第5話「社畜と悪役令嬢と、本命になれない王子」 エピソード③
王立学院・講堂――
午前の講義が終わりを迎えようとしていたそのときだった。
講堂の重厚な扉が、“音もなく”ゆっくりと開いた。
まるで、何か異質なものが空間に滑り込んだような、ひやりとした沈黙が走る。
教員のエリオット教諭が扉の前に立ち、その後ろから、ひとりの少年が歩みを進めた。
階段状に広がる円形の講堂――
その最上段、貴族席に座すルナリア・アーデルハイトは、自然とその姿に目を向けていた。
壇上へと歩を進める少年。
その歩みは、静かでありながら、確かなものだった。
まるで――ここに来ることが、ずっと前から決まっていたかのように。
教壇に立ったエリオットが、低く告げる。
「――皆さん。本日は特別な紹介があります。
新たにこのクラスに加わる“転入生”です」
「――紹介しましょう。アルフォンス・エリディウス・セレスティア殿下です」
「セレスティア」――その名が、講堂全体に響いた瞬間。
空気が変わった。
ほんの一秒前まで、ただの講義室だったはずの場所が――
一転して、王宮の謁見室のような厳粛さに包まれた。
誰もが知っている。
この名が、“どんな意味”を持つのかを。
――王族。
しかも、王宮にあって公の場には殆ど現れないと言われる、
“最も謎めいた”存在。
「えっ……第二王子……?」
「……まさか、学院に、しかもこのクラス……?」
「なんで、今になって……?」
誰かの小さな囁きが、次第に波紋のように広がっていく。
最上段から見下ろしていたルナリアも、息を止めるようにして彼を見ていた。
(……“アル”、本当に……来たのですね)
一瞬、ざわつく講堂。
けれど、そのざわめきも、すぐに言いようのない静けさに呑み込まれた。
少年が一歩、前へと出た。
白を基調とした制服に、控えめな金の装飾。
整った顔立ち。癖のある金の髪と、深く澄んだ青の瞳。
だが、なにより――その瞳の奥にある、“断絶された何か”が、空気を張り詰めさせていた。
しかし――
「――ご紹介にあずかりました、アルフォンスです。
王族……って肩書きは一応あるけど、僕はラファエル兄さんのように、
“将来の王”として期待されてるわけじゃあない。
そう、言うならば、もっと気楽な立場なんだ。
……だから、どうか過剰な敬意や、妙な気遣いはナシでお願いします。
間違っても“殿下”なんて呼ばないで欲しい。くすぐったいからね」
いたずらっぽく笑うアルフォンスに、ぱらぱらと小さな笑いがこぼれる。
「……あ、でも、美味しいパン屋さんの情報とか、噂話なんかは大好物なんだ。
この学院で、みなさんと“同じ目線”で学べたらと思っているから、よろしく。
学問も、日常も、恋愛模様も――なるべく、リアルに観察できる距離で」
一瞬の沈黙。
誰かが小さく息をのんだ、その刹那。
次第に、講堂のあちこちから、ぽつりぽつりと拍手が起こり――
やがてその波は広がり、アルフォンスは満場の拍手と笑顔に包まれた。
彼は、軽く片手を上げて応える。
――王族らしからぬ余裕。
場の空気を軽々と掌握しながら、
それでいて“まるで気にしていない”ように振る舞う姿。
その飄々とした態度に、講堂の空気はすっかり彼のものとなっていた。
壇上のアルフォンスは、そんな空気の中で、ふと視線を上げた。
一瞬、遠くにある最上段の一角――紫の瞳に目が留まる。
ほんの一秒。
それはあまりに短く、誰の記憶にも残らないような、ささやかな間だった。
けれど――ルナリアは、その視線を確かに受け取っていた。
(……“アル”。あなた……何を考えているの……?)
『ルナリア……さん?』
まひるもまた、どこか引っかかるものを感じながら、
それが何なのか――今はまだ、言葉にできなかった。
ルナリアは、ふと胸元のペンダントに手を添えた。
理由はない。ただ、なぜか――そうしたくなっただけだった。
次の瞬間。
アルフォンスは静かに目を逸らし、
微笑みをそのままに、拍手を浴びながら最上段の空席へと歩き出す。
まるで――彼女と視線を交わしたことなど、最初からなかったかのように。
だが、歩を進める途中――
アルフォンスはふと、講堂の隅に目を向けた。
その先にいたのは、一人の少女。
そこだけ拍手が届かなかったかのように、静まり返った空間。
制服の袖を震える手でぎゅっと握り、誰の目にも留まりたくないかのように身をすくめている。
――まるで、講堂の空気とは“別の時間”を生きているかのように。
彼女を見たアルフォンスの瞳が、わずかに揺れる。
けれど、すぐに歩みを再開し、何事もなかったように、ルナリアの並びの席へと腰を下ろした。
『……今、誰を……?』
まひるが、不意に感じ取った奇妙な胸騒ぎ。
だが、その正体を掴む間もなく――鐘が鳴った。
昼休みを告げる、学院の正午の鐘。
再び、世界が動き出す。
講堂に響くその音の中、
少女と少年――交わるはずのなかった気配が、ただ静かに、その場に残された。
***
講堂の隅、目立たぬ位置。
そこに座る黒髪をきりりと結い上げた平民特待生
――エミリー・フローレンスの瞳は、いつものように鋭く光っていた。
思い出すのは朝の黒い馬車と金髪の少年、それから――ルナリア・アーデルハイト。
(……また何か、面倒な風が吹いてきたみたい)
まもなく講義は終わり、昼休みだ……。
頭を切り替えてお昼はどうしようかと思案していると――重々しい扉が、ゆっくりと開いた。
ざわ……ざわ……。ひやりとした静寂が、その波をさらっていく。
姿を現した少年の名が響いた瞬間、空気が一変する。
「アルフォンス・エリディウス・セレスティア殿下です」
(はぁ……出ました、“王子様ご登場”ってやつ)
白の制服に金の装飾。癖のある金髪。深い青の瞳。
エミリーは冷ややかに鼻を鳴らした。
(ふん……どうせ“王子様の学院生ごっこ”)
(またみんなチヤホヤして……あんなの、信用できるわけないでしょ)
講堂のあちこちから、小さなときめきの息が漏れる。
エミリーは視線だけで、それを斬るように眺めた。
アルフォンスが壇上に立ち、軽妙な口調で語り始める。
「パン屋さん情報、募集中――」
「“同じ目線”で、噂話や恋愛模様も観察したい」
(……“同じ目線”とか……本気で言ってる?)
(こっちは必死で這い上がってきたってのに、何? パン屋? ふざけてるの?)
表面上は“親しみやすい王子様”。
でもエミリーには、それが空々しくてたまらなかった。
拍手の波が、次第に講堂を満たしていく。
周囲の平民生徒たちも、目を輝かせて手を叩いた。
拍手に紛れて、軽く手を打つ。形だけは。
(あー、どいつもこいつもチョロい)
(そんなに目を輝かせちゃって……)
ふと、彼の視線がひとつの場所に向かうのを見た。
ルナリア・アーデルハイト。
“完璧な婚約者”であり、エミリーにとっては因縁そのもの。
(……チッ。やっぱり、あの女と関わる気?)
(“兄の婚約者”に今さら興味とか……趣味悪いわね)
だがその視線は、ほんの一瞬で逸れた。
アルフォンスは、何事もなかったかのように歩き出す。
そして――
アルフォンスの視線が、ふと、もう一度止まった。
(……え……)
誰かのうつむく気配。
通路際の席で、制服の袖を震える手でぎゅっと握り、存在を消すように座っていた平民の少女。
(あれ? すごく……かわいい……なんだか、守ってあげたく……)
思わず、頭をよぎった考えに、小さく頭を振る。
小さくて、細くて、けれど驚くほど整った横顔。
知らない顔。名前も……知らない。
(誰? あんな子、いたっけ……?)
アルフォンスの視線が、ほんの数秒――彼女に留まる。
(……見てた。確かに、あの子を見てた)
自分のすぐ近くを通ったのに、まるで風みたいに素通りして――
止まったのは、その知らない子。
(わたしの前を、何もなかったみたいに――通り過ぎて)
胸の奥に――
静かな棘のようなものが、そっと刺さった。
嫉妬? 焦り? 怒り……?
――違う。もっと、得体の知れない。
まるで、胸の奥がふっと撫でられるような、やわらかい感情。
(……なに、あの感じ)
(気に食わない……のに、なぜか……)
その瞬間、エミリーの中に名前のない“何か”が芽生えた。
無言のまま彼女を見つめる視線は、もはや敵意ではなかった。
ただ、知りたいと思ってしまった。
「――あの子、いったい……誰なの?」
講堂のざわめきが戻る中、エミリーだけが沈黙の中に取り残された。
誰にも気づかれない場所で、たったひとり、彼女だけが“何か”を見つけていた
――それだけのはずだった。
少女を見つめるエミリー。
ふと、視界の中で何かがぼんやりと動いているのに気づいた。
(ん……?)
形の良い眉が、ぴくりと寄る。
視線の先――ぴょこぴょこと落ち着きなく動いていたのは……
「あ、あの、エミリーさん!!」
「……えっ?」
あたふたと手を振りながら立ち上がる一人の男子生徒。
顔を真っ赤にし、頬をこわばらせて――彼の視線の先には、間違いなく自分。
(……なにあれ、誰?)
「えっと、その……ええと、いつも図書室で――え、いや違う、あの、今日ってお昼空いてたりとか――」
(……あ。見つめてたの、勘違いされた)
さっきまでエミリーが凝視していたのは、まぎれもなく“その向こうの少女”。
けれど彼にとっては、かの”平民の氷姫”と憧れの対象であるエミリーからまさかの熱視線――
それは、神すら微笑んだ“奇跡の勘違い”だった。
「えっと、その、えっと……!」
彼の声が、講堂に響く。周囲がざわり、と再びざわつく。
「……あれ、エミリーさんって怒ると余計美人じゃね?」
「いやいや、今それ言う!? 死にたいの!?」
「うわ、アイツやっちまったな……!」
「“平民の氷姫”の武勇伝、また更新されるぞ……」
「でもさ……見られてたら、ワンチャンって思うだろ、普通……!」
「そうだよな……今回こそは、もしかするかもだし……」
(ざわ……ざわ……ざわ……)
エミリーは、期待と困惑が交錯する、ざわめきと視線の交差点にいた。
(はぁ~~~!?)
瞬間、エミリーの脳内で何かが爆発した。
「~~~~ッ!!」
「あ、あのね!! アンタなんか、見てたわけじゃないんだからねっっっ!!」
その瞬間、講義終了を告げる鐘が再び鳴り響いた。
声はかき消され、騒ぎに気づいたエリオット教員が眉をひそめる。
エミリーはぷるぷると肩を震わせると、ぐっと睨みを効かせ、椅子から立ち上がる。
「勘違いしないでよねっっっ!!!!!」
その絶叫に講堂の数十名がビクリと肩を揺らし――
直後、彼女は顔を真っ赤にして鞄を掴み、踵を返した。
ずかずかと講堂を後にする彼女の背中に、男子生徒がかすれた声でつぶやく。
「え……えっと、どこかで、また……!」
エミリーはそのまま、決して振り向かずに足早に廊下へと消えていった。
心の中ではぐるぐると、怒りと混乱と、よくわからない焦燥感が渦を巻いていた。
(なにあれ……最悪!! ぜったい忘れてやる!!)
(あの子も! あの王子も!! そしてあのバカ男子も!!!)
だが、足早に歩くその胸の奥に――
確かに、さっきの少女の姿が焼きついていた。
(……誰なの、あの子)
どうしても思い出せない――けど、どこかで見たことがある。
あの雰囲気。あの震える手。
(わたしと同じ、“平民”の制服を着てるくせに――)
(……なんで、そんな顔で座ってられるのよ……)
怒ってるのか、悔しいのか。
それとも――
“何も持たない”はずのあの少女に、
どこかで、自分が負けたような気がしたのかもしれない。
そんな自分に、エミリーはさらに腹を立てながら、ひとり足音を響かせて廊下の角を曲がっていった。
背筋は、びしっと伸びたまま。
*
台本のない者が、物語をもっともかき乱す。
それが“脇役”であるならば、なおさらだ。
エミリー・フローレンス――
物語の予定調和を最も信じていない彼女もまた、自覚することなく”もう一つの物語”を紡ぎ始めていた。
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