第15話「社畜と悪役令嬢と、王家の休日」 エピソード⑬
――避暑地グランツハイム付近。
白竜山脈を登る山道は、馬車の車輪がきしむほど急峻だった。
標高が上がるにつれて空気はひんやりと澄み渡り、木々の間から覗く景色も次第にその姿を変えていく。
緑濃い谷間、岩肌を滑り落ちる滝、雲を抱き込むような峰々――。
先頭を進んでいたユリシアが、ふと手綱を引いて馬を下げ、ルナリアたちの乗る一号馬車のすぐ脇に並んだ。
窓越しにセリアへと目を向け、静かに告げる。
「セリア様――まもなく、雲海を抜けます」
セリアが小さく息をのむ。
そして次の瞬間、馬車が傾斜を登りきり、視界がぱあっと開けた。
――そこに広がっていたのは、雲の上に浮かぶ白亜の城塞。
『……な、なにこれっ!?』
ルナリアの中で声をあげたのは、心の奥で目を白黒させるまひる。
切り立った断崖に築かれた巨大な城は、朝陽を浴びてまばゆく輝き、雲海の上に堂々とそびえ立つ。
その足元には石造りの家々が連なり、白壁の街並みが山肌に沿って段々に広がっていた。
『……は? 避暑地って、もっとこう……温泉旅館とかじゃないんですか!?
浴衣でスイカ食べて、温泉卓球して、花火して……そういう“夏休みイベント”じゃないの!?』
動揺するまひるのツッコミに、ルナリアが小さくくすりと笑う。
(ふふ……ようこそ、天空の都グランツハイムへ)
『いやいやいや! これ、どう見ても“気軽な避暑地”じゃなくて……
ラスダン前の天空都市イベントでしょ!? 異世界なら絶対ここでボス戦あるやつだって!!』
(……まひるさん。ここはあなたにとって、最初から異世界ですわよ?)
『そういう意味じゃないんですってばぁぁぁぁ!』
馬車の窓から見下ろせば、眼下には白竜山脈の峰々が霞んで見える。
鳥すら届かぬ高みを渡る風は冷たく、陽光に照らされた城壁は雪のように白く輝いていた。
視線を先に移せば、城下町には風車が回り、青い屋根瓦の家々の間を人々が行き交っている。
石畳を行き交う荷馬車の列――そこには確かに「暮らし」の営みがあった。
『……ほんとに、ゲームのイベントマップに放り込まれたみたい……』
呆然と見とれるまひるに、ルナリアが静かに続ける。
(王家の避暑地といっても、ここは歴史ある天空の都。
今なお、国境を守る天然の要衝なのですわ)
『え、えええ!? わたし、ただの温泉旅行のノリで来ちゃったんですけど……!?』
肩を落とすまひるに、ルナリアは涼やかに微笑んだ。
(大丈夫ですわ。温泉もありますもの。きっと、まひるさんもくつろげますわ)
『……え、ほんとに!? やったぁぁぁ! 温泉! 温泉! 温泉!』
胸の奥で飛び跳ねるようにはしゃぐまひるを感じながら、ルナリアはそっと微笑んだ。
その笑顔を隣で見たラファエルが、穏やかに目を細める。
婚約者の微笑みを受けるだけで、険しい山道を越えてきた疲れなど一瞬で消えてしまう――
彼の瞳は、確かな喜びと誇りに満ちていた。
(あらあら……お兄様もルナリアも、そんなに嬉しそうに。
さて、この先はどうなりますことやら)
扇の向こうで微笑みを湛えながら、雲海に浮かぶ白亜の城に目を移す。
天空の都グランツハイム――。
いよいよ、新たな舞台での“王家の休日”が幕を開ける。
***
馬車は城下町を避け、王族専用の横道へと進んでいった。
雲海の切れ間に現れたのは、鏡のように透き通った湖。
白い靄が立ちこめ、湖面は雲と光を映して揺れ、まるで空に浮かぶもうひとつの海のようだった。
『わ……なにこれ! 天空の湖!? すご……!』
思わず口を開けたまひるの言葉を遮るように、ひゅう、と冷たい風が吹き抜ける。
水面の靄が渦を巻き、幻想的な光景が一層濃くなっていく。
その時だった――。
「あら?」
ルナリアが湖の先を見やり、目を凝らす。
『……鳥?』
雲の上、光の中をゆっくりと影が横切っていた。
最初は鳥に見えた。
けれど、近づくにつれて、その大きさにまひるも言葉を失う。
『え……ちょ、でか……っ!』
広げた翼の影は、三台の馬車の車列を覆い隠すほど。
一瞬、昼が夜に塗り替えられたかのように暗くなり、冷たい風がざわりと走った。
鋭い尾が雲を裂き、陽光を反射して煌めく鱗がちらりと見えた。
『ひ、飛竜……? もっと大きい……!』
まひるは心の中でごくりと唾を飲み込む。
車窓から身を乗り出したルナリアは、まひるに心の中で呟いた。
(あれは……竜ね)
『ほんとにラスボス出たーーっ!
え、ええ!? 確かに今、神聖国最強パーティのような気もするけど、勝てる気がしない……。
なにこれ、最初の選択肢間違えたら即破滅ENDのクソゲーですか!?』
翼を広げて滑空するその姿は、圧倒的な威容。
ルナリアも文献での知識はあったが、実際に見るのは初めてだった。
(竜は賢い存在よ。いたずらに人と争おうとはしないはず。
でも、このあたりには生息していないと文献にあったわ。変ですわね……)
けれど――実際に、こうして空から迫ってくる姿は、獣や魔獣ではなく神獣の気配。
陽光を受けて鱗が光り輝く様は、まるで神話の中に迷い込んだかのようだった。
見れば第二、第三馬車の皆が車窓から身を乗り出し、上空を旋回する竜の姿を追っている。
「りゅ、竜だ――っ!?」
馬車の御者が慌てて手綱を締め、車輪がきしむ。
ランスロットとユリシアの馬も竜に怯えたのか後ろ足立ちになり、騎士たちも馬を落ち着かせながら一斉に剣に手を掛ける。
セリアは胸元で静かに祈りを捧げ、シャルロットは扇で口元を覆いながら目を大きく見開いた。
その隣でラファエルは、ランスロットと短く言葉を交わし、対策を議論しているようだった。
『ね、ね、ルナリアさん! 竜とエンカウントした時のマニュアルって、あるんですよね!?
骨付き肉を投げるとか、鈴の音が嫌いとか、それからそれから――』
(いえ、無いですわね……。一生に一度会うかどうか、それが竜という存在ですもの)
『やばい……終わったかも……』
湖に影を落としながら――その巨大な青い眼差しだけが、こちらを見下ろしていた。
ただの獣ではない。
そこに宿る知性の光に、ルナリアは思わず息を呑む。
心臓が早鐘を打ち、視線を逸らせぬまま固まった。
(……わたくしを、見ている?)
『ちょ、ちょっとルナリアさん!? 完全にフラグ立ってますよこれ!
ボス戦イベントどころか、即死級の前兆演出じゃないですか!?』
竜は翼を広げ、なおも悠然と旋回を続ける。
雲を裂くたび、白い靄が渦を巻き、陽光を反射した鱗が金色の稲光のように煌めいた。
湖面にはその影が巨大な黒の紋章となって揺らぎ、まるで天地すべてを覆い尽くすかのようだ。
ふと、ルナリアの視線が、見下ろす竜の瞳に吸い寄せられた。
あの竜の澄んだ青い瞳……。
「殿下、竜は攻撃の意思がある時は瞳が赤くなると文献にありました。
きっと、攻撃の意思はありませんわ」
セリアとシャルロットが息を呑む。
セリアを守るように馬車の脇に馬を寄せていたユリシアは、胸に手を当ててルナリアへ小さく礼をした。
ラファエルは目を瞬かせると、しっかりと頷いた。
窓から乗り出し、ランスロットを呼び寄せると、短く指示を出した。
大気を震わせる羽ばたきに、湖面の靄が波紋のように揺らぎ、馬車までもが微かに震えた。
御者も騎士も息を呑み、誰もが動けない。
御者の中には祈るように胸元で手を組む者もいれば、騎士たちの中には剣に手をかけたまま固まる者もいる。
ランスロットが馬を巡らせ、各馬車と騎士たちに短く声をかける。
「剣は抜くな、魔法攻撃も禁止。竜は攻撃の意思はない! 刺激はするな!」
竜は攻撃の気配を見せぬまま、ただ悠然と湖と城塞をまたぐように舞い続ける――。
冷たい風が頬を撫で、誰一人言葉を発せぬまま、竜の影がすべてを覆っていた。
ただその神話の一幕を、見上げるしかなかった。
※最後までお読みいただき、ありがとうございました。
もしお気に召しましたら、評価やブックマークをいただけますと、とても励みになります。
評価・ブクマしてくださった皆さま、改めてありがとうございます(=^・^=)