第15話「社畜と悪役令嬢と、王家の休日」 エピソード⑮
グランツハイム城・崖西側の露天風呂。
女子風呂――。
──かぽーん。
澄んだ音が岩場に反響し、静かな夜に溶けていった。
湯けむりがふわりと立ちのぼり、硫黄のやわらかな香りが鼻をくすぐる。
湯面には夜空の星々と月が揺らぎ――まるで天空と地上が一枚の鏡で繋がったようだった。
(……ふぅ。気持ちいいですわ……)
白い布を胸に巻いたルナリアは、肩まで湯に身を沈め、吐息を漏らした。
頬にかかる湯けむりが心地よく、肌をなでる湯のとろみが、全身の疲れを溶かしていく。
一方、心の奥――まひるは完全に蕩けきっていた。
『極楽極楽~~~!!
いやぁ、これはもう……乙女ゲー的定番イベント・温泉!!
ついに、きたああああ!!』
(……まひるさんが喜んでくださって、よかったですわ)
湯船をぐるりと囲むように、シャルロット、セリア、ユリシア、ヴィオラが並んでいる。
学院で共に過ごす友人たちと、月明かりの下で過ごすひとときは、まるで秘密のお茶会の延長だった。
「いいお湯ですわね……旅の疲れが癒されますわ……」
ルナリアが微笑むと、湯の対岸にいたユリシアが、いつになく表情をゆるめて口を開いた。
「ふふ……そうなのです。この温泉は山脈の地下深くから湧き出ており、硫黄と鉄、他にも豊富な鉱物成分を含んでいます。これが疲れを癒すだけでなく、皮膚を新しくし、傷の治癒にも非常に効果があるのです」
いつもは必要最低限しか話さない寡黙な騎士の熱弁に、場が一瞬きょとんとする。
『え!? ユリシアさんが饒舌!? 温泉語ると止まらない!? まさかの温泉ガチ勢!!』
セリアは湯気に頬を染めながら、柔らかく微笑んだ。
「ほんとに……いいお湯です……」
月の光が湯面に反射し、上気した頬ととろんとした瞳を照らし出す。
まひるが思わず小声で叫ぶ。
『うわぁぁぁ、セリアちゃんの湯上がり顔、破壊力高っ……!!』
シャルロットも目を閉じ、髪をまとめたうなじを湯けむりに浮かべながら、穏やかに言った。
「心まで洗われるようですわね……」
普段は厳格な王女の表情に、ふと少女らしい柔らかさが差し込む。
その姿に、まひるの心拍数が一気に跳ね上がった(脳内で)。
『う、うわ……王女様と、ついに……裸のお付き合い……!!
これは、夢のご褒美イベントじゃん! ありがとうルナリアさん! ありがとう異世界!!』
(……まひるさん。不敬ですわよ)
『てへっ』
──その時、湯面を破る豪快な水音が響いた。
「きゃっ!?」
元気いっぱいのティアナとフローラが、勢いそのままに湯船へ飛び込んだのだ。
「うわぁ~、あったかーい!」
「お湯、気持ちいいね!」
跳ね上がった水しぶきがルナリアの頬を濡らし、彼女は目を細める。
その瞬間、シャルロットの叱責が飛んだ。
「ティアナ、フローラ。淑女らしく入りなさい!」
「はーい……」
双子はしゅんと肩を落とし、湯の中でちょこんと並んだ。
場が少し和んだその時――湯煙の向こうから、悠然とした足取りで現れたのはベアトリスだった。
「これは……なかなか……」
月明かりを受けた彼女の銀髪が湯気に濡れ、煌めく。
一同の視線が一斉に彼女へ注がれ――
うなじから白い首筋、華奢な肩へと自然に滑っていく。
そして、柔らかなカーブを描く――。
……布が、ない。
湯けむりの奥で、誰もが同じ場所を見て息を呑んだ。
その瞬間、まひるの脳内に警鐘が鳴る。
『ちょ、ちょっと!? 布!! 布どこ行ったの!? 裸、裸なんですけどこの人ーーー!!』
ヴィオラは顔を真っ赤に染め、ぶくぶくと湯の中に沈んでいった。
ベアトリスは周囲の視線など意に介さず、足先をそっと湯につけた。温度を確かめるように。
続いてゆるやかに湯へと身を沈めると、無言の皆に気付き、胸元に目を落とす。
ふっとため息をつくと、肩をすくめて言った。
「……ああ、これですの? 気になさらないで。殿方もおりませんし、減るものではありませんから」
『こっちが気にするわああああああ!!!』
「帝国では、混浴では布を巻きますけれど、女子風呂ではそのままですのよ?」
「こ……混浴……」
思わず、誰もが絶句する。
『恐るべし帝国式! 温泉でも一撃の破壊力ぱない!!』
ルナリアも思わず、上気した頬を両手で包んでいた。
ベアトリスは、手のひらですくった湯を頬に当て、うっとりと目を細める。
「ふぅ~。帝国の温泉とは違って……この湯のとろみ、素肌にまとわりつく感覚……絹で身を撫でられているみたい……。ああ、格別ですわ……」
その艶めいた声音と湯面に浮かぶ豊かな双丘に、周囲は一斉に赤面して俯いた。
──だが、ひとりだけ果敢に反応した者がいた。
「帝国の温泉とは、どのようなものなのですか?」
先ほど温泉語りをしたばかりのユリシアだ。
その瞳に、さきほどと同じ静かな熱が宿る。騎士の仮面の下から、確かな“温泉愛”がにじみ出ていた。
『やっぱり温泉ガチ勢だ……!』
「おや、興味がおありで?」
ベアトリスがくすりと笑う。
「いいでしょう。まずは、帝国三大温泉について、お話しますわね――」
と、まさかの温泉談義が始まる。
『なにこの展開!? 騎士と皇女の温泉トークとか、異世界、カオスすぎるんですけど!!』
*
少し離れた岩陰では、黒髪を高くまとめたエミリーが、首まで湯に沈み、そっと肩を縮めていた。
平静を装っているが、胸の内は嵐のようだ。
(え、えええ。なんでわたし、ここにいるの!?
貴族様どころか、王女様に、公爵令嬢、極めつけは皇女殿下よ!?
一緒にお風呂って……場違いすぎるでしょ……!?
わたし、ただの平民なんですけどぉぉぉ!!!)
こっそり上がろう……と白布を押さえ、そろりと立ち上がりかけた、その瞬間――
(げっ……!)
「こっちこっち!」
ティアナとフローラが両手をぱたぱたと振っている。ばっちり目が合った。
「え、えええええ!?」
「あら、エミリーさん。こちらへいらして」
ルナリアが柔らかく微笑みかける。
エミリーは固まったまま、顔を真っ赤にして一歩、また一歩と湯の中を進んでいった。
湯けむりの向こうに、逃げ場など存在しない。
意を決したエミリーは、“貴族女子会”という名の湯煙地獄へと足を踏み入れた。
*
「まぁ! エミリーさんのお肌……とても、すべすべですのね?」
ふいに隣から伸びた手が、エミリーの二の腕をなぞった。
声の主は、もちろんベアトリス皇女殿下である。
つるりとした肌の感触に、彼女は楽しげに目を細めた。
「ひゃっ……!?」
突然のスキンシップに、エミリーは肩を跳ねさせ、びくっと震える。
まさか皇女殿下に触られるとは思っていなかったのだ。
「何か秘訣などあれば、わたくしたちにもご教示願えないかしら?」
エミリーの頭の中で答えがぐるぐると巡る。
ふと母の言葉を思い出した。
「え、ええと……お、お魚……? たぶん」
「お魚、ですの?」
ベアトリスが目を瞬かせる。
エミリーは湯気に顔を真っ赤に染めながら、しどろもどろに答えた。
「はい……わたしの地元では、お魚をよく食べると肌がきれいになるって言われていて……あとは豆でしょうか……」
「まぁ……!」
「お魚と豆……!」
ベアトリスは感心したように頷き、シャルロットもティアナもフローラも興味津々に身を乗り出す。
セリアはにこにこと優しく耳を傾け、ユリシアは「なるほど」と小さく頷いた。
ルナリアも静かに相槌を打ち、まるで一座の話題の中心がエミリーになったかのようだった。
(う、うそでしょ……わたし、今……皇女殿下や王女殿下たちに囲まれて、美容トークしてる……!?)
内心でエミリーは目を回しそうになっていた。
*
その様子を、湯の少し離れたところで眺めていたヴィオラ。
もちろん、美容の話には興味がある。
けれど――どうしても、視線は別の方向へ吸い寄せられてしまう。
(……ルナリア様……)
上気した頬はほんのりと紅に染まり、銀を帯びた金の髪の下から覗く白い肌には、水滴が宝石のようにきらめいている。
湯けむりに包まれ、ふっと微笑むその横顔は、まるで物語の姫君のようで――。
(ルナリア様と……お風呂……)
ヴィオラは真っ赤な顔をさらに染め、湯の泡に紛れるように、ぶくぶくと再び湯の中へ沈んでいった。
***
――その夜。
グランツハイム城のルナリアの部屋。
豪奢なベッドに沈みながら――。
『……尊い。脳内で全録画済! 今日はもう、寝ても何度でも夢が続くやつ……』
「ええ、本当に。夢のように素敵な時間でしたわ……」
『……ルナリアさんにそう言われると、なんだか心の汚さを思い知らされるんですけど……?』
「あら……。明日も入りますのよ? 一緒に心まで洗われましょうね、まひるさん」
『……うん。なんかごめん。次はちゃんと心も洗いますんで……ぐすん』
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