第6話「社畜と悪役令嬢と、二人の王子と約束の行方」 エピソード⑤
聖都セレスティア・城下町
スカーレ通り
──カフェ《ラ・シュエット》
アルフォンスが、そっとティーカップを置いた。
そして静かな声音で――
「午後の視察、もしよければ……ご一緒しても?」
穏やかな声。その響きに、つい――
「……構いませんわ。殿下が、よろしければ」
いつもの間合いも、沈黙もなかった。
ルナリアは、ごく自然に、けれどあまりにも素直に応じていた。
(……あ)
答えた直後、微かに胸が波立つ。
気づけば、指先に力がこもっていた。
視線を落とし、ほんの一瞬だけ、己の言葉を反芻する。
(今のわたくし……あまりにも――)
けれど、それが“何”だったのか。
言葉にするには、まだ少しだけ、心が追いつかない。
「ありがとう」
アルフォンスがふっと笑った。
――どこか、懐かしさを含んだような声音だった。
すると、アルフォンスはふいに――
子供のような仕草で人差し指を口元に立て、ひとつ、片目を瞑ってみせる。
「……殿下はだめ。今日だけは、“アル”と呼んでくれないか?」
ルナリアのまなざしが、わずかに揺れる。
記憶が重なる。
……その名前。
かつて、まだ幼かった頃――この場所で確かに、そう呼んでいた。
「ほら、アル! こちらにどうぞ」
「アル? お砂糖はひとつ? ふたつ? ……三つは、だめですわよ。殿方たるもの、節度が大事ですの」
「それにね、アル。ちゃんと背筋を伸ばして座らないと、立派な王子様にはなれませんわよ?」
「アル……もう芋虫はなし、ですわ。心臓が止まるところでしたのよ……あなた、ほんとうに王子様ですの……?」
「……もう、また黙って。ねえ、アルもなにか仰ってくださいな。ずっと、わたくしばかり喋っていても……つまらないじゃありませんの」
と。
(……いま思えば、よくもまあ、あれほど喋り続けていられたものですわね)
彼は、静かに頷いていた。
わたくしの話に、ときおり笑みを浮かべながら――それだけで、十分だったのでしょう。
「……承知しました。“アル”。今日だけは……そう、お呼びさせて頂きますわ」
ルナリアはわずかに目を伏せ、ふと、穏やかな微笑みを浮かべた。
――ああ、あの頃の彼は……いまより、ずっと無口だったのに。
アルフォンスは帽子のつばに指をかけ――一瞬、風に耳を澄ませた。
そして、気配を確かめるように、ゆっくりと目を細めた。
……その仕草は無邪気で――けれど、“計算ではない”とも言い切れない。
どこか、曖昧な色を纏っていた。
ふたりのあいだに流れた沈黙――それは、ほんの数秒。
けれどそのあいだに、ふと気づけば、周囲の空気にささやかな波紋が広がっていた。
街角のカフェ《ラ・シュエット》。
テラス席のテーブルで並んで座る美しい二人の姿は、
いつしか通りを行く人々の視線を自然と集め始めていた。
「……まあ、見て。あの子たち」
「恋人かしら? 本当にお似合いね……」
「……なんて、すてきなお方……」
スカートの裾を揺らしながらはしゃぐ少女と、その手を引く若い母親が、
通りがかりに、ふと足を止めた。
視線の先――テラス席に座るルナリアに、思わず目を奪われる。
「ママ、あのお姉ちゃん、お姫さまみたい……!」
「そうね、本当に……きれいな人ね」
通りを急いでいた配達途中の少年や、新聞を小脇に抱えた中年の紳士までもが、
足を緩め、思わず振り返る。
店の奥から出てきた給仕も、ふと立ち止まり、息を呑む。
トレーを手にしたまま、思わず視線が吸い寄せられていた。
まるで、物語のワンシーンのように。
そんな中――
「……アルフォンス様」
静かに声をかけたのは、隣のテーブルに控えていた銀縁眼鏡の老執事だった。
レイモンド・バーリントン。
先代王から仕える王家の忠実な執事。影の助言者と呼ばれる老紳士である。
立ち上がりはせずとも、軽く腰を浮かせ、わずかに頭を垂れるだけで、
“時が経っている”こと、“注目を集めつつある”ことを――
主にさりげなく告げる。
アルフォンスは癖のある金髪の下、小さく片眉を上げ、そして頷いた。
老執事はそれを確認すると、ゆるやかに姿勢を戻す。
――控える者として、見事な間合いだった。
レイモンドが何かを給仕に耳打ちし、場にさりげない気配を整える。
その気配を受け取るように、ミレーヌもそっとルナリアに目配せを送り――控えめに頷いた。
『……甘い展開はごちそうさまでしたけど、視察デートの方がメインディッシュなんですか……?』
『で、スイーツはお預け? それって、どうなんですか……!?』
まひるのツッコミは、甘くてふわふわな空気に、静かに溶けて消えた。
***
──カフェ《ラ・シュエット》
エミリー・フローレンスのお気に入りの店の一つ。
今日のお目当ては、春限定のいちごとラズベリーのタルトと、フォルナの香りの紅茶。
折角のお出かけ。めいっぱいおしゃれもした。
新調したロマンチックな白のプリーツスカートに、アッシュピンクのブラウス。
髪はいつもと違ってハーフアップにまとめ、黒髪に似合う緋色のリボンを添えて――
全体のバランスは、控えめで上品な「やわらかい雰囲気」。
鏡の前で何度もポーズを変え、角度を変え、完璧だと頷いた。
(ふふふ。これなら、あのルナリア・アーデルハイトにも負けてないわね)
これでもう、今日は最高の休日!
……だったはずなのに。
足取りも軽く小道を抜け、テラス席が視界に入った瞬間――
「……うそ、でしょ……?」
足がぴたりと止まった。
思わず、持っていた日傘がぐらつく。
一瞬、脳が情報の整理を拒否した。
“あれ”はただの幻覚だと、そうであってほしいと、本気で願った。
けれど――見間違いじゃない。
穏やかな陽差しの中、寄り添うように座る二人の姿。
ルナリア・アーデルハイトと、アルフォンス王子。
一瞬、頭が真っ白になる。
あの人みたいに、ちょっと上品で、やわらかくて――
今朝、「これならちょっとは“あの人”にも負けてないでしょ?」って思ってた自分を殴りたい。
(……無理。レベルが違う……っていうか、なんでこんなとこにルナリア様がいるのよ!)
(……? 違う違う、大事なのはそこじゃないから!)
カップを手に、穏やかに微笑み合いながら、まるで――
(……あの二人、今……デートしてる……!?)
信じがたいものを目にしたとき、人は本当に言葉を失うらしい。
エミリーはしばらく、テラスの入り口に突っ立ったまま動けなかった。
次の瞬間、ルナリアがこちらに顔を向けたような気がした。
(まずい、見つかっちゃう!!)
近くの植え込みの陰に身を潜める。
待ちなさい、エミリー・フローレンス。
平民特待生の看板はどうしたの!? 冷静に、冷静に!
そう、これは試験、いや、試練なのよ!
考えるのよ、エミリー!
(……兄の……しかも王太子の婚約者と、弟がデート!? そんなわけない)
でも、見間違いじゃない……。どう見ても、あそこだけ光の加減がおかしい。
まるで、おとぎ話の中のワンシーン。
ああ、気が遠くなってきた……。
何? これは? 貧血かしら? そうね、ほうれん草もっと食べないと……。
あの柔らかな笑顔を見て、思い出す。
――創立記念パーティーでヴィオラをエスコートしながらも、
何度もルナリアをちらちらと見ていた視線が蘇る。
(あのときも、ずっと見てた。……視線の先は、最初から“彼女”だった)
(やっぱり、ヴィオラ嬢じゃなくて、ルナリア様だった……ということ?)
そう思った瞬間、ぶわっと頬が熱くなる。
視線が泳ぎ、胸元で手をぎゅっと握りしめる。
(きっと裏があるはず。そうよ、貴族……ルナリア様のことだから――)
(これは……追いかけて見届けるしかないわね)
不穏な決意を胸に、ぐっと拳を握り締める。
そして、意を決してキッと顔を上げたときには――ー
もうテラス席は空っぽになっていた。
「――え?」
あまりにあっけない光景に、口がぽかんと開く。
(まさか……わたし、見失った?)
慌てて立ち上がろうとして、
スカートの裾が植え込みの枝に引っかかる。
「ひゃっ……!」
ビリィッ!
嫌な音とともに、スカートの裾が裂けた。
「あの、エミリーさん……?」
とっさに振り向いたその瞬間――
視線のやり場に困ったような声が、背後から聞こえた。
「だ、大丈夫ですか……?
その、スカート……裂けて……あの……見えて……」
学院の男子生徒数人。服装は普段と違うけど……多分、クラスメイト……。
(見られた……っ!)
通りすがりの親子。
「ねぇ、ママ。あのお姉ちゃん、パンツ見えてるよ」
「だめ、見ちゃいけません!」
真っ赤になるエミリー。
「……あんたたちねぇ! 女子に声をかけるなら、もう少し気を遣いなさいよねッ!」
「えぇぇ!? ぼ、僕ら悪くないよな!?」
「むしろ心配して……!」
「うるさいッ! とっとと失せなさいッ!」
ビシィッと指差しながら一喝し、
裂けたスカートを必死に押さえて、ぷいっと背を向ける。
「……次こそは逃がさないんだから……ルナリア・アーデルハイト……!」
鼻息荒く立ち去るその背を、男子たちは呆然と見送った。
「……平民の氷姫、こわっ……」
「でも怒ってるとこがまた良いよな……」
「そう……だな……かわいい……もっと怒られたい……」
「……この気持ちは、もしかして……恋……?」
「やめとけ……お前……死体の山に加わる気か……」
そんな、静かな崇拝の声だけが、彼女の足音のあとに残った。
※最後までお読みいただき、ありがとうございました!
もしお気に召しましたら、評価やブックマークをいただけると、とても励みになります。
評価・ブクマしてくださった皆さま、改めてありがとうございます!
皆さまの応援を糧に、これからも毎日更新、がんばってまいります!




