第15話「社畜と悪役令嬢と、王家の休日」 エピソード⑲
――グランツハイム上空。
ヴォルクリスの背で、風がルナリアの髪を後ろへとさらっていく。
最初は恐怖でぎゅっと目を閉じ、鞍を掴む手にも力が入っていた。
けれど――
(……こわい……でも……)
頬を撫でる風の感触が、少しずつその恐怖を溶かしていく。
そっと瞼を開いた瞬間、胸の奥で何かがぱんっと弾けたような感覚があった。
眼下に広がるのは、霧の湖と、それを抱くように佇む白亜の城――グランツハイム城。朝日を浴び、その姿はまるで天上の宮殿のように輝いていた。
湖のほとりでは、豆粒のように小さな旅の仲間たちが、空を見上げて手を振っている。
その姿を見た瞬間、ルナリアの胸がふっと温かくなり、思わず手を振り返した。
グランツハイムの整然とした街並みは碁盤の目のように美しく、そのさらに向こうには神聖国の大草原が陽光に翠の波を立て、白竜山脈が荘厳に連なっている。
「……すごい……」
息を呑む眺めに、胸の奥の恐怖がほどけ、代わりに高鳴る鼓動が満ちていく。
ヴォルクリスは大きく旋回し、山脈を背景に空をぐるりと回った。
風がルナリアの頬を撫で、自然と唇に笑みが浮かぶ。
後ろでレオンハルトがヴォルクリスの背に手を当てると、どこか遠い目をした。
「そうか、お前も見せたいか」
低く呟いたその目に、静かな決意が宿っていた。
「少しだけ遠出するぞ! はぁっ!」
「え?」
白竜山脈の向こう――北の空へ進路が取られる。
「……帝国、ですの?」
「どうやら、こいつも少しお前に見せたいようだ」
*
山脈を越えると、そこにはこれまで見たことのない雄大な景色が広がっていた。
緩やかな丘陵と、地平線まで続く草原――朝の光に包まれ、世界が一変する。
ヴォルクリスは高度を下げ、低空飛行へ移る。
草原の中、羊飼いの少年が犬を従え、顔を上げて手を振った。
レオンハルトは迷いなく大きな手を振り返す。
「……!」
その何気ない仕草に、ルナリアの胸の奥がじんわりと温かくなった。
さらに進むと、城郭を中心とした整然とした街並みが見えてくる。
石造りの建物がきっちりと並び、広場では人々が立ち止まり、空を見上げて手を振る。
尖塔をかすめるように飛ぶと、訓練場の騎士たちが一斉に胸へ手を当て、深く敬礼を送った。
それはヴォルクリスと、その背にいる皇太子への揺るぎない敬意だった。
(……この国の人々は……皇太子を、心から敬っている……。
力による支配ではなく……まるで“信頼”のよう……)
ルナリアは息を呑み、その空気に魅了されるように目を見開いた。
やがてヴォルクリスは大きく旋回し、今度は南――帰路へと進路を取る。
眼下には黄金色の小麦畑がどこまでも広がり、風に穂が揺れるたび、陽光がきらきらと波打った。
いくつもの村や街が見え、道を行く人々が小さな点のように動いている。
その中で、レオンハルトの声が落ちるように響いた。
「――帝国は、どうだ?」
ルナリアは胸の奥を見つめるように、静かに答えた。
「……とても、豊かで……あたたかい国だと……そう感じましたわ」
「うむ。帝国は新興の国。確かに武力で国土を広げた過去もある」
レオンハルトはまっすぐ前を見据え、続けた。
「他の国々に好かれていないことは百も承知だ。
だが――俺たち皇族には、この国に生きる民を豊かにする義務がある」
短い沈黙。
風が二人の間を吹き抜ける。
やがて、レオンハルトは低く、しかしはっきりと告げた。
「……どうだ? 俺と帝国に来ないか?」
「……!」
風の音が一瞬だけ遠のいたように感じた。
ルナリアは言葉を失い、ただ空を見つめる。
そんな彼女の横顔を、レオンハルトはまっすぐに見つめていた。
「俺が皇帝に即位すれば――お前は皇后だ。
二人でこの国を治め、この国をもっと強く、豊かにする。
……俺は、お前がいれば側妃はいらん。だから、ふたりで、だ。……わくわくしないか?」
帝国の空の上、二人だけの世界。
レオンハルトの言葉は、風よりも強くルナリアの胸に響いた。
「今すぐにとは言わない。だが――俺は本気だ」
その声は冗談めかしたものではなく、未来を見据える皇太子の声だった。
「俺にとって、お前ほどの女は他にいない」
(……っ)
胸の奥が、不意に熱を帯びる。
視線が逸らせず、心の奥に波が立った。
帝国の空も、風の音も、一瞬だけ遠くなる――。
「俺を選べ。誓おう。後悔はさせない」
『ちょ、ルナリアさん!? 今、ちょっとドキッとしませんでした!?』
胸の奥に、かつて聖剣杯で聞いた言葉が蘇る。
「――俺は、お前に惚れた。
生まれて初めて、誰かに心を奪われた。
――それが、お前だ」
――あの時はただただ驚くばかりだった。
けれど今、二度目の言葉はまるで違う重みを帯びて響いていた。
(……やはり……本気、なのですわね)
『ルナリアさん……』
風を切る翼音だけが響く中、ルナリアは何も言えずに俯いた。
レオンハルトはふっと微笑むと、肩の力を抜いた声で続けた。
「このまま皇都まで連れて帰ってしまいたいところだが――さすがに面倒なことになりそうだからな」
「……ご冗談?」
「ふふ、本気だったらどうする? 皇都で覇剣の儀でももう一度やるか?」
目を丸くしたままのルナリアをちらりと見やる。
「ああ、冗談だ。それに、きっとベアにこっぴどく怒られる」
がははと笑いながらも、声の底には変わらぬ真剣さが残っていた。
「学院を卒業してからでかまわない。……考えておいてくれ」
黄金色の小麦畑を背景に、帝国の皇太子が未来を差し出す。
それは軽い口説きではなく、一国の未来を見据えた求婚の言葉だった。
(……わたくしが……帝国の皇后……)
果てしなく広がる空の下で、
ルナリアの胸の内にも、静かに――しかし確かに、未来を揺らす風が吹き始めていた。
*
ヴォルクリスがゆるやかに湖畔へと舞い戻る。
翼が大地を撫でるように風を送り、白銀の巨体が優雅に着地した。
レオンハルトの手に導かれ、ルナリアは鞍から軽やかに降りる。
足が地に着いた瞬間――巨大なヴォルクリスが頭をもたげ、彼女に顔を寄せた。
「……あら」
差し伸べたルナリアの手が、竜の鼻先のふわりとした毛並みに触れる。
そっと撫でると――
ぶふーーーっ!
ヴォルクリスが嬉しそうに鼻息を鳴らし、白い霧がふわっと舞い上がった。
その仕草に周囲から小さな笑いが漏れる。
「さすがはお姉さま。ヴォルクリスがこれほど懐くなんて」
ベアトリスが目を輝かせて声を上げ、レオンハルトも満足げに笑みを浮かべた。
「……お前、ほんとに不思議なやつだな」
彼の声音には、どこか誇らしげな響きが混じっていた。
一方その頃――
少し離れた場所で、ラファエルとアルフォンスが並んで立っていた。
二人とも腕を組み、背中を向け合うようにして微妙な沈黙が流れている。
「おう、どうした? 喧嘩か?」
レオンハルトが豪快に声を掛ける。
「二人まとめて乗るか?」
と茶化してみせると――
「いいえ、遠慮させていただきます」
「僕も……結構です」
ふたりはほぼ同時にそっぽを向いた。
その様子にレオンハルトは肩をすくめ、苦笑を漏らす。
「……そうか。まあ、兄弟仲良くしろよ」
『誰のせいだよ!』というまひるのツッコミがルナリアの中で響き渡れど――
空の上でのひとときが終わり、霧の湖畔には心地よい余韻と、それぞれの胸に去来する思いだけが残っていた。
*
ヴォルクリスが後方で静かに翼をたたみ、朝の光を反射して白銀に輝いている。
「世話になったな」
そう言って、レオンハルトはラファエルに手を差し出した。
ラファエルは一瞬、わずかに眉をひそめたが――黙ってその手を握り返す。
お互いの瞳には、複雑な火花が一瞬だけ走った。
「兄上、もう少しいらっしゃればよろしいのに」
と、ベアトリスが名残惜しげに声を掛ける。
「わはは、俺も案外忙しいのだ。それに――目的は果たしたのでな」
朗らかに白い歯を見せて笑いながらそう言うと、レオンハルトはほんの一瞬――
ルナリアに視線を送った。
言葉はない。けれど、その眼差しには明確な意図と余韻があった。
そして、次にライエルの肩をがしっと掴む。
「少年、お前は面白い奴だな! 気に入ったぞ。いつでも帝国に遊びに来るがよい。
だが、次に会うまでに体を鍛えておくのだぞ!?」
「え、えええ!? な、なんで僕!?」
きょとんとするライエルと、吹き出す周囲。
一行の笑い声が門前に広がる中、レオンハルトはヴォルクリスに跨り、大きく翼を広げた。
白銀の翼が朝日を受けてきらめき、帝国の皇太子は空へと舞い上がっていく。
風がざっと吹き抜け、一行の髪と衣を揺らした。
まるで嵐のように現れ、旋風を残して去っていく――まさに、彼らしい去り際だった。
こうして――避暑地での竜騎乗体験は、幕を下ろした。
*
グランツハイムへの帰路。
馬車の中には、微妙な空気が漂っていた。
ラファエルは窓の外に視線を向けたまま、腕を組んで不機嫌そうな表情。
向かいに座るシャルロットは、その様子を見てくすくすと肩を震わせている。
セリアはといえば、まるで遠足帰りの子どものように、にこにこ顔を崩さない。
一方、ルナリアの心の中では――
『最高でしたね。帝国領の空の旅と、竜もふもふ』
(ええ……ほんの少しだけでしたが、とても豊かな国でしたわね。
皇帝家への信頼と敬意……あれほどとは、驚きましたわ)
『……それに、あれですよ。好感度MAX、完全に皇太子ルート開いてますよ!?』
(……わかりませんの。どうすべきか……わたくしにも……)
『うーん……わかりますよ。これはあれですね、就活で三社からオファー受けてる状況ですよっ!
どれもいいところがあって迷うやつ……』
『……あ……考えてみたら、そんな状況一度もなかった……。
むしろ毎日ドキドキしてメール開くたびにお祈りされてた記憶しか……』
(……なんだか、お辛い思い出ですのね……)
ルナリアは小さく息を吐き、窓の外に目を向けた。
車窓を流れていく森と草原――
ほんの少し前、竜の背から見下ろした帝国の大地の雄大な光景が、鮮やかに胸の奥に蘇る。
その記憶とともに、胸の内にもゆるやかな波紋が広がっていった。
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