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第15話「社畜と悪役令嬢と、王家の休日」 エピソード⑲

――グランツハイム上空。


ヴォルクリスの背で、風がルナリアの髪を後ろへとさらっていく。

最初は恐怖でぎゅっと目を閉じ、鞍を掴む手にも力が入っていた。


けれど――


(……こわい……でも……)


頬を撫でる風の感触が、少しずつその恐怖を溶かしていく。

そっと瞼を開いた瞬間、胸の奥で何かがぱんっと弾けたような感覚があった。


眼下に広がるのは、霧の湖と、それを抱くように佇む白亜の城――グランツハイム城。朝日を浴び、その姿はまるで天上の宮殿のように輝いていた。


湖のほとりでは、豆粒のように小さな旅の仲間たちが、空を見上げて手を振っている。

その姿を見た瞬間、ルナリアの胸がふっと温かくなり、思わず手を振り返した。


グランツハイムの整然とした街並みは碁盤の目のように美しく、そのさらに向こうには神聖国の大草原が陽光に翠の波を立て、白竜山脈が荘厳に連なっている。


「……すごい……」


息を呑む眺めに、胸の奥の恐怖がほどけ、代わりに高鳴る鼓動が満ちていく。

ヴォルクリスは大きく旋回し、山脈を背景に空をぐるりと回った。

風がルナリアの頬を撫で、自然と唇に笑みが浮かぶ。


後ろでレオンハルトがヴォルクリスの背に手を当てると、どこか遠い目をした。


「そうか、お前も見せたいか」


低く呟いたその目に、静かな決意が宿っていた。


「少しだけ遠出するぞ! はぁっ!」


「え?」


白竜山脈の向こう――北の空へ進路が取られる。


「……帝国、ですの?」


「どうやら、こいつも少しお前に見せたいようだ」



山脈を越えると、そこにはこれまで見たことのない雄大な景色が広がっていた。

緩やかな丘陵と、地平線まで続く草原――朝の光に包まれ、世界が一変する。


ヴォルクリスは高度を下げ、低空飛行へ移る。

草原の中、羊飼いの少年が犬を従え、顔を上げて手を振った。

レオンハルトは迷いなく大きな手を振り返す。


「……!」


その何気ない仕草に、ルナリアの胸の奥がじんわりと温かくなった。


さらに進むと、城郭を中心とした整然とした街並みが見えてくる。

石造りの建物がきっちりと並び、広場では人々が立ち止まり、空を見上げて手を振る。

尖塔をかすめるように飛ぶと、訓練場の騎士たちが一斉に胸へ手を当て、深く敬礼を送った。

それはヴォルクリスと、その背にいる皇太子への揺るぎない敬意だった。


(……この国の人々は……皇太子を、心から敬っている……。

 力による支配ではなく……まるで“信頼”のよう……)


ルナリアは息を呑み、その空気に魅了されるように目を見開いた。


やがてヴォルクリスは大きく旋回し、今度は南――帰路へと進路を取る。

眼下には黄金色の小麦畑がどこまでも広がり、風に穂が揺れるたび、陽光がきらきらと波打った。

いくつもの村や街が見え、道を行く人々が小さな点のように動いている。


その中で、レオンハルトの声が落ちるように響いた。


「――帝国は、どうだ?」


ルナリアは胸の奥を見つめるように、静かに答えた。


「……とても、豊かで……あたたかい国だと……そう感じましたわ」


「うむ。帝国は新興の国。確かに武力で国土を広げた過去もある」


レオンハルトはまっすぐ前を見据え、続けた。


「他の国々に好かれていないことは百も承知だ。

 だが――俺たち皇族には、この国に生きる民を豊かにする義務がある」


短い沈黙。

風が二人の間を吹き抜ける。


やがて、レオンハルトは低く、しかしはっきりと告げた。


「……どうだ? 俺と帝国に来ないか?」


「……!」


風の音が一瞬だけ遠のいたように感じた。

ルナリアは言葉を失い、ただ空を見つめる。

そんな彼女の横顔を、レオンハルトはまっすぐに見つめていた。


「俺が皇帝に即位すれば――お前は皇后だ。

 二人でこの国を治め、この国をもっと強く、豊かにする。

 ……俺は、お前がいれば側妃はいらん。だから、ふたりで、だ。……わくわくしないか?」


帝国の空の上、二人だけの世界。

レオンハルトの言葉は、風よりも強くルナリアの胸に響いた。


「今すぐにとは言わない。だが――俺は本気だ」


その声は冗談めかしたものではなく、未来を見据える皇太子の声だった。


「俺にとって、お前ほどの女は他にいない」


(……っ)


胸の奥が、不意に熱を帯びる。

視線が逸らせず、心の奥に波が立った。

帝国の空も、風の音も、一瞬だけ遠くなる――。


「俺を選べ。誓おう。後悔はさせない」


『ちょ、ルナリアさん!? 今、ちょっとドキッとしませんでした!?』


胸の奥に、かつて聖剣杯で聞いた言葉が蘇る。


「――俺は、お前に惚れた。

 生まれて初めて、誰かに心を奪われた。

 ――それが、お前だ」


――あの時はただただ驚くばかりだった。

けれど今、二度目の言葉はまるで違う重みを帯びて響いていた。


(……やはり……本気、なのですわね)


『ルナリアさん……』


風を切る翼音だけが響く中、ルナリアは何も言えずに俯いた。

レオンハルトはふっと微笑むと、肩の力を抜いた声で続けた。


「このまま皇都まで連れて帰ってしまいたいところだが――さすがに面倒なことになりそうだからな」


「……ご冗談?」


「ふふ、本気だったらどうする? 皇都で覇剣の儀でももう一度やるか?」


目を丸くしたままのルナリアをちらりと見やる。


「ああ、冗談だ。それに、きっとベアにこっぴどく怒られる」


がははと笑いながらも、声の底には変わらぬ真剣さが残っていた。


「学院を卒業してからでかまわない。……考えておいてくれ」


黄金色の小麦畑を背景に、帝国の皇太子が未来を差し出す。

それは軽い口説きではなく、一国の未来を見据えた求婚の言葉だった。


(……わたくしが……帝国の皇后……)


果てしなく広がる空の下で、

ルナリアの胸の内にも、静かに――しかし確かに、未来を揺らす風が吹き始めていた。



ヴォルクリスがゆるやかに湖畔へと舞い戻る。

翼が大地を撫でるように風を送り、白銀の巨体が優雅に着地した。


レオンハルトの手に導かれ、ルナリアは鞍から軽やかに降りる。

足が地に着いた瞬間――巨大なヴォルクリスが頭をもたげ、彼女に顔を寄せた。


「……あら」


差し伸べたルナリアの手が、竜の鼻先のふわりとした毛並みに触れる。

そっと撫でると――


ぶふーーーっ!


ヴォルクリスが嬉しそうに鼻息を鳴らし、白い霧がふわっと舞い上がった。

その仕草に周囲から小さな笑いが漏れる。


「さすがはお姉さま。ヴォルクリスがこれほど懐くなんて」


ベアトリスが目を輝かせて声を上げ、レオンハルトも満足げに笑みを浮かべた。


「……お前、ほんとに不思議なやつだな」


彼の声音には、どこか誇らしげな響きが混じっていた。


一方その頃――

少し離れた場所で、ラファエルとアルフォンスが並んで立っていた。

二人とも腕を組み、背中を向け合うようにして微妙な沈黙が流れている。


「おう、どうした? 喧嘩か?」


レオンハルトが豪快に声を掛ける。


「二人まとめて乗るか?」


と茶化してみせると――


「いいえ、遠慮させていただきます」

「僕も……結構です」


ふたりはほぼ同時にそっぽを向いた。

その様子にレオンハルトは肩をすくめ、苦笑を漏らす。


「……そうか。まあ、兄弟仲良くしろよ」


『誰のせいだよ!』というまひるのツッコミがルナリアの中で響き渡れど――

空の上でのひとときが終わり、霧の湖畔には心地よい余韻と、それぞれの胸に去来する思いだけが残っていた。



ヴォルクリスが後方で静かに翼をたたみ、朝の光を反射して白銀に輝いている。


「世話になったな」


そう言って、レオンハルトはラファエルに手を差し出した。

ラファエルは一瞬、わずかに眉をひそめたが――黙ってその手を握り返す。

お互いの瞳には、複雑な火花が一瞬だけ走った。


「兄上、もう少しいらっしゃればよろしいのに」


と、ベアトリスが名残惜しげに声を掛ける。


「わはは、俺も案外忙しいのだ。それに――目的は果たしたのでな」


朗らかに白い歯を見せて笑いながらそう言うと、レオンハルトはほんの一瞬――

ルナリアに視線を送った。

言葉はない。けれど、その眼差しには明確な意図と余韻があった。


そして、次にライエルの肩をがしっと掴む。


「少年、お前は面白い奴だな! 気に入ったぞ。いつでも帝国に遊びに来るがよい。

 だが、次に会うまでに体を鍛えておくのだぞ!?」


「え、えええ!? な、なんで僕!?」


きょとんとするライエルと、吹き出す周囲。

一行の笑い声が門前に広がる中、レオンハルトはヴォルクリスに跨り、大きく翼を広げた。


白銀の翼が朝日を受けてきらめき、帝国の皇太子は空へと舞い上がっていく。

風がざっと吹き抜け、一行の髪と衣を揺らした。


まるで嵐のように現れ、旋風を残して去っていく――まさに、彼らしい去り際だった。


こうして――避暑地での竜騎乗体験は、幕を下ろした。



グランツハイムへの帰路。

馬車の中には、微妙な空気が漂っていた。


ラファエルは窓の外に視線を向けたまま、腕を組んで不機嫌そうな表情。

向かいに座るシャルロットは、その様子を見てくすくすと肩を震わせている。

セリアはといえば、まるで遠足帰りの子どものように、にこにこ顔を崩さない。


一方、ルナリアの心の中では――


『最高でしたね。帝国領の空の旅と、竜もふもふ』


(ええ……ほんの少しだけでしたが、とても豊かな国でしたわね。

 皇帝家への信頼と敬意……あれほどとは、驚きましたわ)


『……それに、あれですよ。好感度MAX、完全に皇太子ルート開いてますよ!?』


(……わかりませんの。どうすべきか……わたくしにも……)


『うーん……わかりますよ。これはあれですね、就活で三社からオファー受けてる状況ですよっ!

 どれもいいところがあって迷うやつ……』


『……あ……考えてみたら、そんな状況一度もなかった……。

 むしろ毎日ドキドキしてメール開くたびにお祈りされてた記憶しか……』


(……なんだか、お辛い思い出ですのね……)


ルナリアは小さく息を吐き、窓の外に目を向けた。

車窓を流れていく森と草原――

ほんの少し前、竜の背から見下ろした帝国の大地の雄大な光景が、鮮やかに胸の奥に蘇る。


その記憶とともに、胸の内にもゆるやかな波紋が広がっていった。

※最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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