレーヌは、茶目っ気たっぷりに、片目をすっと閉じて――
「ご褒美ですので」と、まるで秘密を共有するような笑みを浮かべた。
やわらかなランプの灯りが、彼女のヘッドドレスと茶色のツインテールを淡く照らす。
「では、お湯が冷めないうちに」
歩き出したミレーヌが、扉の前でふと腰元のリボンを揺らして振り向く。
「湯浴み……今日もお手伝いしましょうか?」
……と、口の端だけで笑いながら、さも当然のように尋ねた。
「き、今日もって……結構ですっ」
瞬時に振り向いたルナリアが真っ赤になって抗議すると――
「……お嬢様のこういうところが、本当にちょろ……いえ、可愛いんです」
眉を寄せ、全力でじろり、と睨むと――
ミレーヌは目を細めて涼し気に「おやすみなさいませ」と言い、深く一礼した。
ルナリアは扉が閉じたのを見届けると、浴室へと向かう――
ほんのりと頬を染めたまま。
扉を開けると、浴槽から立ち上る湯気がふわりと広がり、甘い香りが鼻をくすぐった。
*
湯上がりの肌に、夜気がそっと触れる。
夜着にすっと袖を通すと、ふわりと香るのは――わたくしの好きな花の香り。
――淡い桃色の布に、繊細なレースがあしらわれたナイトガウン。
(……今日は、いつものより……なんだか、少し……可愛らしい……?)
ミレーヌが選んでくれたものだとわかる――が、わかるだけに、少しだけ困ってしまう。
(……まひるさんが、お休みになっていて良かったですわ。絶対にちょろ娘とか、ちょろ姫とか、何か言われていましたもの……)
微笑んで、そっと首を振る。
ベッドに腰掛け、柔らかなタオルで、肩口から胸元まで流れる金糸の髪を、なぞるように拭く。
でも……胸の奥に残る体温と、ほんのりとした熱が消えそうになくて――
「……ミレーヌの、ばか」
と、小さく呟いた。
ふと、月明かりに照らされたカーテンの隙間に、小さな気配を感じ――
窓を見やると、三羽の蝶がゆっくりと夜の空へ舞い上がっていく。
まるで、まだ見ぬ明日へ、そっと道しるべを描くように――。
(……明日も、笑顔で過ごせますように)
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