第15話「社畜と悪役令嬢と、王家の休日」 エピソード⑩
王家直轄領クローネベルク。
レストラン《ル・クレプスキュール》。
チョコレートファウンテンの向こう――
艶やかなチョコの流れを挟んで、碧眼がまっすぐにこちらを射抜いてくる。
癖のある金の髪を揺らし、アルフォンスはおどけるように片目を瞑ってみせた。
「やあ、ルナ」
気軽な声音に、ルナリアの胸が小さく跳ねる。
「……アルフォンス殿下」
軽やかに歩み寄った彼は、テーブルに並ぶマシュマロへ視線を落とし、さらりと口にした。
「僕も一つ」
にこりと笑うアルフォンス。
しかし――彼は視線を外さぬまま、いっこうに手を伸ばそうとしない。
(……?)
『ルナリアさん……これって……』
(何かしら?)
沈黙。
ただ微笑みを湛えて待っているその態度に、ルナリアは思わず息を呑む。
『――ぜっっったい、食べさせてほしいって合図だよ! “あーん”イベントだよこれ!』
(~~っ!? ま、まさかそんな……!)
喉の奥がきゅっと鳴る。
(……そのようなことを殿方に……。でも、幼馴染ならば、そのぐらい……)
ルナリアは慌ててマシュマロをひとつ取り、チョコにくぐらせ――自然に差し出しかけた。
そのとき、遠くでベアトリスの華やかな笑い声が弾み、はっと我に返る。
(……だめ。周りにどう思われるか……)
指先が震え、唇をかむと、そっと手を引っ込めてしまった。
「……こちらは、ご自分でどうぞ」
小さな声で告げ、チョコのついたマシュマロを皿に置く。
アルフォンスは一瞬まばたきし――やがて小さく笑うと、
自らそれを取り、あっさりと口へ運んだ。
「……これは、美味しい」
唇に残ったチョコを指先で拭い、ちらと彼女へ視線を投げる。
「君が取ってくれたものだから、余計にね」
「……っ!」
心臓が一瞬にして熱を帯びる。
(……ずるい方……。これ以上、心を乱されては困りますのに……)
そう思いながらも、ルナリアの頬には淡い朱が宿り――
熱のこもった沈黙が二人を包む。
その余韻を破るように、アルフォンスは給仕へと歩み寄った。
*
アルフォンスは軽く笑みを浮かべたまま、近くの給仕からグラスを二つ受け取った。
透き通る琥珀色の果実酒を片方、ルナリアへ差し出す。
「……少し、話しませんか」
人の視線から逃れるように、彼は自然に道を示した。
ルナリアは戸惑いつつもその手に導かれ、二人はざわめきの広間を抜け出していった――。
夜風の吹くテラス――。
クローネベルクの丘の上に広がる夜景――。
街の灯りは瞬き、まるで地上に散りばめられた星々のように輝いている。
遠くには白竜山脈が月光を帯び、その稜線が青白く浮かんで見えた。
「……綺麗ですわね」
思わずこぼれたルナリアの声に、アルフォンスは欄干に片肘をつき、静かに頷いた。
「ええ。けれど、僕にとっては――」
言葉を切り、琥珀の液を一口。
その視線が、まっすぐにルナリアを映す。
「夏の夜会で……倉庫に閉じ込められた時のこと。
君を抱きしめてしまったことを、ずっと謝りたかった」
夜風が二人の間をすり抜ける。
ルナリアはグラスを胸元に寄せ、微かに揺れる灯りの中で瞳を見開いた。
(……あのとき、わたくしは確かに震えていました。
でも、それは安堵だけではなく――)
しばし黙し、グラスの中の琥珀を揺らす。
答えを探すように夜空を仰ぎ――けれど結局、唇にのせたのは別の言葉だった。
「……こうしてお話するのも、あのレストラン以来かもしれませんわね」
アルフォンスがわずかに目を瞬かせる。
あの時は聖都の夜景。今はクローネベルクと白竜山脈。
どちらも……忘れられない景色。
ルナリアはグラスの縁をなぞりながら、胸の内で言葉を探す。
――あの夜の抱擁を嫌だと思ったことは、一度もない。
むしろ、心の奥底では嬉しかったのかもしれない。
きっと心配だっただけ――
そう納得しながらも、拒絶できなかったのは……それだけではなかった。
けれど、それを口にすることはできない。
立場が、責務が、そしてまだ胸の内に残る迷いが、彼女の唇を縛りつける。
だからこそ、ルナリアは別の言葉を選んだ。
視線を夜景に移し、そっと微笑む。
「……わたくし、アルには感謝しておりますの」
静かに紡がれる声。
謝罪を否定せず、肯定もせず。
ただ「感謝」として受け止め直す――それが今の彼女にできる、唯一の誠実だった。
「――あなたは、わたくしの友、ヴィオラを見つけてくださった。
聖剣杯では、レオンハルト殿下と命を賭して戦ってくださった。
夜会では、倉庫で待つわたくしの下へ、来てくださった。
……そして何より――
暗闇の底で、たった一人で震えていたわたくしを――
こうして光の下へと救い出してくださった――」
言葉を区切るたび、胸の奥が震えた。
けれど、それは「謝罪」への答えではなく、あくまで「感謝」。
ルナリアはゆっくりとアルフォンスへと向き直り、紫の瞳で彼を見据える。
次の瞬間――言葉が落ちた。
「――わたくしがここに立っていられるのは、アル、あなたのおかげ。
そう思っておりますの」
『ルナリアさん……』
まひるもそれ以上は何も言えなかった。
アルフォンスはわずかに目を見開き、ほんの少し眉を寄せた。
思わず口を開きかけるが――口を結ぶと、微笑だけを返した。
夜風に揺れる金の髪が、ほんの少し寂しげに見えたのは――気のせいだったのだろうか。
「ねえ、アル」
ルナリアの声に、彼はふと目を伏せる。
彼女は胸元の月のペンダントへと手を添え、視線を落とした。
「あの春の庭園での約束――どうして、わたくしに思い出させてしまったのかしら?」
クローネベルクの丘を吹き抜ける風に、ランプの灯りが揺れる。
問いかけは穏やか。けれどその奥に隠された色を、アルフォンスは感じ取っていた。
短く息を呑んだ後、彼は唇の端をわずかに上げる。
「……さあ、どうしてだろうね」
軽やかな口調。だがそれは、まるで自分に言い聞かせるようだった。
その横顔が寂しげに揺れて見えたのは――気のせいだったのか。
アルフォンスは一瞬、迷うように彼女へと手を伸ばしかけた。
けれど、ほんの寸前で止める。
(――触れてしまえば、すべてが変わってしまう)
(……もし触れられたなら、わたくしは――)
二人の心の中で声にならない想いが交錯し――
彼は静かに手を落とし、夜風に紛れるほどの小さな声でつぶやいた。
「……君が覚えていてくれるなら、それでいい」
ルナリアは視線を伏せ、胸元のペンダントを強く握りしめる。
胸の奥の痛みが静かに膨らみ、彼の言葉は夜風にさらわれていった。
互いに言葉を失ったまま、ただ夜風だけが二人の間を渡っていく。
――その様子を、少し離れた場所から静かに見つめる碧い瞳があった。
*
扇を口元に添えたまま、シャルロットはそっと目を細めた。
夕闇のテラスを渡る風の中、互いに言葉を探しあぐねる二人。
触れそうで触れられない距離に、彼女は胸の奥にかすかな痛みを覚える。
(……あの子は、まだ選べない。
いいえ――選ばせてしまってはいけないのかもしれないわね)
小さく息を吐く。
ルナリアが穏やかに微笑んでいるのも、アルフォンスが視線を逸らしたのも、誰よりも彼女は理解していた。
ふと呼ばれたような気がして夜空を見上げる。
薄雲を裂いて顔を出した三つの月が、寄り添うように天頂で輝いていた。
――まるで、あの三人の現在を映すかのように
(願わくば――このひとときが壊れず、ほんの少しでも長く続きますように)
扇の陰で結んだ唇に、淡い祈りを刻み――
やがて、そっと声をかけた。
「ルナリア……ティアナとフローラが、あなたとお話ししたいそうなの」
その声音には、友としての、そして姉としての願いがにじむ。
三つの月が寄り添うように輝く下で、
シャルロットの願いは夜空へと溶けていった。
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