第5話「社畜と悪役令嬢と、本命になれない王子」 エピソード⑩
そして――
ようやく舞台に揃った二人の“主役”。
交わることのなかったはずの視線が、いま、真正面から重なった。
間に立つアルフォンスすら、どこか遠くに感じられるほどに。
見つめ合うのは、ただ――ルナリアと、ヴィオラ。
二組の紫の瞳が、互いを射抜くように、静かに、そしてまっすぐに交差した。
まるで世界の音が止まったかのような、研ぎ澄まされた沈黙がその場を支配する。
……それは、運命が再び動き出す音の前触れだった。
*
ヴィオラは、自分が誰の手も借りずに立っていることに――ふと気づいた。
堂々とジュースをかけ返し、誰にもひるまず言葉を返した自分。
(わたし……なんてことを……)
(なのに――胸の奥が、こんなにも熱いなんて……)
(こわかった。でも、こわくない。わたし、今……あのルナリア様と……並んでる……?)
自分の鼓動が、どくんと強く打つ。
意識していなかった視線が、目の前の“令嬢”と重なる。
「……ご挨拶が遅れました。ヴィオラ・ブランシェットと申します」
小さく、けれど震えない声。
その所作は、堂々としていた。
けれど、どこか不思議な面持ちのまま、ルナリアはふっと微笑む。
「いいえ――はじめまして、ではないわね」
「……あなたが上手だったのか、わたくしの目が鈍っていたのか――
いずれにせよ、ご挨拶が遅れてしまいましたわね」
「ヴィオラ。お久しぶりですわ」
(……え?)
一瞬、ヴィオラのまなざしが揺れる。
けれど、ルナリアのその言葉には確かな温度があった。
それは、敵意でも警戒でもなく――
ただ、“覚えていた者”だけが持つ、静かな懐かしさ。
そして――未来。
その瞬間、空気が変わった。
誰もが、その場の意味を理解できずに見守る中で――
二人の令嬢だけが、確かに同じ“何か”を感じていた。
誰のものでもない、けれど確かに“この世界の重心”が、ここにあった。
*
隣で、濡れたドレスのまま立っていたエミリーも、目元にかすかな笑みを浮かべていた。
(……はあ。まったく、この子ったら……やるじゃない)
(まさか、あんな返しができるなんてね。……少しだけ、見直したわよ)
わざとらしく目を逸らしながらも、視線の端は確かにヴィオラを捉えていた。
(本当に、“誰の下”でもなく、“誰の上”にも立たない――
ふん、そんな立ち位置、綱渡りみたいなもんよ。……でもまあ、悪くない)
このドレスは借り物。
借り物のドレスを穢されても、私自身の誇りまでは絶対に踏みにじられない。
(……それにしても、ルナリア様。
あそこでさらっと助け舟なんて、そういうところが……本当、ずるいのよ)
(別に、感謝してなんか、しないけど……)
鼻を鳴らしながらも、シャンデリアのきらめきを見つめるその目は、
どこか柔らかかった。
――この夜、舞台袖から飛び出した少女に、ほんの少しだけ、光が当たった。
物語の筋書きが変わるとすれば――
それは、彼女がただの“脇役”でいられなかったからかもしれない。
*
喧騒から離れたテラス。夜の風が、頬を優しく撫でていく。
足元では、水面に映るシャンデリアの光が、ゆるやかに揺れていた。
ルナリア・アーデルハイトは、手すりに身を預けながら、
ほんの少しだけ目を閉じた。
(ヴィオラ嬢……綺麗でしたわ)
アルフォンスに手を取られた少女。
会場に立ち尽くす令嬢たち。
そして、凛として諭したヴィオラの横顔。
(……あの場に立てるだけの、覚悟と品格がありましたわ)
(彼女もまた、“強い”女性ですわね)
グラスの中で、氷がひとつ、淡く高い音を立てる。
*
テラスの空気に、夜の冷たさがゆるやかに差し込んでいた。
「――少しは涼めた?」
その声は、会場のざわめき越しに背後から届いた。
ルナリアは、肩越しに振り返る。
振り返った先――
月とシャンデリアの光を背に立つアルフォンスの姿に、思わず呼吸が止まりそうになる。
(……綺麗……)
そう思ってしまった自分に気づき、ルナリアはすぐに目を逸らした。
冷たい夜気のはずなのに、胸の奥に熱が滲んでくる。
その熱を振り払うように、彼の名を声にだしてみる。
「アルフォンス……殿下……」
呼びかけたその瞬間、彼の睫毛が一瞬だけ揺れた。
そして、手にしたグラスを軽く傾けながら――
アルフォンスは唇に、柔らかな笑みを浮かべる。
「まだ“アル”とは呼んでくれないんだね」
気さくさを装った声色に、ひとしずくの寂しさが混ざっていた。
だがそれは、予想通りの距離感を確認する安堵にも見えた。
まるで――
この瞬間を、最初から織り込み済みだったかのように。
ルナリアは微かに瞼を伏せ、風に揺れるドレスの裾を片手で押さえる。
「でも、すごかったね。ヴィオラ嬢のあの姿?」
語りかける声は、まるで何気ない賞賛。
けれど、その瞳の奥では――底知れぬ鋭さが、彼女の返答を待っていた。
「ええ……見違えるほどでしたわ」
ルナリアの声は穏やかに落ち着いていた。
「誇らしい……というより、なぜか少し懐かしい気持ちになりましたの」
その瞬間、夜風がふわりと二人の間を通り抜ける。
静かな余韻が流れる。
芝生を駆けていた、かすかな記憶の匂いがよみがえるように。
「そして、彼女の隣に立つ君――」
アルフォンスの瞳が細められる。
「僕には、どこか懐かしく感じられた」
ルナリアの睫毛がわずかに揺れた。
テラスの灯が、二人の横顔を淡く照らす。
その光の中――
「――わたくし、思い出しましたの」
彼女の声は、すっと空気を貫いた。
グラスの中で揺れる氷が、また一つ小さく音を立てる。
アルフォンスの指がグラスの縁をなぞるように動き――
その表情が、一瞬だけ、ほんのわずかに緩む。
けれどそれは、他人に気取らせぬ、満足の陰影のようだった。
「……続けてくれるかい?」
声色は変わらない。
けれど、その瞳の奥で何かが静かに灯った。
「春の庭園で――」
ルナリアが顔を上げ、まっすぐに視線を向けたその瞬間。
柔らかな月明かりが、彼女の金糸の睫毛と淡く光を湛えた紫の瞳にそっと降り注ぐ。
思わず、アルフォンスの青い瞳が引き寄せられる。
(……ルナ……やはり、君は綺麗だ)
言葉にはしないが、その美しさに一瞬だけ思考を奪われる。
心のうちに抱えている何もかもが、その一瞬だけは霞んでいた。
ルナリアは、その瞳をアルフォンスに向けたまま続けた。
「花咲く芝生の上で遊んでいた、あの記憶。
わたくしとラファエル様、シャルロット様、あなたと……」
「そして――彼女も一緒にいましたわ」
その言葉の端々に、微かに震える温度が宿っていた。
アルフォンスは、ゆっくりと目を細める。
笑みの輪郭はやわらかい。
けれど、その口角には、確かな達成の痕があった。
「そうか……思い出してくれたんだね、あの春の日を」
音のない溜息のような言葉。
だが、その響きには――彼の期待していた何かが芽吹いた音が確かに含まれていた。
「……じゃあ、あのときの“約束”も――忘れてないよね?」
それは、静かに投げられた誘いの糸。
ルナリアの指が、手すりを握り締める。
「約束……?」
淡く眉がひそめられ、月の光に照らされた彼女の頬に、迷いの影が落ちる。
「わたくし、何か殿下とお約束を……?」
その問いに、アルフォンスは少しだけ微笑んだ。
その笑みは柔らかい。
まるで、その先の言葉を優しく封じるための笑みのようにさえ見えた
「――なんでもないよ。忘れてくれてて、構わないさ」
その一言は、核心を濁すという形で、彼の心をさらに深く覆い隠す。
そして――
「じゃあ、また」
踵を返すアルフォンスの背中に、風がそっと回り込む。
月明かりに、彼の外套の裾がふわりと持ち上がった。
それはまるで――
「すべてはこれから」だと語る、少年の王子の背中だった。
ルナリアは、言葉を失ったまま、その背を見送る。
けれど、胸の奥に、たしかに波紋が残る。
「……何か、変ですわね……」
そっと呟かれた声。
静けさの中に、目覚めきれない記憶が、ざわりと揺れる。
(……たしか、あの春の日。誰かと、何かを“誓った”ような……)
(……それは、とても大切で、決して口にしてはならない“なにか”だった……)
けれど、確信はまだ掴めない。
白い指先が、胸元のペンダントへとそっと触れられる。
その瞬間――
空を滑る風が、香り立つ花の匂いを運んできた。
ペンダントが、月の光に照らされ、淡く、ひとすじだけ煌めく。
それは、まだ言葉にならない記憶の輪郭。
夜の帳の中、静かに眠っていた物語が――
ほんの少しだけ、目を覚ました。
*
背中に、そっと注がれる視線を感じながら歩く。
(……僕は、やり切れるのだろうか)
そう思うと、思わず視線を足元に落とした。
彼女の光を湛えた淡い紫の瞳。
凛として響き時に儚げに囁く声と、それを紡ぐ唇。
銀を帯びた金糸の髪と、震える睫毛、そして、何よりもまっすぐな心――
それらに触れるたび、どこかで、自分の芯まで覗かれている気がする。
問いかける側だったはずの自分が、
気づけば、少しだけ、脆くなっていることを感じながら――。
*
そして――ふわりと浮かぶまひるの声。
『ふ、ふーっ……ルナリアさん、そろそろいいですか? 発言の許可、いただけます?』
(……もちろんですわ。 なにか気になることでも?)
『あの……あの“約束”って、結局なんだったんでしょう?』
『殿下は覚えてる感じなのに、ルナリアさんは思い出せなくて……
でも“忘れていい”って、絶対に何かあるやつじゃないですか!』
(……たしかに、少し引っかかりますわね)
『ていうか、思い出しかけてるのに出てこない記憶って、一番気持ち悪いやつですよ……』
『資料のどこかにメモしたのに、
フォルダ名が「新しいフォルダ(8)」になってるせいで見つからない、あの感じ……!』
(……あなた、前世でも大変だったのね)
『ほんと、重要なことに限って曖昧なまま埋もれるの、やめていただきたい……
あれですか? 思い出すには再現実験あと3セットぐらい必要な感じですか?』
(おっしゃること、すべてはわかりませんが……)
ルナリアはふ、とわずかに笑みを浮かべた。
(……思い出したとき、後悔しないように――
わたくしも、自分の記憶と向き合ってみますわ)
月の光が、再びペンダントを優しく照らした。
その輝きは、まだ見ぬ答えへと続く、小さな導きのように――。
『ううっ……ルナリアさん……尊すぎて泣けてくる……』
『それです、それ! “思い出したとき後悔しないように向き合う”って、
上司に「なぜ今になって過去のデータを見直すの?」って言われたときに、
「将来、後悔しないためです」って言い返せるメンタル、わたしにもください……!』
(……そんな場面、あるんですの?)
『ありますとも! 過去の実験ノート、
全部スキャンした上にOCRでテキストに落とした女の執念、なめんなよって話です!』
ルナリアはふっと、わずかに目を細め、ほんの少しだけ微笑んだ。
胸の奥で、何かが――確かに、目覚めかけていた。
*
その夜――
誰もが笑っていた。
誰もが微笑み合っていた。
けれど、笑顔の奥では、もう誰もが気づいていた。
“宴”の幕は静かに下りていく。
けれど、“物語”という名の舞台は――今、ようやく幕を上げたばかりだった。
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