第5話「社畜と悪役令嬢と、本命になれない王子」 エピソード⑦
王立学院・大講堂
拍手が会場を包む中――ヴィオラは走り去り、取り残された空気に、ざわめきだけが残った。
(……ヴィオラ・ブランシェット)
その名を反芻した瞬間、ルナリアの瞳に、わずかな影が差した。
彼女は平民の制服を着ていた。平民枠の生徒のはず。
だが――その名前は、不自然だった。
(ブランシェット、ですって……?)
五大公爵家の一角。
アーデルハイト同様、何代にもわたり王室に仕えてきた、貴族中の貴族。
平民枠の少女が、なぜ“あの家名”を持つの?
考えられることは一つだけ。
(まさか、彼女は庶子――?)
庶子――正嫡ではなく、家名を継ぐことも許されぬ、貴族の影。
……だからこそ、陽の当たる場所には立てないはずの存在。
(彼女が……あの時の子)
泥にまみれた奉仕日。
小さな手で差し出された、あのスコップ――
(気づけなかった……。目の前にいたのに……)
(わたくしは……なんて、高慢だったのでしょう)
けれど、それを、口にすることはできなかった。
一つの記憶が、繋がった。
まだ……ある。
その胸に、名状しがたいひっかかりが残る。
まるで、忘れかけていた旋律の一節のように。
記憶の奥、春の風の中で掻き消されるような、遠い景色――
花咲く庭園。陽だまりの芝生。そして、誰かの、小さな影。
ラファエル。アルフォンス。シャルロット。そして――わたくし。
……それだけではない。
あのとき、いつも遠くからこちらを見つめていた――紫の瞳。
(わからない……)
ただ、まっすぐに壇上を見つめる。
ルナリアの静かな告白を、まひるはそっと心の中で聞いていた。
……そうだよね。あの時のこと、忘れてなかったんだ。
ううん。高慢なんかじゃないよ……やっぱり、あなたは優しい人だ。
それから――ヴィオラちゃんって、“庶子”だったんだね……。
でもなんだろ、この展開……乙女ゲー的に、どこかひっかかる……気のせい? いや……うーん。
見つめ返してくるその王子も――
そして、走り去ったあの少女も。
いま、この瞬間、それぞれの“物語”を動かし始めていた。
***
王立学院・大講堂
控え通路
式典から逃れるように、ヴィオラ・ブランシェットは駆けていた。
礼拝堂を模した厳かな石造りの通路。 誰もいない静寂の中を、彼女の靴音だけが響く。
(どうして、どうして……)
名を呼ばれた瞬間、頭の中が真っ白になった。
祝賀の中心から最も遠い場所にいたはずなのに、
あの王子の一言が、すべてを変えてしまった。
(目立ちたくなかった。誰の記憶にも残らずに、そっと卒業するはずだったのに……)
額に汗が滲む。視界が霞む。ただ、逃げるしかなかった。
校舎裏の中庭。 白い噴水の傍まで来て、ようやくヴィオラは足を止めた。
花壇の傍に腰を下ろし、肩で息をしながら、心を落ち着けようとする。
――いつも、ヴィオラが一人で手入れしている花壇。そして、スコップを手渡した場所。
(なんで……あの人は、私を……)
思考がまとまらず、ぐるぐると巡る。
「――落ち着いた?」
その声に、ヴィオラの肩が跳ねた。
振り返ると、そこには白い礼装に身を包んだ少年。
癖のある金髪が揺れ、口元には、いたずらっぽい微笑みが浮かんでいた。
――アルフォンス・エリディウス・セレスティア。
「………… どうして」
ヴィオラは、かすれた声で問う。
「どうして、私の名前を呼んだの……?
私……ただスコップを渡しただけ、なのに」
アルフォンスは、ふと空を見上げて――それから、笑った。
「君は“ただ”って言うけどね。
君の“ただ”が、誰かの“最初の一歩”になることだってあるんだ」
「そんなの、望んでない……私は、目立ちたくなんて……」
「じゃあ、君はなんであの日、スコップを差し出したの?」
ヴィオラは言葉に詰まった。
「あのとき、誰かが彼女に手を差し伸べるなんて、誰も思ってなかった。
君はそれを、やったんだ。
それが誰かに光を与えたなら……その行為に価値がないなんて、僕には言えないよ」
沈黙が落ちる。
ヴィオラは視線を伏せ、噴水の水音だけが二人の間を満たした。
「……そんなこと、言われても……私は、そんな……器じゃない」
「器……ね。
だったら、今はそれでいい。
君が“自分の名前”を受け入れる準備ができたら――また、話そう」
そう言って、アルフォンスは背を向けた。
振り返らず、ただ一言だけを残して。
「逃げてもいいよ。……でも、忘れないで」
「君が望むなら……その舞台、僕はちゃんと隣に立ってるよ」
その背中は、まるで彼女の“これから”を否応なく期待しているように、遠ざかっていった。
ヴィオラは、手をきつく握った。
逃げたはずなのに――足元の地面だけが、やけに熱を帯びて感じられた。
ぽろりと落ちた声は、誰に向けたわけでもなかった。
「……あの人、一人で立ってたの。
……誰かが、手を伸ばさなきゃって……それだけ、だったのに」
自分でも、どうしてそんなことを言ったのか分からなかった。
誰に届くわけでもない、ただ胸の奥に引っかかっていた言葉が、こぼれ落ちただけ――。
*
「ふぅん。……案外、見どころあるじゃない」
その声は、噴水の向こうから届いた。
ヴィオラが驚いて顔を上げると、そこにいたのは黒髪の少女――エミリー・フローレンス。
腕を組み、壁にもたれながら、まるで舞台の袖から芝居を眺めるような目をしていた。
ヴィオラは思わず肩を小さくして、小さく震える声で問いかけた。
「……エミリー……さん? ……全部、見てたんですか……?」
「見てたのよ。登壇から逃げるところも、王子様との会話も。
まあ、つまらなかったら途中で帰る気だったけど――
……最後、ちょっとだけ、良かったわ」
エミリーは肩をすくめて歩み寄る。
「あなたさ、どうせこの先“また目立たないようにします”とか言うんでしょ?
でもね、今さら無理よ。だって、あなたの名前、学院中に響いちゃったから」
「まあ、あの時はね。正直、“余計なことするな”って、ちょっとだけムカついてたけど」
「…………」
「でも……このまま黙って引っ込んだらさ、あの王子の“慈悲深いお遊び”と、あの公爵令嬢の“理想ごっこ”に、見事に飲み込まれるわよ」
「あの二人に舞台を独占されるのって、ちょっと癪じゃない?」
「それに、貴族の“優しさ”なんて、信じてない。
庶民に手を差し伸べて満足するなんて、どこまでお上品な道楽かしらね」
「でも――あの場にいたの、あなたでしょ?
だったら、その一歩に、あんた自身の意味をつけてやんなさいよ」
ヴィオラは、目を見開き――小さく息をのんだ。
「私は嫌いなの、そういうの。
自分のセリフすら、誰かに書かれる人生なんて、まっぴら」
エミリーは、にやりと笑う。
「どうする? あなたも、そろそろ“自分のセリフ”で舞台に立ってみたら?」
春風が吹き抜け、花壇の花々と、ヴィオラの銀の混じった栗色の髪をやさしくゆらす。
ヴィオラの中で何かが、音を立てて揺れ動いた。
返事を待たずに背を向け、どこか拗ねたように歩き出すエミリー。
……例によって、足元の石に軽くつまずいた――
「……負けるもんですか」
そう言って地面を睨みつけると、なぜか一瞬だけヴィオラを振り返り――
すぐにまた背を向けて、呟きながら足早に去っていった。
「……次の包囲作戦、考えなきゃ……っていうか……ぶつぶつ……」
その後ろ姿を見つめながら、ヴィオラの口元にふわりと浮かんだ笑顔は、
ほんの一輪、春に咲く野の花のように、あたたかかった。
胸の奥で、何かが少しだけ、ほどける音がした気がした。
……それは、誰にも内緒である。
*
ひとり残されたヴィオラは息を整え、制服の胸元をきゅっと握る。
(私は……ブランシェット家の庶子。
誰からも期待されず、誰にも気づかれず、ひっそりと隅で咲いていればよかった)
(でも――)
まぶたの裏に浮かぶ、あのときの令嬢の背中。
スコップを握って泥にまみれて、それでも凛と立っていた姿。
(もし、あの人が“輝く月”なら……)
(私は、その光の陰にひっそりと咲く花でもいい。でもせめて、咲いたということだけは、自分の言葉で……)
ヴィオラは顔を上げた。
(誰かの脚本じゃない。
これは――私の選ぶ舞台。私の選ぶ言葉。
そして、私の名を……私自身が受け入れるための、一歩)
深く息を吸うと、中庭を後にする。
もう、逃げる理由はどこにもなかった。
その背中に、春の風がふわりと追い風のように吹き――
彼女が守ってきた花壇の白い花々が、そっと揺れた。
その中のひとつのつぼみが――静かに、けれど確かに、咲いた。
それは、誰にも気づかれない、小さな“始まり”だった。
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