第1話「社畜と悪役令嬢と、月が見ていたふたりの始まり」 エピソード②
(……ん……)
まぶたの裏をくすぐる、やわらかな光。
遠くで小鳥のさえずりがしていて、花の香りと、ふかふかのベッドの感触が――。
『……ふぁ~~……ん~、よく寝たぁ……』
小さな声が、頭の奥からふわりと響いた。
『やっぱり寝るって最高……!
三徹のあとって、眠気っていうか、魂がふわ~って……とける感じ……』
『……ん……えと、そろそろ“幼なじみ系攻略対象”が迎えにきて――
「おはよう、心配したよ」って、言ってくれるターン……だよね……?』
(……誰?)
ルナリアは目を見開いた。
部屋には誰もいない。けれど、確かに“声”が――頭の中から、聞こえた。
(いまの声……わたくしの思考じゃ、ない……?)
『……えっ、えっ? いまの、返事? やば、え、まさか……』
――しばらく沈黙――そして、恐る恐るおずおずと。
『……す、すみません、もしかして……聞こえてます? 私の声……』
混乱して当然のはずなのに……どうしてか、この“声”を拒絶できない――。
ルナリアは日課である朝の紅茶の準備を始めることにした。
いつも通り、そう……いつも通りに行動するのよ――
そう念じながら、ベッドから立ち上がり、静かにティーセットを整え、湯を沸かす。
(……ええ。聞こえてますわ。というよりも――あなた、誰なのかしら?)
『あーやっぱり!? じゃあ、改めて。
こんにちは~……はじめまして、かな?』
『あの、わたし、“佐倉まひる”っていいます。元社畜です!
さっき、なんかこう……ぽとって落ちて、ふわってなって、気づいたらここでした~』
(ぽとって……魂が、ですの!?)
『はい。仕事帰りに~、ふらっと倒れて、それで電柱にぶつかって…
そしたら、なんか神さまっぽい光に包まれて……
ふわ~、ぽとって。気づいたらここで――
あ、すごく豪華な部屋ですよね~……天井高いし、シーツも高そう……』
(……つまり、あなたは亡くなられて、気付いたらここにいたと?)
『えへへ…、そんな感じかな。なんか普通に会話しちゃってるな~……!
やばいやばい、これ……もしかして“頭の中に他人がいる”っていうやつ!?
いわゆる、憑依とか寄生とか……』
(落ち着きなさい。逆よ。どうやら、“あなたが”、わたくしの中にいるようね)
『えっ、そ、そういうこと!?』
『――もしかして……“同居系”ってやつですか?』
『よくあるじゃないですか~、こう……転生したら、元々の人格が残ってるパターン!
いや~実際に体験するとは……これ、意外とプライバシーとか大丈夫なんですかね……?』
(……は? プライバシー? なにを言ってるの、この子……)
ルナリアは思わず、そっと指で頬をトンと叩いた。
『えっと……勝手に喋ってすみません!なるべく空気読んで、隅っこで静かにしてますんで……!』
『……でも、ちょっとだけ仲良くしてくれたら嬉しいな~、なんて……』
『……あ、もちろん、邪魔はしません!ルナリアさんの生活第一で!』
『ほんと、隅っこで大人しくしてますから!……たぶん!』
(……“たぶん”って何よ……)
……でも、そう簡単に人の心に踏み込んでくるような子には見えませんわね。
妙に憎めないというか……。
それに――不思議と、この存在が“嫌”じゃない……なんなのかしら、この感覚。
ルナリアはふっと小さく息を吐く。
そして、沸騰直前の湯をポットに注ぎ、温め終えると丁寧に湯を捨てた。
そして、お気に入りのハーブ入り茶葉を計り、優雅な手つきでポットに入れると、再び熱湯を注ぐ。
蓋をして蒸らす間、静かに窓の外に目をやり、朝の光を浴びた。
(……ところで、さっきの自己紹介って本気なのかしら?)
『本気です! 社畜です!』
(……は?)
『あ、ごめんなさい。過去形で!元社畜です!ブラック企業の研究職やってました!
でも~、いつも終電逃して会社泊まりだったから、ベッドがふかふかで感動してて~』
(……な、なにを言ってるのかわからないけれど…、この子、なんかゆるい!?)
『ちなみに乙女ゲー大好きなんで、もしかしてこれは転生イベントかな~って。
あ、でも自分が主人公になってるのは……いやガチの転生自体初めてですね~えへへ』
(そう簡単に”転生”なんて、あってたまるものですか!?)
『……あの~、一応お聞きしたいんですけど……。
ここって……”異世界”で合ってますよね?』
ルナリアは紅茶のポットから目を離すと、宙を見上げて少しため息をついた。
(ここはセレスティア神聖国、王家直属の王立学院!
そしてわたくしは、第一王子の婚約者、ルナリア・アーデルハイト。公爵令嬢よ!!)
『わあ、フルネーム……公爵令嬢……かっこいい……。
じゃあ、ルナリア様、んと、ルナリアさん。
婚約者ってことは……えっと、これって、もしかして悪役令嬢系のルート……だったり?』
(誰が悪役よ!!)
『あ、すみません! でも、ほら、“婚約者で貴族令嬢”って聞くと――
つい……ありがち系って思っちゃって……てへ』
(どこ見て判断してるのよ……)
ルナリアは、見計らったように、滑らかにティーコジーを外し、香りを確かめる。
茶こしを添え、透き通る琥珀色の液体をカップに注ぐと、そっと微笑んだ。
そして、最後にスプーンで軽くひと混ぜし、揺れる湯気ごと香りを楽しんだ。
一口含めば、ほんの少しだけ心がほどける……。
『ルナリアさん……変な話なんですけど、聞いてもらえますか?
あのとき、ここに来る直前――誰かの声……っていうか祈りが聞こえた気がしたんです』
(……声が聞こえた?)
『悲しみと、寂しさと、誰かに届きたいっていう……すごく切実な、願いの声』
(……それ、もしかして)
ルナリアは、昨日の夜、自分が女神様に祈った言葉を思い出した。
『うまく言えないけど……その声に、呼ばれた気がしたんです。
たぶん、あなたの“助けて”っていう気持ちが、届いたんじゃないかなって
……だったら、できる範囲で、ちゃんと応えたいなって思ってます。
正直まだ信じられないけど、でも――』
まひるの声が、ふと穏やかになる。
『……ふしぎですよね。もっと怖がってパニックになってもおかしくないのに。
あなたの中、すごくあったかくて、静かで、落ち着くから』
(……)
『ところでですけど、ここって――《七つの聖環》(セブンスリングス)の世界ですよね?』
脳内に響くまひるの声は、どこかウキウキしていた。
『だとしたら、“破滅フラグ”回避、お手伝いできると思うんです!
ほら、私こう見えて乙女ゲー大好きなんで!』
(……乙女、ゲーム……?)
ルナリアは、理解不能な単語に眉をひそめる。
『でも、ちょっと設定が違う気がするんですよね~。
確かこのゲーム、悪役令嬢はルナリアさんじゃなかったような……』
(はぁ!?だから、 誰が悪役ですって!?)
『あっ!!』
その瞬間、”乙女ゲー”モードのスイッチが入ったまひるはまくし立てた。
『でもでも、確か……その悪役令嬢、婚約破棄された後に“逆玉狙いの下心男子”が近づいてきて――!』 『で、プライド高い系だから最初は「誰があなたなんかに!」って突っぱねるんだけど……』
『そのうち周りが勝手に「新たな婚約者候補」とか騒ぎ出して、気づいたら四面楚歌で――』
『仕方なく奉仕活動に参加したら、今度は平民特待生に貴族マウントかまして逆恨みされて――』
『あれよあれよって孤立して……最終的に……毒殺エンド……だったような……』
ルナリアは、まひるの声を聞き流すように、思わずそっと肩をすくめた。
(もう少し、抑えてくださらないかしら!?
そもそも……誰がそんな破滅ルートを辿りますのよ!!)
ルナリアは心の中でバンッ!と机を叩く幻覚を見つつ――
実際には涼やかにティーカップを傾ける。
立ちのぼるハーブの香りと共に、静かに朝の余韻を楽しむその姿は――
どう見ても、内心で荒ぶっている令嬢には見えなかった。
『てか、優雅過ぎません? その朝の紅茶ムーブ!? まさに絵画!!』
(あら……これが普通ですわ)
『え~っと、ってことは……これ“続編”かな? それとも“パラレルワールド編”?
あ、DLC説もワンチャン……!?』
(パラ……? DLC……? いよいよ異国の呪詛かしら……)
『あ、でも“七つの聖環”の話が通じないってことは……』
(当然ですわ! そんな妙な物語、聞いたこともありません!)
ルナリアは深いため息をつきながら、冷静に心の中で突っ込む。
(この国にあるのは、“七英雄譚”ですわ。
セレスティアの民なら誰もが知っている、正統な歴史書にして叙事詩――)
『えぇ~……じゃあやっぱり別作品かぁ……』
(作品?……いい加減にしてくださらない?)
ルナリアは盛大にため息をつく。
――しばらくすると、まひるの声が再び脳内にひびいた。
『ルナリアさんと話すの、とっても楽しいです……』
『あー、でも……やっぱり眠いです……“魂”が眠気に負けそう……三徹のツケが……
ひとまず……二度寝しますね~……おやすみなさい、ルナリアさん……』
(え、ちょ、待って……!)
『……次は“推し”語りも聞いてくださいね……』
『……あ、語り出すとたぶん止まらないので、その時は止めてくださいね~……ふにゃ……』
『……ルナリアさん……優しそうな人でよかった……すやぁ……』
(……ええええ!?)
急に静かになった頭の中。
(……あのときの祈りが、本当に“届いた”の……?)
(……優しそうって…そんなふうに言われたの、いつ以来かしら)
(……気づけば、皆、私を“氷の百合”と呼ぶようになっていたのに……)
ふと、鏡に映る自分の顔を見たルナリアは、呆れたような、それでいて――
(……なんなのよ、もう……)
そう呟いた自分の声が、思いがけず柔らかかったことに、少しだけ驚いていた。
ルナリアは空になったティーカップをそっとテーブルに置き、ふと窓の外を見る。
差し込む陽光の中、庭園でたわむれる小鳥のさえずり。
風にゆられたカーテンと木々のざわめき。
いつもの朝――でも、少しだけいつもと違う朝。
(今夜の舞踏会……どうしたものかしら……)
(本当に、破滅フラグ?……ですの?
……いいえ、違うわね。まだ、終わりじゃない)
と、ほんの僅かに唇が綻んだ。
でも、ルナリアの中で、ほんの少しだけ不安が軽くなった気がした。
――そして、この日から。
彼女の中の“運命”が、ゆっくりと回り始める。
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