第3話「社畜と悪役令嬢と、学院に咲く小さき花の革命」 エピソード⑥
王立学院・寄宿舎(早朝)
――ルナリアの朝ルーティンの前。
まだ陽が完全に昇りきる前。
静まり返った寄宿舎の廊下に、小さく、規則正しい足音が響く。
――コツ、コツ。
石造りの床に、迷いのない歩みが刻まれていく。
――コツ。
やがて、その音はある一室の前で止まった。
“ルナリア・アーデルハイト”――五大公爵家が一つ、アーデルハイト家令嬢の私室。
そのドアの前に、ひとり、ぽつりと佇む少女の姿。
黒を基調とした清楚なエプロンドレスは、白いレースの縁取りがよく映え、
その腰元に結ばれた大きなリボンが、まるで彼女の無垢を語るようにふわりと揺れた。
栗色の髪は左右に丁寧に結われ、ツインテールの毛先が、朝の静謐な光の中で小さく踊っている。
彼女の名は――ミレーヌ・アルヴェール。
爵位を持たぬ下級貴族の娘でありながら、王立学院・中等部に在籍し、
“氷の百合”と称される公爵令嬢、ルナリア・アーデルハイトの専属侍女を務める少女。
実のところ、ミレーヌの実家は、地方の小都市を治める小さな領主家にすぎない。
それでも、五大公爵家の侍女に抜擢されたことは、一家にとっては十分すぎるほどの誉れであった――
けれど。
(……まあ、それと「お嬢様の侍女への扱いが雑すぎる件」は、話が別ですけどね)
清楚なエプロンドレスの腰元にあるリボンをきゅっと結び直し、
洗濯と補修を終えたばかりの、”例のドレス”が入った籠を肘にかけ、ひとりごちる。
(このドレス、洗って直すのにどれだけかかったと思ってるんですか……)
(途中で本気で「これ、何かの呪詛でも受けたんじゃ……?」って、呪い返しそうになりましたよ)
ルナリアの部屋の前に立つと、ふと昨日の朝の記憶がよみがえる。
――昨日の朝。
いつもどおりノックをすると――
扉がほんの少しだけ開き、その隙間からぬっと現れたのは、細く白い腕。
その、ほっそりとした指先がつまんでいたのは――
泥と草でドロドロになった、見るも無惨な礼装ドレスだった。
「え……っ」
「……少し転んでしまいましたの」
(……いやいやいや。これで“少し”って言い張るの、お嬢様くらいですからね)
そっと広げた瞬間、ぱらりと枯れ葉が落ち――
ボトッ。
おまけに、固まりかけた泥までが盛大に床へと落下した。
(お嬢様……神殿の花壇に、ダイブなさいました?)
それは、森を全力疾走したあと、畑にスライディングして、
最後の仕上げに花壇へ大の字で飛び込んだのか、と思うような――壮絶な有様だった。
あきれを隠さず、ミレーヌはドア越しに声をかける。
「なぜ、とは聞きませんけど……これ、わたくしにどうしろと?」
「そうね。大切なものなの。元通りに。ミレーヌ、お願い……」
(……その甘え声だけで許されると思ってるあたりがもう……ずるいんだから)
扉の前で、ミレーヌはふうっと小さくため息をついた。
(……正直、あのドレスを見た瞬間は、「いじめに遭った」って聞かされた方がまだ納得できましたよ。ほんとに)
――とはいえ、お嬢様が“いじめられる側”になるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ませんけどね。
あの方に本気で噛みつける人間がいたら、むしろ一度お話してみたいくらいですわ。
……そんなお嬢様が、泥と草にまみれて帰ってくる日が来るなんて。
「――あれはもう、“奇行”を通り越して、“破天荒”ってやつですね」
ぽそっと口に出すと、自分で言った言葉に苦笑してしまう。
口元に手をあて、くすっと小さく笑った。
(でもまあ……なんだかんだで、今日もこうして朝は来るんですから)
気を取り直して、ドアの前でぴしりと背筋を正す。
こんこん。
二度、礼儀正しくノックを打ち込んでから、耳を澄ませる。
返事は……ない。――うん、これも想定どおり。
「……お嬢様、ミレーヌです。入室いたしますね」
そう告げて、扉を静かに開け、中へと足を踏み入れた。
扉を開けた瞬間、外よりも一段としんとした空気が、ミレーヌを包み込む。
まだ夢の名残が残るような、ほんのりと甘い香りが漂っていた。
(……シナモン? お嬢様、気分を切り替えたかったのね)
日が昇るよりも早く起き、主の部屋を整えること。
それが、ミレーヌの日課であり――そして、ちょっとした“誇り”でもあった。
「……失礼いたします」
ミレーヌは静かに足を進め、窓のカーテンを手早く開ける。
冷たい空気と一緒に、やわらかな朝の光が部屋に差し込んだ。
昨日洗い上げたドレスをクローゼットに戻し、
机の上では羽ペンとインク瓶の位置を整えて、手紙用紙を一枚、ぴしりと新しいものに差し替える。
そして――
ふと、部屋の中央にあるふかふかのベッドへと目をやる。
真っ白な肌に、長いまつげ。
金糸のような髪が枕の上にふんわりと広がり、整った寝顔はまるで精巧な彫刻のようだった。
――けれど、よく見ると、ほんのりと眉間に力が入っている。
「……今日は、ほぼ、いつも通りみたいですね。よかった」
ミレーヌはそっと胸をなでおろし、口の端をほんのすこしだけ緩めた。
(お見かけはまさに“お姫様”なんですけど……中身は、どうにも追いついていらっしゃらないんですよね)
そして、心なしか呆れたように、でもどこか嬉しそうに、心の中で呟く。
(……この寝顔で”氷の百合”とか“奇行令嬢”なんて、貴族の噂もいい加減ですわ。
――まあ、実際に“奇行”してるのは、事実ですけど……ええ、むしろ規格外ですけど)
昨日は学院でも持ち切りだった噂。
ルナリアの“奇行”と、夜会での王子と聖女の舞踏。
もちろん、ルナリア付きの侍女であるミレーヌは質問責めにあったわけだが――
「いつも通りでいらしたわよ」で押し通した。
(ドロドロのドレスと、あの吹っ切れた表情を思い出すたび、もう笑うしかないですわ)
(……いえ、これ以上考えるのはやめておきましょう)
ベッドに近づき、落ちかけた毛布をそっと整える。
「まったく……もう少し“自覚”を持っていただかないと――」
そう口にしながらも、その指先はやさしく、ひどく丁寧だった。
ティーセットを整え、白磁のカップにはクロスをふわりとかけておく。
朝の一杯は、ルナリア自身が淹れる――それが“こだわり”であり、“習慣”であり、何より“譲れない領域”なのだ。
(……まあ、正直そこだけは妙にストイックなんですよね、お嬢様)
ティーセットに手紙、ぴしりと折り目のついた制服、そしてラベンダーの香りがほんのり残る柔らかなタオル。
“完璧”な朝の支度が、音もなく整えられていく。
あとは――主の目覚めを待つだけ。
ミレーヌは髪のブラシを手に取り、ベッドの傍にそっと屈んだ。
「……お嬢様、そろそろお目覚めを。本日は“奉仕日”でございますよ?」
軽やかで、ほんのり含みを持たせた声音だった。
返事は――ない。
まあ、想定内だ。
「ちなみに、寝坊されますと……昨晩は花壇にダイブしたうえ、池で優雅に泳いでいたという噂が立つかもしれませんよ?」
ほんのり脅しのスパイスを効かせて、囁いてみる。
――すると、ようやくまぶたがぴくりと動いた。
「……ふぁ……おはよう、ございますわ……ミレーヌ……」
「ごきげんよう、お嬢様。完璧なお目覚め、ありがとうございます」
ミレーヌは背を向けたまま、さらりとひとこと添える。
「……寝癖は、完璧とは申し上げかねますけれど」
「ふふっ、ミレーヌったら……でも、そういうところ、けっこう好きよ」
そんなやり取りを交わしながら――
今日もまた、“氷の百合”と呼ばれる少女と、そのちょっぴりスパイシーな侍女による、少しだけ騒がしい朝が始まる。
(――どうか今日は、花壇に飛び込まずにすみますように。
お洗濯と、わたくしの心の平穏のために)
***
セレスティア神聖国
王立学院・中庭(午前)
セレスティア王立学院には、月に一度――
すべての者が“平等”になる、とされる特別な日がある。
その名は、奉仕日。
この日だけは、貴族であろうと平民であろうと、例外なく“奉仕服”に着替え、学院の清掃や整備、共同作業に従事するのだ。
「身分の差はあっても、天の下に生きる者は皆、同じように土に触れるべき」
それは、はるか昔千年前の、“原初の聖女”が残した、教えの一つ。
(とはいえ、実際には……)
ルナリアの周囲――
少し距離を置いて、黙々と作業する平民の生徒たち。
一方で、建物沿いの日陰には、貴族の一団が集まり、手元を汚すことなく箒を揃えていた。
時折、くすくすと笑い声が聞こえる。まるで「見世物」でも眺めるかのように――
誰が決めたわけでもない。
けれど、現実には――汚れる仕事は平民、
見映えの良い仕事は貴族と、
暗黙のうちに役割は決まっていた。
ルナリアは、ぽつんと花壇の前に立ち、うんざりとした目で、自分の足元に広がる花壇を見つめた。
スコップ、くわ、手袋、麻袋――
そして、朝からなぜかやたらと気合いの入った、脳内のまひる。
『さあっ! 本日は社畜ではなく奉仕畜! 耕して耕して耕しまくるっすよ~!』
(今日も朝から “スイッチオン”なのですね……)
今日のルナリアは、いつもよりほんの少し、言葉を飲み込まずにいた。
なぜなら、あの夜の気づきが、まだ胸のどこかで燻っていたから。
この土の匂いも、風のざわめきも、そして彼女の隣の声も――
すべてが、いつもより少しだけ近く、あたたかく感じられていた。
再びルナリアの中にふわりと浮かぶ、まひるの声。
『……ふふふ、見てくださいよルナリアさん!
この流れ、“破滅フラグ回避ルート”一直線ですって!
善行イベントは、乙女ゲーの基本!――好感度爆上げの王道ですから!』
(……あなたもいらしたのね)
(すっかり“忘れて”ましたわ。 いえ、忘れようとしていたのですわね)
――そうでなければ、わたくしが“自ら動いた”ことにはなりませんから……。
『えーー!?ひどくないですか!? さっきもしゃべってたじゃないですか!?
せっかくルナリアさんの好感度アップに貢献してるのに~!』
(……自覚があるなら、少し黙っててくださる?)
(とはいえ、この空気は……さすがに想像以上ですわ)
(予想していたとはいえ、ここまで視線が集まるとは……)
いつも通り制服から奉仕服に着替えた後、いつもの講堂ではなく、何故かここ“中庭”に足が向いてしまった。
近くで、あからさまに期待に胸を膨らませている者。
少し離れた場所で、ちらちらと様子を伺う者。
遠くでは、今か今かと冷笑を浮かべる者。
先日の“ルナリア様の善行”――迷い猫探しやお年寄りの介助、雑草抜き
――その噂は、もはや学院中に広まっていた
近くの平民生徒が目に入る――
そこには、まひるの“善行”をルナリアの仕業だと信じ切っている顔。
(……先日の件、完全にわたくしの善行扱い……)
「ルナリア様が、教会裏の雑草を抜いてくださったらしいよ」
「ほんと? あの“氷の百合”が? 冗談じゃなくて?」
「わたしのクラスの子……見たんだって。おばあさんを背負って歩いてたって」
「……それって、舞踏会を欠席してまで……?」
ざわめく声に、教師も目を細めながら言った。
「今日は学院の奉仕日です」
「……ルナリア様が、きっと素晴らしい“模範”を見せてくださるでしょう」
そうして皆の視線が――
金糸の髪を風になびかせた、たおやかな淑女に集まっていた。
*
『さあっルナリアさん! 本日は乙女ゲー名物! “奉仕日大事件ルート”突入っすよ~!?』
(……お願いですから、その“事件”という予感だけは外れてほしいですわ)
――そしてこの日の出来事が、学院の“空気”を変える“小さき”一歩になる。
※最後までお読みいただき、ありがとうございます!
本日はもう一話、8時頃アップする予定です。
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