第13話「社畜と悪役令嬢と、みんなの甘々大作戦」 エピソード⑫
「もし、あなたからこの婚約を破棄なさらないなら――
わたくしから――」
ルナリアに投げつけられた言葉に、ラファエルの瞳が激しく揺れ――
静かな熱を帯びた声が、その言葉を遮った。
「ずっと、言えなかったんだ。 ずっと――君に似合う言葉を探していた」
短い沈黙。夜風が裾をすくい、彼の吐息が低くかすれる。
「――いや、それは言い訳だ。政務にかまけて、君を一人にしてしまった。
けれど、何を言うべきだったのか……ずっと迷っていたんだ」
抑えてきた声が、ようやく軋んで漏れたように。
月明かりに濡れた睫毛が、ひとつだけ震えた。
「あのときは、感情に任せて一足跳びに言いかけたけど……
本当に君に伝えなくてはいけないことが何か、今、気づいた」
(あのとき? 言いかけた?)
ルナリアは金の髪を揺らして小首を傾げ、ほんの少し眉を寄せた。
「もう迷わない」
月明かりがラファエルの輪郭を淡く浮かび上がらせる中――
ルナリアは息を飲み、無意識に胸元のペンダントを握りしめる。
身を半歩返した拍子に、ナイトガウンの裾が空気を含んでふわりと遅れて揺れた。
そして――静寂を切り裂いた。
「君が――好きだ!」
その瞬間、水鳥が池から飛び立ち、夜空へと消え――
月の下、ルナリアは呼吸を忘れた。
「ずっと、ずっと前から!
君との婚約を、僕がどれだけ待ち望んでいたか!
だから、君は絶対に渡さない! 弟にも、帝国にも、誰にもだ!」
夜の静寂にラファエルの声がこだまし――
胸元の月のペンダントが、鼓動に合わせて微かに温度を帯びた。
「……っ!」
情熱が空気を満たしたかのように。
一国の王太子として、無数の言葉を選んできた彼が――
このときだけは、たった一つの“感情”だけを、迷いなく選んだ。
それは、王太子としてではなく、ひとりの男としての“好きだ”だった。
それは、未来を手繰り寄せるような――勇気の一言だった。
月の光が彼の横顔を照らし、風に揺れたマントの裾が、彼の迷いを吹き払うように翻る。
頭が真っ白になった。
熱が頬の奥でふっと灯り、耳朶へと遅れてのぼっていく。
ルナリアはペンダントの鎖を指先でくるりと巻き、すぐに解いた。
(……落ち着きなさい、わたくし)
それでも胸の鼓動がいたずらっぽく跳ね、小さなため息がこぼれそうになって――
彼女はそっと唇を噛むのをやめた。
(――だめ。表に出してはだめ)
そっと顔の角度を変え、夜風に片頬を預ける。
ようやく考えられたのは――
そんな……ラファエル様がわたくしを? ……ずっと好き?
これは、ただの政略結婚。
王室と、有力貴族であるアーデルハイト家のつながりを強め――
同時に、妃としてふさわしい娘を王室へ迎え入れる。
ただそれだけのはず……。
こぼれた髪の一房が頬に触れ、彼女は指先でそっと耳へかけ直す。
(……どうして今さら……)
信じたくないのに、胸の奥に直接触れられたように、心がふいに震えた。
その震えは、頬の奥から胸へ、胸から――つま先まで、じわりと広がっていった。
思わず目を伏せると、足先の草が風に揺れる。
(そんな――わからない……)
風の音がかき消すはずの彼の声だけが、なぜか耳に残っていた。
その背中を、月がやさしく照らす。
月明かりが、彼女の髪と、薄手のマントとナイトガウンを通して柔らかな光の縁を描く。
揺れる裾が、心の動揺を映すかのように、そっと靡いていた。
小さく灯った火。
自分の心の奥底に灯ったそれを、どう解釈すればよいのか。
(……嬉しいの? まさか……。いえ、嬉しいのですね。
けれど、わたくしは――)
ルナリアはそっと息を整え、微笑の角度だけを一分深くする。
(――ええ、わたくしは、公爵令嬢 ルナリア・アーデルハイト)
――心は震えても、誇りは折れませんの。
マントの裾を親指と人差し指でそっと整え、ひと呼吸だけ置き――
踵をわずかに返すと、裾の流れをきれいに揃えてから金の睫毛を上げる。
「お言葉、うれしく頂戴しましたわ、王太子殿下。
――でも、それだけで落ちるほど、わたくしの心はかるくございませんの」
ルナリアは踵で石畳を、コツ、と一度だけ鳴らし、視線を上げた。
「ではひとつだけ――ご褒美みたいに聞こえますけれど、条件を差し上げますわ。
“王太子ラファエル”ではなく、ただのラファエルとして、行動でお示しになって。
採点は厳しゅうございますけれど、合格なら……今夜のお言葉の“続きを”、きちんと伺いますわ」
ラファエルが息を呑む。
彼女は可憐に一礼し、ほんのわずかに瞳を細めた。
「それまでは、殿下はわたくしの“婚約者”、わたくしは“政略上の伴侶”にすぎませんの。
順序はお守りくださいませ。
――お手を取られるのは、合格の“あと”ですの」
――けれどその頬は、ほんの少しだけ赤く染まっていた。
月がその色を照らし、風がそっと頬をなでた。
まるで、彼女にふっと生まれた熱を、やさしく冷ますかのように。
ラファエルは、ゆっくりと――しかし確かに、微笑んだ。
「……いいとも。次に言うときは、誰の許しもいらない。
合格を取りに行く、ただの僕として――何度でも言うよ」
それは願いであり、宣言だった。
もう彼は、ただの傍観者ではいない――
彼女の隣に立つ覚悟を、月に誓ったその夜。
それは、長い間封印された想いが動き出した瞬間だった。
風が吹いた。
そして、吹き抜ける風の中で――
三つの月は高みに静まり、二人の影を寄せて一つに細く結んだ。
夜はそれをほどかず、そっと見守っていた――。
――ルナリアは月光に銀の髪を一筋きらめかせ、耳元へすべらせてから、まっすぐラファエルへ視線を戻す。
そして、裾を指先で摘み、可憐にカーテシーを捧げた。
ラファエルは短く息を呑み、結ばれた視線を解けない。まぶたすら落とせなかった。
「――では、好きの証しを一つ。今宵の月を証人に。
“ただのラファエル”を――お待ちしておりますわ」
ふっと微笑むと、ルナリアは踵を返し、薄絹の裾が月をはらんで静かに流れた。
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