第5話「社畜と悪役令嬢と、本命になれない王子」 エピソード⑤
王立学院・講堂(放課後)
賑わいの余韻を残した講堂が、夕刻の静けさへとゆるやかに移り変わっていく。
生徒たちが帰り支度を整え、三々五々と講堂を後にする中、
ルナリア・アーデルハイトもまた、静かに手袋をはめ直していた。
ふと視線を上げれば、講堂の出入口――
白の制服を纏ったアルフォンス王子が、机に腰掛けていた。
その周囲には、いつの間にか生徒たちの輪ができている。
彼は中央にいながらも、決して“中心”ぶらず、
あくまで“等身大の一人”として。――けれど、その場の空気は、確かに彼のものだった。
生徒たちの会話には、ちょっとした噂や日常の話題が、自然と織り交ぜられていた。
授業の話、先生の裏話、購買の裏メニューの話――
アルフォンスはそれらを一つ一つ、まるで宝石を拾うように丁寧に聞きながら、
笑ったり驚いたり、時折さらりと「そういうの、すごく大事だと思うんだ」と呟いたり。
その様子は、王子という立場を超えて――開かれた王族の姿、そのもののようだった。
「へえ、購買のサンドイッチって、水曜だけ“ハーブチキンと熟成チーズのカスクート”になるのかい? それは見逃せないね」
「僕もカスクート、大好きなんだ。あの歯応えに、ちょっとした塩気――たまらないよね」
「先生方にも密かに人気で、鐘が鳴った途端に走らないと、すぐに売り切れてしまうんです」
「なるほど。争奪戦ってわけだね。……次の水曜、僕も参戦しようかな」
「殿下が……サンドイッチ争奪戦に……?」
「“殿下”はナシでお願いするよ。“ただの生徒”さ。ね?」
軽くウインクを交えたその一言に、春の陽射しのような笑い声が広がる。
そこに“王家の威厳”の色はない。
彼の声はあくまで柔らかく、親しみを帯びていた。
「身分とか家柄とか……それだけで“どう接すればいいか”決められるのって、窮屈だよね」
「僕は、目の前にいる“その人”が、どんな人なのか――
それだけを、出来るだけ大事にしたいと思ってるんだ」
その言葉に、一瞬、輪の中の数人が、驚いたような目を向けた。
けれどアルフォンスの視線は、ふと輪を離れ――
俯いたまま、息をひそめるように静かに座る、一人の小柄な少女へと向けられていた。
人の輪が出来た講堂の出口を、時折ちらりと見る。
身を小さく縮め、ぎゅっと手を握りしめる様子は――
人目を避けるように――講堂が静まるのを、じっと待っているようだった。
その肩が、アルフォンスの言葉にほんのわずかに揺れたのを――彼は見逃さなかった。
(……うん。彼女にも、ちゃんと届いたみたいだ)
そして彼は、何事もなかったかのように、さらりと話題を切り替えた。
「そういえば、王族用の寄宿舎には、専用の食堂があるらしいんだけど……」
「今度、みんなを招待しようかと思っているんだ。来てくれるかな?」
「本当ですか!?」「きゃー!?」「絶対に行きます!」「うぉおお、アルフォンス様!」
講堂の空気が一気に華やぐ中――微塵も臆することなく、完璧な所作で目の前を出口へと通り抜ける一人の少女。
アルフォンスは、歓声に紛れながら、ほんの少しだけ視線をその少女――
ルナリア・アーデルハイトに向けた。
そして、そっと片手を上げて、微笑みを送る。
だがルナリアは――
視線を向けることすらなく、一分の隙もない足取りで、ただ通り過ぎていった。
その瞳には、確かに微笑みがあった。
けれど、そこに温度はなかった。
彼女は、気づいていた。
それでも――気づいた“うえで”、ただ静かに通り過ぎた。
「あの、アルフォンス様、学院の七不思議って聞いたことありますか?」
「いや、初めて聞くよ。それは実に興味深いね。是非聞かせてほしいな」
「はい! まず、一つ目は、音楽室の……」
生徒たちの声を耳にしながら、アルフォンスは、ルナリアが消えた出口へ視線を向け――
心の中で、そっと呟いた。
(……ふふ。まだまだ打ち手が必要だね。でも、響く言葉は――それぞれに違うものさ)
***
講堂を後にして歩くルナリア。
寄宿舎へと向かう中庭の白い石畳の途中で、ふと足を止めた。
春の花が咲き誇る中庭の一角――
一際美しく花を咲かせる花壇が目に留まった。
その花壇には、雑草ひとつなく、丁寧に、でもひっそりと誰かの手が入っている。
泥にまみれた奉仕日。
花壇の前で、そっとスコップを差し出してくれた下級生――
あの子が、そっと背中を押してくれた。
(……あの時の子)
ふと、記憶の奥に触れる。泥だらけの奉仕服。差し出された、小さなスコップ。
(……“スコップをくれた子”――なぜか、彼女のことを考えると胸がざわめく)
ルナリアは、花壇の前でふと立ち止まったまま、何かを探すように空を仰いだ。
(……もしかしたら……昔どこかで……)
(あの時は気が付かなかったけど……もしそうなら、わたくしは――)
口に出しかけて、やめる。
喉の奥に、何かが引っかかったような感覚だけが残る。
一歩、また一歩――記憶の中を遡るように足元を見つめてみても、
思い出は、まるで乾いた砂のように、指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていく。
(どうして……こんなに思い出せないのかしら)
(でも、あの奉仕日に見た、わたくしと同じあの紫の瞳だけは――確かに、記憶のどこかに……)
春風がひとしきり吹き抜ける。
花壇の花々がそっと揺れ、甘やかな香りがかすかに鼻先をくすぐった。
けれどその香りは、どこか“懐かしさ”よりも、“不安”を孕んでいる気がして――
ルナリアは静かに目を伏せた。
言葉を残さずに――その場を、静かに後にした。
――花壇の片隅に、名もなき花がひとつ、咲いていた。
あの時と変わらず、微かに揺れる春風だけが、その名もなき花をふわりと撫でていた。
***
王立学院・寄宿舎
ルナリアの私室(夜)
少し開いたカーテンの隙間から月の光が差し込み、琥珀色のランプの灯がゆらゆらと揺れていた。
軽やかなカップと皿の音。
テーブルにはハーブ香る夜のお茶と、果実を添えた軽い夕食。
窓の外からは夜風がすり抜け、レースのカーテンがふわりと揺れるたび、どこか甘い草花の香りが室内に漂った。
白いエプロンドレスの侍女――ミレーヌが、音もなく給仕を終え、深く一礼した。
「明日の王立学院創立記念日、準備はすべて整っております」
「ありがとう、ミレーヌ」
ナイトガウンのルナリアはティーカップをくるりと回しながら、静かに答えた。
けれど、その動きにはほんのわずか――思考の“滞り”があった。
「明日は……きっとまた、騒がしくなりますわね」
「はい。例年通り、貴族の子息令嬢たちの“理想的な交流”という名の綱引き劇が始まりますので」
「お嬢様には、明日の朝も“いつも通り”完璧にお目覚めいただき、
華麗に夕方の祝賀会も制していただければと――僭越ながら、期待しております」
まるで毒を飴に包んだような口調で言いながら、ミレーヌは器用にフルーツの皮をむき始める。
腰元のリボンがリズムを刻む。
「……ずいぶん楽しそうですわね?」
「いえ。お嬢様の平常運転を信じているだけでございます」
ルナリアは、くすっと笑いながらカップを口元に運び、目を伏せる。
(“いつも通り”……それが、どれのことだったか。
最近は、少しずつ、わからなくなってきましたわ)
そのままカップを口に運ぼうとしたとき――
『それにしても、今日は情報密度が高かったですねぇ……』
――脳裏に、まひるの気の抜けた声が響いた。
『アルフォンス王子の“登場と同時に空気持っていく系イケメン”っぷりと、
狙ったように完璧な挨拶回し……あれ社内プレゼンだったら100点ですよ』
(……プレゼン、ですの?)
『おまけに、静かで平和なはずのランチに急接近イベント発生とか……
完全に新攻略対象ルート突入でしたね』
『しかも、ちゃんと頬染めるとか、ルナリアさん、ヒロイン力ぱない!』
(……染めてなどいませんわ)
『はいはい、でも少し楽しそうでしたよ――
生存のために鍛え上げられた社畜センサーはごまかせません!』
(ふふ……それは……否定しませんわ)
ルナリアはそっとカップを傾け、香り高いお茶で喉を潤した。
『それにしても……なんというか、今日は“次に進むための一日”って感じがしましたね。
きっと明日、何かが動きますよ。乙女ゲー的にはワクワクしますけど、
社畜的には胃が痛くなるやつ。
ほら、“新開発商品の役員プレゼンを控えた夜”みたいな!』
ルナリアはティーカップをそっと置き、ランプの灯が映る窓辺に歩み寄った。
カーテンの隙間から覗く夜の庭園。
夜風が少し冷たくなり、遠くの方でどこかの鐘が、静かに響いていた。
その肩に、ひとつの温もりがふわりと添えられる。
「夜気が冷えてまいりました。お召し物を」
ミレーヌが、黙ってカーディガンを肩にかけてくれる。
柔らかな手つき、香の移るほど静かな所作――その手は、何も問わず、ただ傍らにあった。
ルナリアは一拍の沈黙ののち、小さく口を開いた。
「……ありがとう、ミレーヌ」
ルナリアが小さく礼を告げると、ミレーヌはふっと微笑み――
毒にも蜜にも聞こえる声で返す。
「お嬢様に風邪など召されますと、学院の品格と朝の準備が、同時に瓦解いたしますので」
「……随分と心配してくれるのね?」
「もちろんでございます。
ミレーヌにとって、お嬢様は――厄災であり、誇りであり、背負うべき運命ですので」
(ほんとうに……手厳しい侍女ですこと)
そして、微笑みながら、じっとランプの炎のゆらめきを瞳に映す。
(……わたくし、いつの間にか……二人と過ごすこんな時間に救われているのかもしれませんわね……)
まひるの返事はなく、『すや~』と寝息だけが胸に響いた。
(ふふ……いつも突然ですのね。これも、“社畜流”というものなのかしら)
ルナリアは、くすりと笑みをこぼした。
(それにしても、そうね。ほんとうに……何が起きるのかしらね)
胸元のペンダントが、月の光を受けてほのかにまたたく。
夜は静かに、しかし確実に――明日へと進んでいく。
幕が上がる前の静寂。
王立学院創立記念祭の前日――
何者かによって筋書かれた舞台に、登壇予定の役者たちが――
静かにその位置につきはじめていた。
そして――運命の歯車は、回り出し、加速する。
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