第1話「社畜と悪役令嬢と、月が見ていたふたりの始まり」 エピソード③
――王立学院・中庭(放課後)
学院の放課後。薔薇の垣根が咲き誇る中庭に、少し赤味がかった光が差し込む。
その美しい景色の中、ルナリアはひとり、ベンチに座っていた。
(……今夜、ついに舞踏会ね)
――その数時間前。
授業の合間、回廊を歩いていたルナリアに、第一王子――ラファエルが声をかけてきた。
「ルナリア、今夜の舞踏会――君の手を取らせてほしい」
「――それから…少し大事な話があるんだ」
その言葉は、婚約者として当然のもののはずだった。
だが、ラファエルの瞳に宿る、かすかな迷いと、揺るがぬ決意。
それが、ルナリアの胸に小さな棘となって突き刺さる。
「……はい、殿下。喜んで」
微笑みで応じながらも、心の中では警鐘が鳴っていた――。
***
王立学院寄宿舎・ルナリアの部屋(放課後)
部屋に戻ると、いつものように紅茶の準備を終え、ふっと一息つく。
(“少し、大事な話がある”……なんて、いかにもな前振りじゃない……)
(やっぱり、今日は婚約破棄するおつもりですのね……)
王子の気持ちがもう自分にないと自覚があるからこそ、ルナリアの脳裏に最悪のシナリオが浮かぶ。
(このまま出席して、わたしと踊って……その後で、王子が聖女様の手を取って――
皆の前で“君はもう不要だ”って、言われて……)
想像しただけで、胃の辺りがずきずきと痛んだ。
部屋に戻ってからも、落ち着かない気持ちは拭えない。
「……っ、はぁ……」
溜め息をひとつ。
サイドテーブルには、さっき淹れたレモンバームとカモミールのブレンドハーブティー。
少し多めに入れすぎたのは、気休め以上の眠気を求めてのことだった。
「……それに、今朝のあれ。あんなの、夢に決まってるじゃない……」
カーテンを閉めた部屋に、レモンバームの香りがほのかに漂う。
ベッドの縁に腰掛けたルナリアは、ため息とともに頬をぺちぺちと叩く。
「……ほら、痛いし。これは現実……だから、あれは夢。ぜったい夢よ……!」
ついでに、少しだけ手の甲をつねってみる。
「いったぁ……。これで、夢だと“断定”して差し支えないわね」
ぐるぐると思考が回る中、ベッドサイドのティーカップを手に取る。
「はぁ……。寝不足で顔色が悪いのは妃失格だし……今は、とにかく休むしかないわよね」
心なしかいつもより多めに入れたレモンバームが、やけに効いてきている気がした。
「そうよ……あれは夢、夢に決まってる。
破滅フラグ? 変な魂? ゆるふわ社畜? そんなの、あるわけ……ないわよ……」
もふ、と毛布を引き寄せて、ふて寝の構え。
「こうなったらふて寝よ、ふて寝。
……未来の妃たるもの、優雅に遅れて登場するくらいでちょうどいいわ」
「……明日は婚約破棄でも、何でもしてくださって結構ですわ、殿下……」
そう言って、彼女はレモンバーム多めのハーブティーをくいっと飲み干す。
ベッドに身を沈めれば、ふわりとした温もりとともに、濃密な眠気が意識を攫っていった。
(……このまま、なにも起きなければいいのに)
その願いが叶うかどうかも知らず、ルナリアはゆっくりと、眠りの底へ沈んでいった。
***
王立学院寄宿舎・ルナリアの部屋(夕暮れ時)
金色に染まる夕陽が、カーテン越しにゆらりと差し込む。
微かに聞こえる鐘の音と、外を行き交う生徒たちの声が、放課後の空気を運んできていた。
(……ん~……)
ふと、ベッドの上で身体がもぞもぞと動く。
ルナリアのものとは思えない、気の抜けたような声が、静かな部屋にふわりと溶けた。
「ふぁ~~……よく寝たぁ~……!」
起き上がったのは、ルナリアの身体――だが、その表情にはまったく緊張感がない。
ぽやんとした笑みを浮かべ、まひるは伸びをするように腕を天井に掲げた。
「三徹のあとのふかふかベッド、最高~。魂ごと溶けそう……」
窓際に目をやると、斜陽が柔らかく部屋を照らしていた。
まひるは、ベッドサイドのテーブルに置かれた、空になったティーカップに気づく。
「あれ……これって……?」
彼女はそっと手に取り、カップの底を覗き込んだ。
「……カモミールとレモンバーム……あと、パッションフラワーもかな? わりとガチめの安眠ブレンドですね……」
考えるように指をあごにあてる。
「ってことは……やっぱり、ルナリアさんが寝てるときだけ、わたしが出てこられる……みたい?」
そう呟くと、まひるはベッドからふわりと降りた。
「つまりこれは――交代制!」
パチンと指を鳴らして、ひとりで納得したように微笑む。
「わぁ、“乙女ゲー”世界でまさかの交代勤務……ブラックじゃないのが嬉しいなぁ……」
歩くたびに、ふわふわのスリッパが床を鳴らす。
ルナリアがきちんと整えていた身だしなみは、どこかゆるく乱れていた。
「んー……せっかく自由時間ゲットしたし、お散歩でも行きますかね」
「でも~……《七つの聖環》とは設定が違うし、攻略キャラの配置も未確認……」
「となると、まずはフィールドワークですね!」
「環境調査、NPCとの会話ログ取得、マップ構造の把握……ふふ、なんか楽しくなってきたかも!」
「よーし、フィールドワーク開始! 仮説検証型乙女ゲー生活、スタートですっ♪」
そう宣言して、まひるはクロゼットを開ける――
その瞬間、豪華絢爛なその中身に、思わず躊躇した。
「うーん……ドレスしかない……動きづらそうだし、浮きそうだなぁ……ま、いっか。動きやすそうなの、適当に……」
軽く身支度を整えると、鏡をチェック。
透き通るような白い肌、淡い銀に近い金の巻き髪、大きな紫の瞳。小ぶりな唇、整った鼻筋。
そして、まひるが適当にチョイスした、上品なレースがあしらわれた濃紺のドレス。
「やっぱ、何着ても似合うなー、ルナリアさん。いつ見ても、完璧美少女!」
まひるは、鏡の中の美少女に見惚れつつ、ふと胸元に光るものに気づいた。
「……ん? なにこれ、ペンダント?」
淡い銀色の鎖の先に、小さな欠けた太陽の意匠が揺れている。
中央には、ほんの僅かに欠けた部分があり、それがどこか寂しげに見えた。
「月の形……?」
「綺麗……でも、なんだろう……このデザイン、どこか意味深……」
そっと指先で触れた瞬間――
ほんの一瞬、ぴりりと微かな温もりが指先を走った気がした。
「……ん?」
まひるは首をかしげる。
(なんだろう……懐かしい、というか……胸の奥が、きゅっとする感じ……)
ペンダントは、ただ静かに胸元で揺れているだけだった。
まひるは首を振り、気を取り直す。
「……ま、いっか。そのうちルナリアさんに聞こうっと」
とりあえず、今は状況把握が先決だと、ペンダントから手を離した。
まひるは部屋の扉に手をかける。
扉を開ける音が、金色の光にまぎれて、新たな物語の始まりを告げるように響いた。
――だが、二人はまだ知らない。
二人の出会いが、婚約破棄フラグ回避どころか、世界の命運すら巻き込むことになるとは――。
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