第3話「社畜と悪役令嬢と、学院に咲く小さき花の革命」 エピソード⑦
未来の王太子妃にして、公爵令嬢。
――ルナリア・アーデルハイト。
ごく普通の奉仕服に、標準仕様のつば広麦わら帽。
けれど、ただそこに立っているだけで、彼女は――
誰よりも華やかで、誰よりも完璧だった。
それは、まるで“完璧であること”そのものが、彼女に課された宿命のように。
音もなく、優雅に佇む彼女に――自然と視線が集まる。
集まる視線の波に、ルナリアはほんのわずかに眉をひそめた。
それだけで、空気がぴんと張りつめる。
その瞬間、脳内に響いたのは、能天気な声。
『えっ、なんか……期待のまなざし、すごっ!?
ルナリアさん、これ完全に“善行キャラ”になってますよ!?』
(そもそも誰のせいかしら……? 他人事みたいに言わないでくださる?)
『いえいえ、今日のわたしは――奉仕畜!
他人事なんかじゃありません! 一緒にがんばりましょ~~!!』
(はぁ……そういう意味ではありませんのよ)
けれど、その軽い声が胸に響いた瞬間――
少しだけ、張り詰めていた空気がほどけた気がした。
すると、いつもの真っ白な神官服から奉仕服に着替えたセリアが、そっと歩み寄ってくる。
「ルナリア様……今日、一緒に頑張れるって思うと、心強いです……!」
(セリア……どうしてあなたは、そんな目をするのかしら)
――その瞳は、善意でも押し付けでもなく。
ただひたすらに、「信じてくれている」ようで。
その隣に直立した護衛――奉仕服に帯剣した女騎士、ユリシアが一礼する。
高くまとめた銀の髪が、星の流れのようにゆるやかにきらめいた。
「奉仕活動へのご参加、感服いたします。もしよければ、私もお手伝いを」
(なによ……セリアにユリシアまで)
ざわ……ざわ……。
周囲の期待が、見る間にふくらんでいく。
ルナリアもその“圧”を肌で感じ、さすがにいたたまれない気持ちになるが――
そんな彼女をよそに、無慈悲な鐘の音が空を裂いた。
ゴォォン――……。
鐘の余韻が空に溶けていくと、広場全体がしん、と静寂に包まれた。
静寂の中、花壇の前に凛と立つルナリアの姿に、皆、息を飲む。
――そして、決定打。
ひとりの下級生が、小さなスコップを両手に抱えて、おずおずと近づき――
そっと、それを差し出した。
「ルナリア様……あの、これ……どうぞ……!」
小さな手。震える声。
けれど、その瞳には――真っすぐな憧れが宿っていた。
(……はあ。もう、どうあっても……そういう流れなのね)
「ありがとう」
鈴のような声でそう言うと、下級生の顔にぱっと花が咲いた。
小さく息を吐き、奉仕服のスカートを摘み上げると、ルナリアは無言で手袋を外す。
差し出されたスコップを、両手で確かに受け取った。
じっと、その手の中のスコップを見つめる。
(スコップ……何年ぶりかしら)
それは、冷たくて、少し重くて――どこか、懐かしかった。
でも、たしかに――今のわたくしが、“選んだ”道の重みだった。
(……わたくしが、泥に触れる? 公衆の面前で?)
心のどこかで、まだ囁く声があった。
“貴族としてのふるまい”
“令嬢としての矜持”
“妃教育の教え”
けれど――
今、わたくしの手の中にあるこの道具は、実際は冷たいのに――不思議と温かかった。
まっすぐな瞳が、ただひたすらに、信じてくれていて。
(……いいえ。これは、わたくしが選んだのです)
(過去のわたくしでは、きっと選べなかった。でも今は――)
そのとき、まひるの少し興奮した声が脳内に響いた。
『あっ、これ……まさかの花壇イベント突入の流れ!?』
『ルナリアさん、好感度アップ+3は狙えるチャンスですよ、チャンス!!』
(はぁ……)
「……やればいいんでしょ、やれば」
その一言に、生徒たちは一斉に息を呑んだ。
(……“選んだ”のなら、“アーデルハイト家の令嬢”としての矜持を見せるまで)
ルナリアは花壇の縁にしゃがみこむと、茂る雑草の根元をじっと見つめた。
「……根が深いわね」
ぐっ、と力を込めてスコップを押し込む。
“氷の百合”ルナリア・アーデルハイトが土を掘り返す音が、静寂を切り裂いた。
陽光が土の粒を照らし、跳ねた泥がきらめく中――
麦わら帽子をかぶった金の髪の令嬢の頬に、汗がひとすじ、静かに光る。
それは、春の花々よりも清らかで――
見慣れた優雅さとは異なる、自然で、凛とした美しさだった。
どこかの貴族生徒が、ごくりと唾を飲み込む音がした。
「ルナリア様が……本当に、土いじりを……?」
「あれ……意外と……手際いい?」
「というか……スコップの持ち方、綺麗……」
まるで、舞踏会の所作のように。
まるで、ひとつの芸術のように。
貴族も平民も、その場の全員が、呆気にとられていた。
(スコップを持っただけで、こんなに注目されるだなんて……冗談じゃありませんわね)
そう内心で嘆きながらも、ルナリアは額に汗をにじませ、黙々と作業を進めていく。
生徒たちがざわつく中――
セリアは胸にそっと手を当て、静かに感嘆の息を漏らした。
「……美しい……」
ユリシアも、優しい眼差しでルナリアを見つめながら、頬をほんのり染める。
「まさしく、尊き御業――」
教師も、静かに頭を垂れた。
「そのご姿勢、学院の模範と申せましょう」
遠巻きに冷笑していた貴族のひとりが、帽子を脱ぎ、そっと頭を下げる。
黙々と作業していた平民の少女が、泥まみれの手で、小さく拍手を送った。
最初の拍手は、小さな手のひらから。
それが静かに、波紋のように広がって――
春の風に乗り、中庭を、やさしく包み込んでいく。
『……すごいです、ルナリアさん』
まひるの声が、珍しく静かに――けれど、確かに胸の奥に響いてきた。
『ううん……ほんとに。ルナリアさんの想い……ちゃんと、みんなに届いてる。
わたし、今のルナリアさんを、心から誇りに思うよ』
ルナリアは、作業の手を止めることなく、心の中でふっと微笑む。
(……なによ、急に真面目になって。らしくもないこと)
だけど、その声が――少しだけ、嬉しくて。
少しだけ、手のひらに力がこもった。
(……でも、ありがとう)
そっと、でも確かに。
それは、誰にも聞こえない場所で交わされた、“ふたりだけの拍手”だった。
***
しばらくすると――
花壇で雑草を抜いていたルナリアの耳に、少し離れた場所からクスクスと忍び笑いが届いた。
振り返らずとも、誰の声かは分かる。
――令嬢三人組。
いずれも名のある貴族家の令嬢たちで、舞踏会の前までは、ルナリアに対して従順な態度を崩さなかった者たちだ。
けれど今は、それぞれの口元に、侮蔑の笑みが浮かんでいる。
「まあ……“公爵令嬢”も、地に落ちたものですわね」
「“婚約者様”にふさわしい気品を捨ててまで、泥にまみれるなんて」
「一昨日の夜会も欠席なさって――自ら、すすんで泥にまみれていたとか」
「庶民に媚びるのも、大変ですわね。――やはり、“聖女様”の影響かしら?」
「ユリシア様は、たしか“辺境伯”様のご息女。セリア様も……同じく、ご息女ですの?」
「いえ、セリア様はご近縁とはいえ――ただの、“田舎貴族”のご出身だとか」
最後は、三人そろっての見事なユニゾン。
「あらまあ。辺境の田舎貴族のご出身でしたら――むしろ、よくお似合いですこと」
その言葉がよほど気に入ったのか、一同は楽しげに笑い合った。
セリアが名指しされ、ユリシアがそっと振り向いた。
目元に冷たい光を宿して、三人を一瞥する。
しかし――セリアは静かに首を振り、彼女に微笑みかけた。
ユリシアは頷き、再び作業に戻る。
嘲りの言葉と空気に、周囲の空気が一瞬、ぴんと張りつめた。
そんな中、ルナリアの脳内に、いつもの能天気な声が響く。
『うわ、また出たー! お約束のモブ令嬢三人組!』
『ルナリアさんのターンです! ばっさりと行っちゃってください!』
(わたくしが、何を言われようと構いません)
(けれど――誰かを傷つける“悪意”の言葉だけは、黙って聞き流すことなど、できませんのよ)
……たとえ、こんなことに意味などないとしても――
それでも、わたくしは、“見過ごせない”のです。
ルナリアは作業の手を止め、ゆっくりと立ち上がる。
奉仕服のスカートについた泥を払い、土で少し汚れた指先を見つめた。
そして、静かに振り返る。
金糸の髪が風に揺れ、彼女の頬をかすめる中――ルナリアは、微笑んだ。
「――そう。“泥にまみれる”ことが、そんなに恥ずかしいかしら?」
その声は穏やかで、けれど芯に鋭い刃を秘めていた。
令嬢たちは一瞬たじろぐが、すぐに意地を張るように返す。
「もちろんですわ。貴族たるもの、常に優雅であるべきですもの」
「泥は、下々の者が触れるもの」
「そうでなければ、品位が疑われますわ」
ルナリアは一歩、彼女たちに近づいた。
その瞳は氷のように澄み、けれど燃えるような意志を宿していた。
その様子に、平民の少女が思わずつぶやく。
「……“氷の百合”……」
「そう……。なら、聞かせてほしいわ」
「貴女たちは、その“綺麗な手”で、何を守るの?」
令嬢たちの顔が引きつった。
「あら、まさかとは思いますが……ご存じないのかしら?」
「あの“辺境伯様”は、民と共に畑を耕し、魔物を討ち払う方」
「聖王様が認めた“盟友”が、自ら範を示しておられるのに――」
「それすら知らぬ方々が、貴族を語るとは……片腹痛いですわ」
セリアとユリシアが、ルナリアの方を振り向いた。
その立ち姿に、目を奪われる。
ルナリアはさらに続ける。
「誇り高き貴族であるのなら――
泥に触れることすら恐れて、どうして民を導けるの?」
「わたくしは、ただ飾られるだけの花じゃない――
この手で根を張り、咲かせる花でありたい」
「それこそが、“上に立つ者”の誇りであり、矜持ではなくて?」
沈黙が落ちる。
令嬢たちは言葉を失い、視線を泳がせた。
ルナリアはそっと微笑を深めると、花壇からスコップをひとつ取り上げ――
すっと、令嬢のひとりに差し出した。
(……どうせ誤解されるのなら、わたくしの流儀で応えてみせる)
「さあ、貴女たちも“誇り”があるのなら――その手で証明なさい」
「“汚れぬ手”を守るのが貴族の嗜みだというのなら、
今ここで、それがどれほど虚しいことか、理解できるはずよ」
三人は、赤面しながらもスコップを受け取るしかなかった。
悔しさと戸惑いに頬を染めながらも――
その胸の奥には、不思議な熱が灯っていた。
(……これが、ルナリア・アーデルハイト)
彼女たちの心に刻まれたのは、侮蔑ではなく――
圧倒的な、“本物の気高さ”だった。
ルナリアはそれ以上何も言わず、再び花壇へ向き直る。
そして、淡々と、スコップを動かし始めた。
(……はぁ。どうして、いつもこうなるのかしら)
その背中を見つめながら――
令嬢たちは、黙ってスコップを握りしめる。
やがて、恐る恐る雑草に手を伸ばした。
「……意外と、楽しいものですわね」
「そ、そうですわね……」
「しぶとい雑草もあれば……すぐ抜けるのもあって……」
三人は顔を見合わせる。
最初は戸惑いながらも――
気づけば、その手は、思った以上に真剣だった。
(……お願いだから、これ以上、期待しないでちょうだい……)
けれど、その時にはもう、学院の空気は変わり始めていた。
その光景を見ていた周囲の生徒たちは、
静かに、けれど確かに、ルナリアへの眼差しを変えていた。
やがて――
その背を見つめていた生徒たちが、貴族も平民も関係なく、
次々と道具を手に取り、花壇の手入れに加わり始める。
「わたくしも……やります!」
「僕も手伝います!」
「みんなで、花壇、もっと綺麗にしましょう!」
――学院の空気が、確かに変わった。
まるで、貴族も平民もなく、同じ“手”を汚して、同じ花を咲かせるように。
それは、芽吹いていた。
小さくて、儚くて。けれど確かな――
小さき花の革命。
風に揺れる花壇の中。
誰かが植えたばかりの白い花が、そっと開き始めていた。
まるで、その清廉なる意志に、静かに応えるかのように。
『……咲いたね』
まひるの声は、春の息吹のように柔らかくて――
けれど、閉ざされた氷の奥にある、少女の心に、かすかな、でも確かなぬくもりを届けた。
その時――ルナリアの小さな“革命”を、陰から見つめる者がふたり。
それぞれの場所から、それぞれの想いで――
静かに、心が動き始めていた。
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