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第6話「社畜と悪役令嬢と、二人の王子と約束の行方」 エピソード⑧

聖都セレスティア・東門(黎明の門)前


聖都セレスティアは、内湖の中心に浮かぶ島に築かれた水上の都。

東西南北の四方には巨大な石橋が架けられ、東から順に「黎明の橋」「静寂の橋」「荘厳の橋」「巡礼の橋」と呼ばれている。


それぞれの橋の先には、かつて建国の七英雄が歩んだとされる巡礼路が延びている。

聖都をぐるりと囲う五大公爵領へと繋がるその道筋は、いまもなお、信仰と歴史の記憶をたどる旅路である。


有事には固く門が閉ざされ、神聖な湖と、張り巡らされた城壁により――

神の手によって守られたまさに不落の城塞となる。

建国後間もなく千年を迎える神聖国だが、いまだかつて、ここに敵の影が届いたことはない。


“黎明の門”と呼ばれる東門は、四つの門の中でも最も人の往来が多い。

内湖の橋を渡った先には大陸交易路が伸びており、旅人も商人もこの門を目指す。


この日も、荷馬車の列が門前に伸び、巡礼者たちの祈りと商人たちのざわめきが交差していた。


城壁の内と外を分かつ“黎明の門”――

高さ十メートルはあろうかという巨大な石門が、まるで神殿の一部のようにそびえ立っていた。


城壁に刻まれた神聖文字の列が、陽光を受けて微かに輝き――

アーチの天頂部には白亜の天使の像が輝き、翼を広げて門を守っている。


その門前には検問所が設けられ、商人や巡礼者たちが通行証を手に列をなしていた。


だがその喧騒の中――突如として、場の空気がぴたりと凍りつく。

書状を取り出そうとしていたミレーヌも、異様な空気にしばし動きを止めた。


「……あ」


門衛のひとりが、ほんの一言、呟いた。

門へふらりと歩み寄ってきた青年の姿に、全員が反応した。


モーブグレーの外套にサンドブラウンのキャスケット帽。

そして癖のある金髪に青い目。


一見、どこにでもいる旅人のような装いだが、その所作は実に洗練されている。

軽やかな足取りのまま、何食わぬ顔で門衛の前に立ったその男――


第二王子、アルフォンス・エリディウス・セレスティア。


「少し外を散歩してくるだけだ。通してもらえるかな?」


穏やかな微笑とともに告げられたその言葉に、門衛たちは全員、瞬時に整列し直立不動となる。

鎧の打ち鳴らす音が、静かに門前に響いた。


「――はっ。ご通行、承ります」


しんとした空気の中、列に並ぶ商人や旅人がざわめく。


「今の……あれ、相当な要人じゃないか?」

「爵位持ちの貴族とか……いや、聖王家の関係者?」

「え、でもあんな軽そうな……」

「いやいや、お連れさんたちも相当な別嬪さんだぞ!?」

「門衛が全員直立って……何にしても、只者じゃねえ!?」


ざわめきを背に、アルフォンスは肩越しに微笑を返す。


「さ、行こうか。今日は“ちょっとしたお散歩”だからね」


ルナリアは一瞬だけ足を止め、その背を見上げる。


「ふふ……ずいぶんと堂々とした“お忍び”ですこと。……ええ、あなたらしいわ」


肩越しに微笑むその背中に、少しだけ笑みがこぼれた。


そして静かに、門の“向こう側”へと、足を踏み出した。



……そして――


門をくぐった瞬間、視界が開ける。


目の前には、湖の上をまっすぐに伸びる巨大な石橋。

東の彼方へと延びる“黎明の橋”が、きらめく湖面の上を貫いていた。


その上を、商隊の馬車が列をなし、色とりどりの幌が風に揺れている。


赤や青、白や茶の幌、旗を掲げた仲買商の一団。

祈りの言葉を唱えながら歩く巡礼者たちの列。


肩に魚籠を提げた漁師、荷を積んだロバ、香を焚く露天商――

あまりに多くのものが、一度に押し寄せてくる――声、音、色、においまでも。


聖都中心部の静けさとは真逆の、“生のうねり”がそこにはあった。


「……っ」


思わず、ルナリアが息を飲む。

規律がありながらも、完全には統率されていないその喧騒。


けれど誰もが、決まった道を、定められた場所へと歩んでいる。


それはまるで、都市の鼓動、そして脈動そのものだった。


「……お嬢様?」


ミレーヌに声を掛けられ、はたと立ち止まっていたことに気付く。


「……いえ。ただ……思っていたよりも、“外”は……」


「“生きている”感じがする、でしょう?」


アルフォンスが、やわらかく笑った。


(……そう、まさに――生の奔流、ですわね)


(この奔流を“導く”ことなど――本当に、わたくしたちに……?)


(ええ……やってみせるしかありませんわね……)


ルナリアの中で、まひるの声が静かに響いた。


『初めての外……。もう、乙女ゲーというか、もはやVRMMOの世界。感動しかありません……』

『それにしても、ルナリアさん、いよいよ“ヒロイン顔”してきましたね』


(ふふ……。わたくしも少しだけ、感動しておりましたのよ。

 “ヒロイン顔”は余計ですが)


***


湖沿いの石畳を、一行はゆるやかに南へと下る。


湖を渡る風と、遠くから響く鐘の音。


そこに広がるのは――


昼過ぎとは思えぬほどの賑わいを見せる市と、人々のざわめき。

天幕の布が風に舞い、焼き魚の煙と香草の匂いが、風に乗って鼻先をくすぐった。


「丁度、“午後市”が始まったところだね」


アルフォンスが解説する。


「浅瀬が多い湖だから、午後になると珍しい魚や貝が揃うんだ。

 水草や香草も多く並んで、午後市はにぎやかになるよ」


露店をめぐりながら、ふたりは店主たちに声をかけ、

水草や魚の種類、収穫量について丁寧に耳を傾けていった。

この季節に多い品種や、今年の出来、湖の水位との関係まで、自然と会話は深まっていく。

品の並べ方や加工の工夫にも、ルナリアは細やかに目を配っていた。


そんな露店のひとつに、鮮やかな紅い実が並んでいた。

珊瑚のような枝に、ぷっくりとつややかな粒が鈴なりに実っている。


「“珊果さんがの実”だよ。湖底のサンゴ草にしかならない、ちょっと珍しい味だねぇ」


と、露店の老婆がほほえむ。


「ほんのり桃の香りがして……口の中でとろけるの。若い娘さんに人気なんだよ」


『お魚市場で、まさかの“白桃系スイーツ”!?

 サンゴから果実って、いやちょっと待って、それ植物?動物?どっち!?

 ……でも、なんか……食べてみたい……かも』


***


――湖畔の波打ち際。


市の通りを離れ、ふたりは湖のほとりを歩んでいた。


湖面は午後の日差しを映してきらきらと光り、波打ち際に細かな波が打ち寄せては消えてゆく。

足元の砂混じりの石畳は少し濡れていて、波が来るたびに光の粒を散らしていた。


ルナリアは、軽やかな靴のつま先で寄せる波を避けながら、そっとその場に足を踏み出す。


「……靴が濡れる。あまり近づかない方がいい」


隣を歩くアルフォンスが、柔らかく声をかけてきた。


その声音があまりにも自然で、どこか優しくて――思わず、足を止めてしまう。


「わかってますわ。でも……少しだけ、湖の風が気に入りましてよ。

 澄んでいて、肌に触れるたびに気持ちがほどけるようで……」


湖上を風が吹抜け、ルナリアの髪をふわりと揺らした。

その様子を、アルフォンスが静かに見つめている。


波が引くのを見計らって、そっと足先を砂に乗せる。

すると、水が引くのに合わせて足先が沈み――ふと笑顔が零れた。


(……こんな顔、聖都の中では絶対に見せられませんわね)


けれどいまは、“公爵令嬢ルナリア・アーデルハイト”ではなく――

ただの、ひとりの娘として、ここにありたい……そう思った。


「今の君は……本当に、“ただの町娘”みたいだ」


「それは褒め言葉かしら?」


「もちろん。

 君が今、誰の目も気にせず――そんなふうに笑っている姿を見られるなんて。

 僕にとっては、最高の贈り物だ」


「あら、まだ何も贈ってなどおりませんわよ?」


「では、これから何を贈ってもらえるのか、楽しみにしているよ」


ふたりの笑顔が重なる。

そして、アルフォンスはぽつりと呟いた。


「いっそ、ずっとこのままでいられたら、きっと楽しいのに」


その言葉に、ルナリアの瞳が、ふと揺れた。


楽しい――自分もそう思っていることに、はっとする。


このままではいけない、とわかっていても、風も光も、どこまでも自由で、優しくて……

“本当の自分”が、うっかり顔を出しそうになる。


一瞬、波が足元まで迫り、彼女は小さく裾を持ち上げた。


「それは……いけませんわ、アル。そんな言葉は」


「なぜ?」


「……いまだけ、ですわ、アル。

 ……わたくしたちは、“ずっと”なんて、望んではいけない立場なのですから」


アルフォンスは、その言葉に答えず、手の中の小袋から小さな実をひとつ取り出した。

さっき買ったばかりの《珊果の実》。


桃にも似た甘い香りがする、湖から水揚げされた果実。

ルナリアもひとつ摘み、口元に運ぶ。


「……ふふ。甘いですわね」


「舌に残る香りが、さわやかだけど濃厚……少しだけ、花の蜜みたいだ」


「アル。そんな詩的なことを言ってはだめですわ。今日のあなたは、“ただの旅人”ですのに」


ふたりは並んで歩く。

人の気配はもう遠く、湖の音と風の気配だけが、ふたりを包んでいた。


そして――


「――でも、その“願い”なら」


「……?」


「……もう少しだけなら、叶えて差し上げますわ」


アルフォンスが少し驚いたように振り向くと、ルナリアはほんの一瞬、いたずらっぽく笑った。


それは、聖都の仮面を脱いだ、“ただのルナリア”の笑顔だった。

波の音に紛れて、彼女自身も気づかないほど自然に――。


二人の間に少しの沈黙が流れた。


「それは……僕にとって、本当に素晴らしい贈り物だ」


そう言うと、アルフォンスは胸に手を当て、優雅に一礼した。


「では、お言葉に甘えて」


そして、そっとルナリアへ手を差し伸べた。

外套が風をはらんでゆれていた。


「”お嬢さん“、お手をどうぞ」


差し出した手の向こうで、ルナリアの表情がふっと変わった。

ほんのわずかに、目を見開いて――それは、驚きというより、戸惑いに近い。


けれどその淡い紫の瞳は、すぐに静けさを取り戻し、まっすぐに彼を見返していた。


アルフォンスの瞳に映る姿は、完璧な公爵令嬢ではなく――

心の奥にほんの微かな動揺を宿した――いま、この瞬間の自分自身だった。


――殿下……。


アルフォンスは、”アル”は――まるで、大切な何かを扱うように、慎重に――

そしてまっすぐに、ルナリアを見つめていた。


その姿を見た瞬間、ルナリアの胸に、ふと過去の光景がよみがえる。


(――カフェ《ラ・シュエット》のあの日)


小さなテラスの片隅で、彼女が笑いながら差し出した手。


「ほら、アル! こちらにどうぞ」


あのときの“アル”の顔が、今この目の前にいた。


まるで、宝物を見つけたかのように――

少し不器用で、でもまっすぐで、嬉しそうな目。


……胸の奥が、ほんの少しだけ熱を帯びる。


(今のわたくしは……“ただの町娘”――)


風が吹き、淡く花の香を運んできた。


湖面では、小さな波が、砂利を撫でるように静かに打ち寄せている。

ルナリアは静かに、その手に触れた。


指先だけを重ねるように――ほんの一瞬でほどけてしまいそうな、かすかなつながり。

触れた瞬間、アルフォンスのまなざしが、ほんのわずかに揺れていた。


風に揺れる金の髪と、その下で静かにこちらを見つめる淡く光を湛えた碧の瞳。

そして、今、触れたばかりの――ほんのかすかに震えている手。


どこか懐かしくもあったけれど――

それ以上に、今そこにいる彼の姿が、ひどく眩しく見えた。


(……これが、“今”のアル)


まっすぐで、やわらかくて、けれどもう子供ではない――

凛とした眼差しと優しい仕草に、ただの思い出ではない何かが、胸を揺らす。


(……今度は、僕の番だ)


彼の瞳が、そう語っているようだった。


波の音と風のさざめきに包まれながら、二人は静かに歩き出す。

言葉は交わさず、ただ――つないだ指先だけが、時を越えてふたりを結んでいた。

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