第14話「社畜と悪役令嬢と、仮面なき仮面舞踏会」 エピソード⑬
王立学院・舞踏会ホール(夜)
立食パーティ
「そして――僕の婚約者はただ一人。ルナリア――君だ」
――ルナリアは、そう宣言したラファエルの姿を焼き付けるように、彼の瞳を見つめ返していた。
『やばい! 尊い……』
まひるの声が心に響き――やがて、そっと瞼を伏せる。
これが――春の夜会でわたくしに伝えたかったこと……ですのね……。
ふと、その唇に自然と微笑みが浮かぶ。
今だからこそ、素直に受け止められる――
ずっとわだかまっていた胸のつかえが取れたような、そんな微笑みだった。
――静寂が落ちた瞬間。
座り込んだままのプリシラは、胸を鋭く突かれたように息を呑んだ。
(……嘘……聖女様ではなく……あの女を……?
どうして……教典の定めでは、聖女様こそが王妃となるはず……!)
理解できない。認められない。
けれど、王太子の瞳に宿る決意が、彼女の祈りも願いも、踏み砕くように突きつけられていた。
(いや……いやよ……そんなの、間違ってる……!)
震える唇を噛みしめても、声にはならない。
ただその場で、彼女の信じてきたもの全てが音を立てて崩れ落ちていった。
ルナリアは目を上げると一歩。
真っ赤に染まったドレスのまま崩れ落ちたプリシラへと近付く。
「わたくしからも一言――今回のことは水に流しましょう」
そう言うと、自然な仕草で彼女に手を伸ばした。
ざわり。会場から囁き声が飛び交う。
プリシラはぼんやりとしたまま目を上げ、自分に手を伸ばすルナリアの姿を捉えた。
信じられない光景に目を見開いた。
(水に流す……?
それになぜ……どうして、嘲り罵るでもなく、わたくしに手を……?
敗者への慈悲? 勝者の余裕――?
それとも――惨めなわたくしへの哀れみ……?)
心は混乱と否認に渦巻きながらも、身体は動かない。
(なぜ、そんな顔でわたくしを?)
目に映るのは、燭火に照らされたルナリアの顔と、差しのべられた白い指。
嘲笑するでもなく、蔑むでもないその表情。
一同は固唾を飲んで見守る。
ルナリアは小さく微笑むと、そっと彼女の手を取り、くいと引き上げた。
プリシラはその手を振り払いはしなかった。
いや――振り払えなかった。
(間違っているのは……わたくしの方だとでも……?
違う、違うはず……でも――)
指先に触れた手は、驚くほど静かで温かい。
その静けさが、胸の言い訳の熱をひとつずつ冷ましていく。
そして――立ち上がった彼女に、ルナリアの言葉が静かに落ちる。
「けれど――わたくしはあなたが思うほど甘くはなくてよ?」
(……これは――脅し?
いいえ、そんな薄っぺらいものじゃない。
これは――場を“戻す”ための線引き……?)
彼女の紫の瞳は、わたくしだけを見ていない。
貴族たち、学院、王家の面目――この夜会の均衡そのものを見渡している。
(……わたくしの一挙一動も、この人の目には、盤上の小石のひとつ。
なら、いま起きたことは――彼女にとって“些末”)
かすかな疑念が胸を掠めた瞬間、その瞳は紫の光に貫かれた。
取り巻きのうち数名が腰を抜かし、血の気を失った顔でその場に座り込んだ。
「次は――容赦しません」
カタン――。
扇が一つ、床に落ちた。
プリシラの指先は、もう力を保てなかった。
(……慈悲でも、哀れみでもない。
”慈愛”?――いいえ、この人は聖女ではない)
そっと息を呑み、目を伏せる。
(……これは彼女の矜持。”“秩序を保つ者”の礼と責。
これが”王の隣に立つ者の器”だと?)
誰もが凍り付き、動けない。そんな沈黙がホールを包む。
勝敗は――決した。
やがて――。
ぱん、ぱん――。
静寂を切り裂くように拍手が響いた。
その主は――帝国第三皇女、ベアトリス。
花のような笑顔を浮かべ、
まるで、その緊張の糸を故意に断ち切るかのように。
「余興としては、下の下。
けれど――神聖国貴族の矜持、しかと拝見いたしましたわ。
これからも貴国との友好が続かんことを」
その銀の瞳は、心から楽しそうに笑っていた。
一人の貴族令嬢の断罪と失墜。それさえもただの余興。
そして、その目に映るのは“矜持”を示した、誇り高き公爵令嬢のみ。
誰もが思った――これこそが大フェルディア帝国第三皇女、ベアトリス・ディア・フェルディアであると。
そして、彼女を満足させたのは――
神聖国が誇る王太子婚約者にして公爵令嬢。
”氷の百合”、ルナリア・アーデルハイトその人である、ということを。
ラファエルが、アルフォンスが、シャルロットが、セリアもユリシアも、ヴィオラも拍手に加わり――
会場全体へ、静かな称賛の輪が広がっていった。
セリアは胸の前でそっと拍手を重ねる。
その青い瞳は、ルナリアを真っ直ぐに見つめていた。
(……よかった。
ラファエル様の隣に立つ資格をお持ちなのは――やっぱりルナリア様。
あなたにも――そして、その“お友達”にも――いずれ選択の時が……。
そして、わたしには使命を果たす時が……それぞれ近付いています)
微笑むセリアの横顔を見たプリシラは、血の気を失いかけた頬をさらに蒼白にした。
(殿下だけでなく、聖女様まで……お認めに? そんな……!)
そのときヴィオラは、小さく唇を噛み、広がる拍手の波を感じていた。
(ルナリア様……なんて気高く、綺麗で……。
わたしなんか足もとにも及ばないのに、どうしてこんなに――胸が苦しいの……?)
ベアトリスは楽しげに笑い、そっとわたしの手を握ってくれる。
(でも、ずっと憧れているだけじゃいや。
……いつか必ず、ルナリア様の隣に立てるように……!)
ヴィオラは、ベアトリスの手を強く握り返した。
――ルナリアは静かに視線を移す。
壁際に控えていたミレーヌは、ルナリアの視線を受けると近くに並ぶ侍女たちを促す。
青糸の刺繍が施されたエプロンドレスを纏った侍女たちは、俯いたままのプリシラの元へ。
侍女たちは主を支えようと、その肩にそっと寄り添う。
(……お嬢様……わたくしたちが不甲斐ないばかりに……。
どうか、折れずに、気高きままで――)
声には出さずとも、瞳にはそんな祈りが宿っているようだった。
侍女たちはルナリアの傍で小さく一礼し――主人の肘を支える。
侍女に支えられながら、一歩、また一歩と退いていく。
顔を上げる勇気はなく、ただ俯いた視界に赤く滲むドレスの裾が揺れていた。
(王の隣に立つ者に必要なのは”器”……。だとすれば――
わたくしが……間違っていたと……?)
胸の羞恥が、すっと冷えていく。代わりに滲むのは、遅れて届いた理解の痛み。
まだ、完全に認めてはいない。
けれど――芽生えた疑念はきっと大きく育ってしまう。
もう、かつての自信も誇りも、取り巻きの笑顔さえ、どこにもない。
最後に残ったのは、恥辱と――
己の愚かさを噛みしめるほかない、惨めな現実。
そして育ちつつある疑念の種だけだった。
自分に向けられたものではない拍手を遠く感じながら、扉をくぐる。
その背を追う会場の視線は、同情よりも冷笑に満ちていた。
そして――その後には誰も続かない。
だが、今のプリシラにとって、それは”些末”なことだった。
”矜持”が、”信念”が、根本から崩れたのだから。
ミレーヌは主の視線を受けて頷く。
ルナリアはただ静かに見送る――言葉は、もう不要だった。
*
アルフォンスはそっと視線を落とした。
(……兄上らしい。正しく、強く、誰よりも潔い答えだ)
けれど胸の奥では、鋭い棘が突き立つように疼いていた。
(”本命になれない王子”……か。
分かっていたはずなのに……それでも――)
静かな拍手の輪の中で、ただ一人。
まるで切り取られた別の空間にいるようだった。
ふと、彼女を抱きしめたこと、そして彼女の戸惑いを想いだす。
(まだ、僕にだって可能性は――あるはずだ)
ポケットに手を入れると、冷たい金属を握りしめ、その感触を確かめた。
激しく打ち続ける心臓の音がやけに勇ましくて――
アルフォンスは思わず苦笑を零した。
彼の横顔を――シャルロットは、そっと扇の影から見つめていた。
(……アルフォンス。
あなたの想い、そしてまだ諦めていないことも分かってますわ)
けれど、シャルロットの青い瞳には憂いはなく、むしろ楽しげな光さえ浮かんでいた。
(兄上も、あなたも。二人とも本気でルナを想っている。
……だからこそ、わたくしは口を出しません。
大切なあなたたちに、後悔だけはしてほしくないから――)
そっと瞼を伏せ、拍手を一拍遅れて重ねる。
その音は、誰のためでもなく、ただ自らの決意を確かめるためのものだった。
***
時刻を知らせる鐘が響き、会場からテーブルが運び出され、舞踏会の準備が整えられていく。
侍女や侍従の動きが慌ただしくなり、令嬢や令息のさざめきが徐々に大きくなる。
舞踏会ホールは、自然に舞踏会への期待と熱気に包まれつつあった。
ルナリアは壁際に立ち、周囲に立つ友が談笑する中、一人静かにグラスを傾けていた。
『あの子たち、ほんの少しだけ嬉しそうだったよね?
なんだかんだと、あの人もいいご主人なのかも……。
ドレスもミニスカじゃなくなってたね? 着替えたのかなぁ……?』
(ええ……そうかもしれませんわね……)
『あ! それより推しの宣言来ましたね! 尊い……』
まひるの喜ぶ声が脳裏に響く中、ルナリアは静かに無言で微笑む。
『ルナリアさん、あの言葉――』
(ええ……王太子として、ではなくただの“ラファエル”としてのお言葉でした……)
『うん、じゃあ――』
(ええ、”合格”ということになりますわね。今夜は――彼の手を取ります)
『やった―――っ! ついに推しとの舞いですね!』
(……そうですわね……。
……でも――わたくし緊張しているのかしら……。
……なんだか、変ですわ……)
ルナリアはふと眩暈を覚えて額に手をやり、わずかに眉をひそめる。
次の瞬間、視界が白く滲み、足元から力が抜けた。
(……あら……?)
『ルナリアさん!?』
「ルナリア!?」
「ルナ……!」
「ルナリア様!」
「お姉さま!!」
――視界が揺れ、世界が傾いた。
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