第15話「社畜と悪役令嬢と、王家の休日」 エピソード⑰
グランツハイム城西方
霧の湖(朝)
朝の冷えた空気の中、湖面には白い霧が一面に漂い、差し込む陽光を受けて霧の粒がきらきらと輝き始めた。
幻想的な光景のほとりに一行が集い、避暑地の静けさの中に小さなざわめきが広がっていく。
レオンハルトの発案で、急遽――竜の騎乗体験が開催されることになったのだ。
「……本当に、良いのですか?」
ラファエルが半ば呆れたように問うと、レオンハルトは豪快に笑った。
「かまわんよ。減るものではないからな。ほんの礼だ」
『減るもんじゃないって……帝国の皇族ってみんなあんなふうに気前がいいの?』
まひるは、昨日の温泉でのベアトリスの発言を思い出していた。
あの「減るものではありませんから」発言――まさか本当にそのノリで古竜を使うとは。
ルナリアは小さくため息をつく。
(……気前が良いというよりは、合理的とも言えるわね)
『なるほど! チーム飲み会で上司が“心配するな、俺の奢りだ”って言いながら、会議費で落とすやつですね!?』
(例えがわかりにくいですわ……)
霧の湖を背景に、ルナリアの脳内では今日も二人の掛け合いが始まっていた。
レオンハルトが一歩前へ進み、竜笛を掲げる。
「では、竜に乗ってみたい者は――前へ」
その言葉を合図に、まひるがルナリアに詰め寄った。
『ルナリアさん、ところで……もちろん、乗りますよね? 竜!』
(……いいえ、わたくしは乗るつもりはありませんわ)
『えええええええええ!?』
ルナリアはつんと顔を背ける。
(だって……空を舞うなど、怖いのです)
『え!? ルナリアさん、竜ですよ、竜? このチャンス逃したら一生乗れないかもしれないですよ!?』
(あの高さから落ちたら……確実に死にますわ)
『そりゃそうだけど!!』
まひるが必死に説得を試みるも、ルナリアは首を横に振るばかり。
ついには――
『じゃあ、入れ替わってわたしが乗ります!』
(もっといやです)
『なんでですか!?』
(あなた、ああいうとき調子に乗って墜落コースを辿りそうですもの)
『ぐっ……!』
脳内会議が白熱する中、レオンハルトが竜笛を高らかに吹き鳴らした。
ヒュウウウウウウウ――……
遠く白竜山脈の方角から、低く響く唸り声。
霧の向こうで影が揺れたかと思うと、突風とともに巨大な翼が空を裂いた。
――ヴォルクリスだ。
白銀の鱗が朝日に反射し、湖畔に霧の波が押し寄せる。
その巨体は空と一体化したかのようで、着地の瞬間には地面がわずかに震えた。
一行は一斉に息を呑み、誰もが圧倒されて声を失う。
「……すごい……。これが……古竜……」
ライエルの目は、まるで少年のそれだった。
馬車の窓越しに見た遠景とは違う――その存在は、ただただ圧倒的だった。
「さて――一番乗りは誰だ?」
レオンハルトの問いに、即座に手が上がる。
「はい! はい! はーい!!」
誰よりも勢いよく手を振っていたのは――もちろんライエルだ。
レオンハルトが満足げに頷く。
「よし、一番乗りはお前だ」
「やったぁぁぁぁぁ!!」
歓喜の声を上げるライエル。
喜び勇んで近付くと――首を伸ばしてまどろむように瞳を閉じていたヴォルクリスの瞼が開き、ぎろり。
見れば、巨大な口にはみ出した牙。
ライエルはその場で硬直した。
「早く来んか!」
(や、やばい……! ど、どっちも怖い……)
思わず目が泳ぐ。
「ふふふ、星灯の英雄でも怖いのですわね」
楽しげに笑ったベアトリスが、事もなげにヴォルクリスの鼻筋を撫でる。
ヴォルクリスは気持ちよさそうに目を細めた。
「ほら、いい子ですのよ。何の心配も要りませんわ」
『ルナリアさん、あの竜、やっぱりペットみたいですね』
(ええ、互いに深く信頼しているのですわね)
*
ライエルが鞍へとよじ登ると、間近で見るヴォルクリスの姿に改めて息を呑んだ。
大皿ほどもある鱗一枚一枚が朝日を反射し、鏡のように空と森を映し出している。
(……思ったより、高い……!)
足元を覗き込むと、地面がはるか下。竜の背は高台のように見晴らしがよく、冷たい空気が頬を撫でた。
指先でそっと鱗に触れると、ひやりとするかと思いきや、じんわりと温かい。
(そっか……竜は飛竜と違って恒温動物に分類されるんだった……。
この硬くて美しい鱗……。導熱性は低そう。電気は通すのかな? 硬度は? 酸には強い?
ああ、一枚だけでいいから、標本として欲しい……!)
などと不遜なことを考えていたら、にやりと笑うレオンハルトと目が合い、慌てて背筋を伸ばすライエルだった。
レオンハルトはヴォルクリスの鞍を指差し、もう一人分のスペースを示した。
「もう一人、後ろに乗せられる。どうする?」
途端に――ティアナとフローラが顔を見合わせ、悪戯っぽくニヤリ。
次の瞬間、左右からエミリーの腕をがっちりつかみ、そのままずるずると前へ押し出した。
「え、ええええ!? ちょ、ちょっと、何するの!」
「わたしたちは後で二人で乗りますの!」
「そうですわ!」
「だから、ライエルとエミリーがいいと思うの!」
「うん、風を感じるのですわ!」
「いや無理無理無理!! わたし、高いところダメなんだからぁぁぁ!!」
踏ん張るエミリーを引きずる二人は楽しそうにケラケラ笑い、ベアトリスまで「エミリーさん、がんばって!」と無責任に声援を送る。
鞍の上のライエルは、なぜか目を潤ませながら手を差し伸べる。
「だ、大丈夫……! ぼ、僕がついてるから!!」
「頼りないぃぃぃっ!!」
渋々ライエルの後ろに乗ったエミリーは、青ざめた顔で鞍を掴んだ。
そこへ最後列に悠然と跨ったレオンハルトが、満足げにうなずく。
「しっかり掴まっていろ。……落ちたら死ぬからな」
「ひぃぃぃっ!!」
エミリーの指が白くなるほど強く鞍を握る。心の中では悲鳴が止まらない。
(い、いやああああああああああああっ!!)
一方でライエルの胸は期待に高鳴り、手は震えていた。
「よし――行くぞ!」
ヴォルクリスが翼を広げた瞬間、湖畔の霧が一気に巻き上がり、風がざわめく。
ティアナとフローラは「きゃー!」「行ってらっしゃーい!」と手を振り、
ラファエルたちも微笑ましげに見守る中――
ヴォルクリスの白銀の翼が力強く羽ばたいた。
朝靄を突き抜けた瞬間、陽光が翼に走り、空が裂ける。
白竜と少年少女が天を駆ける光景は、まるで伝説の絵巻の一場面だった。
森も湖もみるみる小さくなり、風が叫び声のように耳を裂く。
(うわ……本当に……竜に、乗ってる……!)
ライエルの心臓は鼓動を早め、エミリーは目をぎゅっとつぶって悲鳴を堪える。
レオンハルトは後方で悠然と腕を組み、まるでこれが日常だと言わんばかりだった。
*
「……おい、ちゃんと掴まっていろよ?」
背後でレオンハルトがにやりと笑った。
嫌な予感が走るエミリー。
「えっ――」
「行くぞ!」
ヴォルクリスがぐんと身体を傾け、突然の急旋回。
風が耳元を咆哮のように駆け抜け、視界がぐるりと傾く。
「きゃあああああっ!!」
エミリーの手が反射的に鞍から離れ、身体が外側へと引っ張られる。
「危ないですよ!!」
ライエルが思わず叫び、片手を伸ばす。
その瞬間、エミリーはライエルの腰にしがみつき――ぎゅうっと腕を回した。
「えっ……!?」
ライエルの全身が硬直する。
心臓が暴れ馬のように跳ね、顔はみるみるうちに真っ赤になった。
エミリーの腕は小刻みに震えていた。
ぎゅっと目をつぶり、唇を震わせてなにやら呟いている。
エミリーさんも可愛いところあるんだなと思い、耳をすますと――
「……死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……死んだら恨む……死んだら恨む……」
(な、なんの呪文……!?)
「よーし、もう一度行くかぁ!」
レオンハルトの声とともに、再びヴォルクリスが鋭く旋回した。
重力がぐうっと身体を押しつぶすようにかかる。
「きゃああああっ!!」
エミリーは反射的にライエルに全身でしがみつき――ぴったりとくっついた。
背中も、腕も、頬も、ぜんぶ密着。
「~~~~~~っ!!」
ライエルの顔が真っ赤に染まり、思考が真っ白になる。
空の上で、時間が一瞬止まったようだった。
*
やがてヴォルクリスはゆるやかに高度を落とし、湖畔の広場へと戻ってきた。
竜が地面に降り立つと、ライエルとエミリーは――硬直したまま固まっていた。
空から降りてくるふたりの姿を見て、待機組がざわ……とどよめく。
その距離感、どう見てもただ事ではない。
「ぷっ……!」
「なにそれ、くっつきすぎ〜っ!」
ティアナとフローラが顔を見合わせ、腹を抱えて大爆笑。
……ただ、その笑いの奥に、ほんの少し複雑な色が混ざっていた。
ベアトリスも声を上げて笑い、シャルロットは「あらまあ」と上品に扇子で口元を隠す。
ラファエルとアルフォンス、ルナリアは肩を震わせ、目を逸らして必死に笑いをこらえていた。
セリアはぽかんと目を瞬かせ、ユリシアとランスロットは苦笑いを交わす。
その様子を見たまひるとルナリアの脳内でも、すかさずツッコミが走る。
『これは……! 完全に青春イベント発生ですね!! CGスチル入ります!!
エミリーさんヒロインのルート分岐ボイス来ますよ! “僕が守るから!”的なやつです!!』
(……あなた、楽しんでますわね)
『そう言うルナリアさんも、ちょっと顔が緩んでます! 緩んでます!』
(緩んでませんわ!!)
鞍から降りたライエルは真っ赤なまま動けず、エミリーは顔を逸らして知らんぷりを決め込んでいる――が、手はしっかりと彼の服を掴んだままだった。
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