第6話「社畜と悪役令嬢と、二人の王子と約束の行方」 エピソード⑥
聖都セレスティア・城下町
スカーレ通り
――午後の視察。
カフェ《ラ・シュエット》を後にすると、丁度陽が天頂に達していた。
通りにまぶしい光が差し込み、街路樹の葉がきらめく影を落とす中、石畳の一つひとつが陽光を受けて淡く輝く。
ミレーヌがさりげなく前に出て、ルナリアの方へと振り返った。
栗色のツインテールが風に揺れ、陽にきらめきながら弧を描く。
「午後のご予定ですが、このまま商人街を抜けて湖畔に下り、水辺の市を回ります。
その後、水路で中心部へ戻る――という流れでよろしいでしょうか?」
「ええ。それでお願いするわ。湖面の景色も、久しぶりに見たくなりましたもの」
ルナリアが頷くと、ミレーヌはレースの施された日傘を差し出した。
「いいえ、今日は、そうですわね……“ただの町娘”ですから」
そう言いながら、ルナリアはほんの少しだけ、視線を横に流した。
ミレーヌは無言で頷き――わずかに眉をひそめて日傘を仕舞うと、手を差し出す。
「では、こちらへ」
すると、背後で控えていたアルフォンスが、さりげなく歩み出た。
まるで最初からそうあるべきだったかのように、ルナリアと並び――そっと、声を掛けた。
「では、ルナ、よろしく」
「ええ、参りましょう。アル」
そして、ふたりは自然に歩き出す。
肩が触れるほど近くはなく、けれど離れすぎてもいない――。
午後の陽射しに照らされて、キャスケット帽の下の癖のある金髪がやわらかく光る。
その隣には、低くまとめた銀混じりの金髪。
異なる色彩の衣が、静かに並んで揺れていた。
それはまるで、静かな劇場の舞台に浮かび上がるワンシーンのように――
穏やかで、どこか非現実的な光景だった。
……“今だけ”許された一幕。
指先が触れた瞬間、消えてしまいそうな――
けれど、それは“必然”ではなかった。
選ばれたからこそ生まれた、ひどく儚い奇跡のような時間。
そんな二人の背を見つめながら、ミレーヌはふとつぶやいた。
「……今日はやけに素直でいらっしゃいますね。
あの調子で湖に落ちなきゃいいんですが」
レイモンドが僅かに眉をひそめたのが、ミレーヌの視界に入る。
「ふふ、失礼。でもご心配なく。
湖の底からでも、おふたりまとめて回収いたしますので」
すると、レイモンドは目を細めて微笑み、
ミレーヌに歩幅を合わせるように、静かに歩き出した。
彼らの足音だけが、石畳の上にやさしく響き、残り香のように消えて行く。
やがて、“水の都”とも呼ばれるこの街の真価が、午後の光に満たされながら――
少しずつ、その輪郭を露わにしていく。
――その裏では、視察の記録に残らない会話が、ルナリアの心の中で交わされていた。
『……うん。これはもう、”完全”にデートです』
(いいえ、”完璧”に視察ですわ……)
***
スカーレ通りを下り、商人街に差し掛かった。
銀細工屋、織物店、香料店、茶葉店、ガラス細工店――
アルフォンスは、どの店でも店主の信頼をたやすく引き出し、
“旅の記憶”を織り交ぜながら、本物の”旅人”のようにさりげなく話の核心へと踏み込んでいく。
「ああ、ここの香料……南方の交易市で似た香りを嗅いだことがある。とても澄んだ香りだった」
それは威圧でも誇示でもなく、ただ静かに、相手の誇りに耳を傾けるような態度だった。
学院に来るまで各地を巡っていたという“外遊”王子の顔が、ここで初めて――
ルナリアの目にもはっきりと映った。
*
そんな中、ひときわこうばしい香りが、風に乗って甘やかに漂ってくる。
焼きたてのフィナンシェを並べた菓子店の前で、まひるの声がふわりと響いた。
『ルナリアさん……スイーツ巡りはもう諦めてますけど……あ、あれだけ……だめ、かな?』
(……仕方のない人ですわね)
――ミレーヌから包みを受け取ると、ルナリアはアルフォンスと並んで、店先のベンチに腰掛けた。
ルナリアは焼きたてのフィナンシェを、そっと半分に折る。
甘い香りがふわりと広がり、ひとかけを口元へ運ぶと、
アルフォンスも静かに手を伸ばし、残りのひとかけを頬張った。
『……うぅ、外はさっくり、中はふんわり……バターとアーモンドの香りが、もう罪です……!』
まひるの心が、静かに満たされていくのを感じながら、ルナリアはそっと目を伏せた。
ルナリアとアルフォンスは言葉こそ交わさなかった。
けれど、陽だまりの中に流れるその沈黙は、どこか柔らかい。
王子と令嬢。けれど今の彼らは、それ以上の“何か”にも見えた――。
木陰に控えていたミレーヌが、フィナンシェをひとかじり。
ひとつ息をついて、ぼそりと呟く。
「……これは、本格的に準備運動しておく必要がありそうですね」
その隣で、レイモンドがふっと苦笑を漏らす。
陽だまりのベンチの、小さな午後のひととき。
視察の名を借りたこのささやかな旅に――
焼き菓子のやわらかな甘さが、午後の空気に、そっと温度を添えていた。
***
陽射しの熱が少し和らいだころ、小麦問屋の前――。
袋の姿はなく、値札だけが風に揺れていた。
「……やっぱり、想像以上ね」
ルナリアがぽつりと漏らした。視線の先には、品切れを告げる札と、がらんとした棚。
「仲買の段階で止まっている。問屋にすら降りていないとは……。
庶民の台所にも、もうすぐ影響が出そうだね」
アルフォンスも、隣で淡々と現実を読み取っていた。
「備蓄の放出と……仲買からの直接買い上げ。
それと、雑穀や根菜を“選択肢”として提案するのが現実的でしょうね」
歩き出した二人。
そう言いながらも、ルナリアの表情はわずかに曇る。
「ただ、それで“安心できるか”は別の問題ですわ」
「そうだね。人は、“変わること”に、不安を覚えるものだ」
アルフォンスの問いに、ルナリアはわずかに息を吐いた。
「まずは、“私たち”が選ぶこと。
王族や貴族が口にする姿を見せれば、少しずつ“当たり前”になっていくはずですわ」
その言葉に、アルフォンスはふと目を細め、彼女をじっと見つめる。
「……王宮では、君の書いたメモを外すと恥をかくって噂もあるくらいだ。
畜産案のときなんて、何人も冷や汗をかいていた。 覚えてる?」
「――あら。わたくしは“当たり前のこと”を書いただけですのに」
くす、と笑うルナリア。その笑みは柔らかく、それでいて芯の強さを感じさせた。
「でも、言葉だけでは、人は動きませんわ。
誰かが先に踏み出して見せなければ、“信じる”ことさえできないのですもの」
その静かな決意に、アルフォンスは微笑を返す。
「……やっぱり、君はすごいね」
「きっと、君のような人こそ――この国を少しずつ、でも確かに動かしていくんだろうね」
ルナリアが微笑んだ――その瞬間だった。
通りの奥から、甲高い車輪の音が石畳を裂き、群衆のざわめきが広がる。
ミレーヌが「お嬢様!」と叫ぶと、すぐさま手を伸ばした。
――けれど、それより一瞬だけ早く。
「っ、危ない!」
アルフォンスが素早くルナリアの肩を抱き寄せる。
次の瞬間、通りの向こうから、荷馬車が唸りを上げて突進してきた。
石畳を削るような轟音を残し、ふたりのすぐ脇を掠めて駆け抜ける。
風圧に煽られて、アルフォンスの外套が大きく翻った。
とっさに踏み込んだ一歩――
気づけば、彼と彼女の体はぴたりと重なり、息が触れ合うほどに近づいていた。
肩を支える手。
そこから伝わる体温と、ごく僅かな震え。
(……近い)
まばたき一つの距離で、彼の横顔が視界を満たす。
胸の奥に、そっと波紋が広がった。
(この距離は……だめ)
言葉にすれば、何かが崩れてしまう。
自分の胸の高鳴りさえ、届いてしまいそうで――
彼女はただ、息を殺すしかなかった。
「……すまない。とっさに……」
「……ええ。助けてくださって、ありがとうございますわ」
離れた指先が、ほんの一瞬だけ留まったように感じた。
その刹那の余韻さえ、彼女にはうまく受け止めきれない。
ふたりの距離が戻る。
けれど、視線だけが、ほんの一瞬だけ交差した。
――それに気づいたのは、どちらだったのだろう。
*
アルフォンスは、浅く息を吐いた。
指先に残る、かすかな余熱。
(……落ち着け)
触れたのは一瞬。けれど、彼女は確かに少しだけ震えていた。
そして――その温もりに、触れていたいと願った自分がいた。
(……気づかれたか?)
否。そうでないことを祈りながら、
その想いを、黙って胸の奥に押し込める。
*
『おぉっと!? 肩、行きましたぁ……!』
『やばいやばい! 今、イベントCG来た!』
『これはもう事件ですって! 接近警報、完全に発令です!』
『社畜的にも、即・社内通報案件です!』
『選択肢、出ます? まだ・もっと・もう一回!?』
(……いいえ。これは、安全のため。そう、ただ、それだけのこと……)
視線を逸らしたまま、言い訳を重ねる。
けれど、肩に残るぬくもりと、跳ねた鼓動は――
しばらく、消えなかった。
……お願い。どうか、気づきませんように。
*
後ろから二人を見やりながら、ミレーヌがつぶやく。
「お助け頂いたことは……感謝はします」
「が……あれはもう、虫、ですね」
「ふふ、ずいぶん手厳しい」
レイモンドが、どこか楽しげに目を細める。
「お嬢様に近づく虫は、早めの駆除が肝心ですから」
「……せめて、花に集う蝶という見立てにしては?」
「……蝶のつもりでも、勝手に寄って来るなら駆除対象です」
「蝶もまた……花が実を結ぶには、必要なものでございますぞ」
レイモンドは、そんな彼女の横顔に目を細めながら、黙って歩調を合わせていた。
夕陽にはまだ早い午後の陽光が、四人の影をすこしだけ延ばす。
誰も言葉を発さぬまま、風がそっと――ルナリアの髪を撫でていった。
やがて、建物の隙間から湖面のきらめきがのぞきはじめ、一行は職人街の石畳へと差し掛かる。
風に乗って届いたのは、子供たちのはしゃぐ声。
陽だまりの中、どこか懐かしい笑い声が、街の空にふわりと溶けていった。
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