第15話「社畜と悪役令嬢と、王家の休日」 エピソード⑳
グランツハイム城下町・湖畔通り
――昼下がり。
城を出て石畳の通りを下っていくと、霧に煙る湖を望むレストランが視界に入った。
夏の陽気と高原の涼やかな風が心地よく、行き交う人々の表情も明るい。
「こちらのお店、とても評判が良いそうですわ」
先頭を歩くシャルロットが、軽やかにワンピースの裾を揺らしながら一行を振り返る。
両肩にリボンをあしらった清楚な白のワンピースは、いつもの凛とした印象とは違い、どこか可憐な雰囲気を纏っていた。
緑の屋根に赤レンガの外壁。
店先には、洒落た筆記体で《ル・ボール・デュ・ラック(Le Bord du Lac)》と記した黒板が立ち、色とりどりの花籠と小さなランタンが彩りを添える。
湖に面したテラス席には白いテーブルクロスと木製の椅子が整然と並び、頭上のパラソルには鮮やかな花々が編み込まれていた。
パンとハーブの香ばしい香りが風に乗って通りへ流れ、どこか旅情を誘う。
一方、ルナリアは、薄桃色のレースをあしらった涼しげな花柄のワンピースに、同色のリボンが映える純白のつば広帽子――そこへ真っ白な長手袋と歩きやすいローヒールを合わせた装い。
風を受けて裾とリボンがふわりと揺れ、夏の陽射しの中では、まるで一輪の花のように映える。
その気高くも清楚な佇まいは、道行く人々の足を思わず止めさせ、誰もが振り返るほどだった。
もちろん、ミレーヌが用意したセットアップをもとに、まひるが夏旅をイメージして仕上げたコーディネートである。
「わあ……素敵なところ!」
ティアナが目を輝かせ、フローラも小さく頷いた。
「予約しておいたから、すぐ入れる」
ラファエルが店員に声をかけると、予約表に記された王家を示す“セレスティア”の姓に気付いた店員は目を丸くした。
すぐさま背筋を伸ばし、恭しく一礼する。
その横で、シャルロット、ラファエル、アルフォンスの三人は入口脇のメニュー看板の前でそれぞれ相談を始めていた。
「季節限定のコースは?」とシャルロット。ラファエルはワインの銘柄を尋ね、アルフォンスは地元料理の説明に興味津々。
ティアナとフローラも、メニューの挿絵に顔を寄せ合い、楽しげにはしゃいでいる。
一方、エミリーは入口の段差で靴を直したり髪を整えたりと、なぜかぐずぐずして進まない。
さらに後方では、ヴィオラとベアトリスが連れ立ってのんびりと話し込んでいた。
店員たちがようやく見つけたのは、少し離れた場所に立っていたルナリアとライエル。
ほっとしたような笑顔で、それぞれを席へと案内する。
*
通されたのは、湖を望む八人掛けの長テーブルと、少し離れた四人掛けの丸テーブルだった。
ルナリアは帽子のつばに指を添え、きらめく湖面を見上げる。
まぶしそうに目を細めながら、「まあ……素敵な場所ですわね」と自然に声がこぼれた。
給仕が恭しく一礼して帽子を受け取り、テラスの長テーブル――向かって右から二番目に位置する最も眺めの良い席へと案内する。
一方、ライエルは丸テーブルへと通された。
ルナリアは素直に従い、静かに腰を下ろした。
(……ここなら、みんなで景色を楽しめそうですわね)
『……いや、ルナリアさん。なんかこう……背中に悪寒が走りません……?』
(……いえ、特には?)
きょとんとするルナリア。
だが、まひるの予感は――このあと訪れる“波乱”の幕開けを、的確に告げていた。
少し遅れて、やや慌ただしい足音が響いた。
ラファエルが姿を現す。金の髪を風になびかせ、軽く息を弾ませつつも、安堵の笑みを浮かべていた。
「……よかった、間に合った」
ふっと微笑み、まっすぐにルナリアを見つめる。
その視線を受けて、ルナリアは思わず背筋を伸ばした。婚約者の隣に座るのは当然のこと――そう、ずっとそう思っていたから。
給仕が恭しく椅子を引くと、ラファエルは自然な所作でルナリアの右隣、向かって右から三番目の席に腰を下ろした。
その横顔はいつもの穏やかさを湛えながらも、ほんの一瞬、隠しきれない色を宿す。
テーブルクロスの端を指先がわずかに掴んだ。誰にも気づかれないほどの強さで。
(……ラファエル様……)
帝国の空で告げられた、レオンハルトの熱を帯びた言葉――。
それは風に紛れて、胸の奥に残っていた熱をふと蘇らせた。
何も知らないはずのラファエルは、変わらず優しく、誇らしげで……
その隣にいることが、居心地の悪さと、ほんのりとした温かさを同時に呼び起こした。
やがて、次の影が差し込む。アルフォンスだった。
軽やかな足取りで近づくと、ふとラファエルと視線がぶつかる。
ほんの一瞬、空気が張り詰めた。
アルフォンスの目が細められる。
(……まあ、兄さんの席はそこだよね。けど――)
いつもの柔らかな笑顔の奥に、静かな挑発の色がのぞく。
「ルナ」
にこりと微笑み、まるで“俺も当然ここだ”と言わんばかりに、ラファエルとは反対側――ルナリアの左隣に歩を進める。
給仕の手が一瞬だけ止まり、笑顔の奥の「え?」が風に流れた。
アルフォンスは堂々と腰を下ろす。
(……アルフォンス……)
(……兄上、負けませんよ……)
ルナリアの両脇に並んだ二人の王子。
グラスに触れた手が、同時に止まる。音はないのに、視線だけが火花を散らした。
左右から交錯する視線の圧に、ルナリアは思わず顎を引いた。
(な、何ですの……これ?)
『ルナリアさん、これは青春。いわゆるアオハルです!
乙女ゲー的にはヒロインそっちのけでライバルが両脇に陣取って視線で火花散らしてるやつ。
今まさにイベントCGが出てます!』
(まひるさん……今回ばかりは、おっしゃっていることがほとんどわかりません……)
『大丈夫、そのうちわかりますよ。たぶん』
そこへ、息を弾ませて駆け込んできた少女が一人。ヴィオラだ。
(絶対……絶対、ルナリア様の隣に……!)
ぎゅっと拳を握り、決意の表情――しかし。
「……え?」
両隣に鎮座する二人の王子を見た瞬間、ヴィオラの足が止まった。
涙を浮かべた瞳が左右に泳ぎ、さっきまでの闘志が一瞬にして空回りしたような顔になる。
その様子に気づいたルナリアが、ふわりと微笑む。
「こちらへ、ヴィオラ」
真正面の席を軽く指し示すと、ヴィオラは一瞬だけ唇を噛み、まっすぐルナリアを見つめて――こくりと頷き、席に着いた。
(……ルナリア様の真正面……? お顔が……真正面に……。
どうしよう……緊張しすぎて、顔が上げられません……でも……幸せ……)
ちょこんと席に座ったまま、裾をぎゅっと握る。
頬はうっすらと染まり、俯いてはちらり、ちらりとルナリアを見上げた。
(こ、これは……?)
『ふふふ……これも青春。しかも百合の香りがしますね〜』
(……もう少しわかるようにお話してくださらないかしら……。
わたくし、まだ“ドジっ子”と“ツンデレ”しか知らないのですわ……)
『……。どっちもエミリーさんじゃないですか……』
続いて他の面々も席に着いていく。
ユリシアを伴ったセリアは、にこにこと歩み寄り、二人並んで座れる席に着席。ユリシアが端、セリアがヴィオラの隣だ。
ベアトリスは悠々と現れ、ぴたりと立ち止まる。
(ふふ、なるほど。面白い布陣ですわね)
にこりと笑って――アルフォンスの正面に腰を下ろした。
その笑みには、盤面をひっくり返す予告の色がにじんでいるように、まひるには思えた。
最後に現れたシャルロット。
扇を広げて全体を見渡し、目を細める。
「うふふ……」
小さく笑い、ラファエルの隣――まるで観客席のような位置に優雅に腰を下ろした。
*
丸テーブルの四人席では、すでにライエルが一人、肘をついて座っていた。
そこにエミリーが現れると――
「エミリーさーん!」
と目を輝かせて手を振るライエル。
「ほら、湖面見てください! 霧じゃなくて雲ですよ、雲!
あ、水の粒って意味では同じなんですけど……でも霧の上より雲の上のレストランって、なかなかないですよね!?」
(……はあ。ほんと、術理バカ……。何を言ってるのか全然わからない……)
一歩踏み出したところで、ふと足が止まる。
胸の奥、針で突いたように小さく痛む。理由は、まだ言葉にならない。
(……って、今のわたし、なんで一瞬ドキッと……? べ、別にそういうんじゃ……ないし……!)
慌てて顎に手をやり、真剣な顔を作って誤魔化す。
(丸テーブルだと、どうやってもライエルの隣か正面……どっちに座るべき……?
でも、いきなり隣に座ったら変だと思われるかも……やっぱり正面?
それはそれでデートみたいで変じゃない!? ……うぅぅ)
「エミリーさん、あっ、あれ見てください! 虹がこんなに近くに――!」
もはやライエルの話は耳に入っていない。
んんんんん、と思考の海に沈み込んだエミリーの世界は、すでに別次元だった。
そのとき――。
「ライエルー!」
弾んだ声でティアナとフローラが駆け込み、右と左を素早く確保。
(……っ、先を越された……!? い、いや別に、そんな……!)
頬をふっと赤らめたエミリーは、腹をくくると、勢いよく椅子を引き、ライエルの正面に腰を下ろした。
「エ、エミリーさん、虹の話……聞いてくれてました……か……?」
腕を組んでぷいと顔を背ける。
「え、えええええええ!?」
プンスカしながらも、耳の先がほんのり赤い。
(……別に、気になんか……してないんだから……!)
*
かくして、テーブルには奇妙な布陣が完成した。
――長テーブル
奥側:シャルロット/ラファエル/ルナリア/アルフォンス
手前側:ユリシア/セリア/ヴィオラ/ベアトリス
――丸テーブル
右回り:ティアナ→ライエル→フローラ→エミリー
『……なにこれ……椅子取り合戦ていうか、席順争奪戦……!?』
ルナリアの中で、まひるの心の声が、まるで実況のように弾む。
――テラスの空気が、ほんの少しだけきゅっと張り詰める。
夏の陽射しに湖面がきらきらと光るその場所で、静かな心理戦の幕が上がろうとしていた。
その後、この席順が思いがけない“波乱”を巻き起こすことになるとは、
このときの誰も、まだ気づいてはいなかった――。たぶん、ベアトリス以外は。
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